第三十八便 帰りたいなんて言わないでっ!
雨は小降りになって来たけど、まだ風が強く、遠くに見える崖際の波は激しいままだ。唸り声を聴きながら、オレたちは街の中、と言っても中心部をゆっくりと一周した。
当然
ところどころの軒下やがれきの影に、さっきヴィオレットが撃ったのウサギのような動物がいた。多分今じゃ、この街の主はこういう小動物や鳥なんだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
オレはちょっとこわごわと訊いた。
「何?」
お兄ちゃんが適当な路地を曲がりながら答えた。
「お、お兄ちゃんて、グリシーヌをどう思う?」
「どうって?」
「そ、その、かわいいとか、きれいだとか」
「ああ、かわいい子だよね。お姫様に対して失礼だけど」
ガーン。
お、怖れていたことが。
例え今何とも思ってなくても、多分淫行条例のないこの世界じゃ。
一刻も早く制定しないと。
でも、その前に被選挙権……。
オレ、三歳だけど。
「そのことで悩みと言うか、あれこれ考えてるんだけど」
す、す、既にお兄ちゃんの中にグリシーヌが住み始めた!
「ほら、俺、ここに来る途中、インフルエンザの話したでしょ? 病院に人を連れて行こうとして、救急外来に電話した話」
「あ、う、うん」
「でもね、その時、誰の件で電話したのか、思い出せないんだよ」
「え?」
「俺にとって大切な〝誰か〟だったはずなんだけど、それが誰かわからない」
「あ……」
「それだけじゃなくて、元の世界で大切な人たちがいたはずなんだけど、こう、頭の中にもやがかかった感じで、彼ら、彼女らの顔が見えない、名前も声も思い出せない。ただ、それに関連する事件なんかだけは漠然と記憶にあるんだけど」
「お兄ちゃん……」
「ただ、姫様姉妹に近い年齢だったような気もするんだよね。でも、近づくと遠ざかるというか、霧が濃くなる、っていうか」
オレがもう一つ怖れていたこと。
多分、グリシーヌやヴィオレットと言う脅威以上に。
お兄ちゃんに大切な人たちがいることは、嫌だけどいいよ。
でも、もしそう言う人たちとお兄ちゃんが再会することになったら。
つまり、元の世界に戻ったら。
オレはもしかしたら、こうやって考えたり、お兄ちゃんと喋ったりできなくなるかもしれない。
以前と同じように、お兄ちゃんがオレを大切にしてくれるのは漠然とわかる……かもしれない。
でも、それだけ。
お兄ちゃんがオレに話しかけて、オレが答えて、またお兄ちゃんが話して……。
そんなことはなくなっちゃうのかもしれない。
逆のパターンだってあり得る。
この世界にいることの条件が、お兄ちゃんの一部の記憶が失われていることかもしれない。
いや、そもそも、自称女神もグリシーヌのヴィオレットも王様も全部幻で、今、オレはお兄ちゃんと、あの崖から落ちてる最中かもしれない。
この世界は、オレがECU内で作り出した虚構かもしれない。
それでも、何でも、オレはお兄ちゃんとこうして話せる時間が楽しいし、永遠に続けばいいと思っている。
でも、お兄ちゃんは?
元の世界がいいの?
それとも、この世界で生きて行ってもいい、って思ってるの?
でも、もしこの世界にずっといられたとしても、ガソリンスタンドがある可能性はほぼない。
燃料の残量は25リットルくらい。携行缶と合わせて45リットル。
悪路だからか、思ったより燃費は悪い。
1馬時は最長で25㎞~30㎞くらいっぽいから、城から前線までで、最長210㎞。
この後、城経由で前線まで行ってまた城まで戻ってきたら、多めに見積もって545㎞。
それだけで、多分手持ちのガソリンの残量は数リットル。
そうなったら、オレはもう、ほとんどお兄ちゃんの役に立てない。
せいぜい通訳だけ。それも多分、お兄ちゃんがここの世界の言語を覚えちゃえばお払い箱。
燃料ケチって充電用にだけアイドリングしてもらいながら、後はほとんどただの鉄屑として過ごすのかな?
この世界の端っこで、何もできずに、燃料と充電が完全に切れるのを待ってるのかな?
「着いたよ」
そんなことをぐるぐる考えていたら、いつの間にか元の小屋の前に戻って来ていた。
「そろそろ日が暮れるね。たいしたものはないけど、俺たちは夕飯にする。嵐が去ったらすぐ出発できるように」
お兄ちゃんはそう言って、オレのダッシュボードを優しく撫でた。
「さっき俺は、大切な人たちを思い出せないって言ったけど、でも、フッフのことは覚えている。名前もなく、喋れなかった時のことも。〝人〟じゃないかもしれないけど、それはとても幸運なことだと思ってるよ」
そうしてエンジンを切りながらオレの分身には笑いかけた。
「そもそも、前の世界でも、この三年間で一番長く一緒にいたのはフッフだからね」
そうだ。
薬草を前線まで運ぶ、っていう〝仕事〟を受けた時点で、燃料のことなんてわかってた。
もしかしたら、前線から城に帰ることさえできないかもしれないことも。
でも、そんな短時間でも、オレはお兄ちゃんに従うよ。
だってオレは、〝荷車の騎士が駆る魔獣〟だから。
たとえ魔獣としての命が残りわずかだったとしても。
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