第3話 チュートリアル
3 チュートリアル
「お前こそ、おとなしく帰ったほうがいいぜ!」
張り巡らされた鎖の上に立つヒドゥンの篭手から、幾条もの鎖が善夜とオフィサー目がけて撃ち出される。
「善夜さん、手を出してください」
「は、はい……」
言われて善夜は慌てて手を差し出した。彼女の手を握ると同時にオフィサーの姿が掻き消える。
鎖が蛇のようにうねり、空中だけでなく屋上に放置されたままの段ボール箱や動かない児童たちの合間を縫って、剣帯と漆黒の剣を装備した善夜に近づいてくる。
『「アニマ」とは、人間界で言うところの「負の感情」ですが……』
善夜を支配下に置き――突如、かなり前に挙がった魔界の専門用語の解説を始めるオフィサーの声。
「うわわわわっ!?」
四方八方から襲撃を続ける鎖は剣を持った善夜の右腕が振るう剣が片っ端から弾き、あるいはいなし続けている。
『
「はあ……」
『つまり
「そ、そうなんですね……」
善夜はとりあえず相づちを打ちつつ、
(こんな状況で説明されても全然頭に入らないんですけど……)
心の中でポツリとぼやいていたりする。
「くそっ! 少しは当たりやがれ! エセ政府の下っ端
ヒドゥンは苛々しながら篭手を装備した右腕をブンブン振り回し、やたらめったらに鎖を放ちまくる。しかし、
「でも……だからって、何でわたしがやらなきゃいけないんですか……!?」
それでも鎖はことごとく善夜の右腕の振るう黒い剣の餌食になり、善夜も会話に余裕が出てくる始末。
『彼を取り締まらなければ、あなたは搾取で滅ぶことになります』
「……べつにいいです」
相変わらず淡々と語るオフィサーの声に対し、善夜は寂しげに笑って答えた。
彼女の右腕は止まることなく働いている。
「生まれてからずっと虐められてるし、家族にも会ったことないし……みんな、わたしのことなんかいらないんですよ」
無理矢理作った笑顔が、徐々に悲しみに歪んでいく。同時に彼女の体から鈍色のもやが滲み昇っていく。
「だったら、生きてても無意味じゃないですか。 だから……」
『こちらがアニマになります』
オフィサーの声で善夜はもやに気づき、
「あ、これが……」
一瞬気を取られかけるも、すぐに我に返る。
「ってわたしの話、聞いて……」
『――では攻勢に転じましょう』
「あの、少しは聞いて……」
『右前方へ跳んでください』
「あ、はいっ……」
反射的に。
善夜がオフィサーの声の命令に従って屋上の床を蹴った、その瞬間――
「――っきゃああああああああ!!?」
屋上を囲むフェンスを軽々と越え、彼女は大きく上昇した。
軽く地面を蹴っただけなのに。屋上の床がみるみる遠のき、周囲の道路や民家が視界に入ってくる。
思い切り蹴ったとしても到底及ばない、人間には不可能な距離と高さまで善夜は飛び上がっていた。
『あなたを介して私の身体能力を使っております』
「わたしを介してってええええ!?」
放物線の頂点に達したのち、善夜の体は落下を始める。落ち着きかけた彼女の悲鳴が再び大きくなる。
『支配中は私があなたの体を借りているということです。命令に従いやすいように首から上はあなた所有のままですが』
落下しながら、善夜の右腕の剣が飛来した2本の鎖を弾く。
「よくわからないですけど! 勝手にヒトの体を借りないでくださいっ」
『すぐ下に見える鎖に着地し、前方の鎖に向かって飛んでください。さらに前方の鎖に跳んでいき、そこから2本上の鎖まで跳びます。着地したら8時の方角へ走ります』
「え……まずはあの鎖に着地して……次は……」
不安げに復唱しながら。善夜はオフィサーの声の命令通りに鎖の上に着地し、8時方向に身をひねり――『絶対に落ちない!』という強い意志とともに、園庭の上空に張られた細い鎖の上を走っていく。
『詳しい理屈はわかりかねますが、魔人(我々)と人間に共通して備わっている「意志」を介して一体化できるらしく……』
追撃する鎖は全て善夜の右腕の剣が弾き飛ばしてくれるが、『命令』の遂行で頭がいっぱいの善夜は説明を聞くどころではない。
「次にあの鎖まで飛んで……ええーっと……」
『そのまま2本上の鎖まで跳んでください』
「! わかりました!」
鎖の足場がしなるのに合わせて、善夜は上のほうに見える鎖に向かって飛び上がった。
無事に着地を終えた彼女は、不意に絶望の表情を浮かべて立ち止まった。
「どうしよう……反射的に従っちゃった……」
『今、拒絶されるのですね』
オフィサーの声が淡々とツッコミを入れる中、善夜の体はバランスを崩したように傾き――
「ぅやああああああああああああああああ!!!?」
真っ逆さまに落ちていった。
(さっきと同じっ……力が入らない……! このままだと……)
善夜の焦る気持ちをよそに地上がどんどん近づいていき、
――――……
重々しい音とともに。
遊び回っている状態で時を止められた児童たちの点在する園庭の真ん中に。
彼女は頭から突き刺さるように激突した。
パタリと仰向けに倒れ、ピクリとも動かない。
(うぅ……死んだ……絶対死ん………)
倒れたまま、善夜はハッと目を開けた。
「……あれ……?」
青空に鳥の群が浮かんでいる。
(思ったより……ううん、全然痛くない……?)
不思議に思いながら、彼女はゆっくりと身を起こす。
(体もちゃんと動……)
「――命令外の行動はできないと言ったはずです」
耳に入ってきたのは、ようやく聞き慣れてきた抑揚のない声。
善夜は慌てて振り向き、
「きゃあああああああ!!?」
絶叫する。
首があり得ない方向に折れ曲がったオフィサーが立っていた。
折れ曲がった箇所から漆黒のもや・アニマが細く昇っている。
「魔界公務員法で……」
オフィサーはゴキリッ、と慣れた手つきで首の方向を修正しながら、善夜に向かって歩いてくる。
「公務執行中に被った代行者の損害は、我々が肩代わりすることになっています」
「大変、ですね……」
跳ね上がった心拍を落ち着けるように呼吸を整えながら、善夜がふて腐れた表情で返す。
「……でも、わたしはもう……」
「人間(あなた)に断る資格はありません」
オフィサーの首から流れていたアニマが止まる。彼は座り込んだままの善夜を真っ直ぐに見下ろして言った。
「不法滞在者の発生する主な原因は、
嫌味なのか単に事実を伝えただけなのか。
相変わらず無を映す彼の表情からは、その気持ちを読み取ることはできない。
むしろ、まともに顔色を変えたのは善夜のほうだった。
「魔界外在留管理法の知識もなく闇雲に招聘手続きを進めた結果、不備につけ込まれたのです」
言われた彼女は返す言葉もなくじっとオフィサーを見つめ、動揺したままの目を伏せた。
そんな善夜に向かってオフィサーが身が屈め、
「いたっ……!」
物でも拾い上げるように。左手で彼女の腕を掴んで引っ張り立たせ――そのまま善夜の手を右手で握り直した彼の姿が掻き消えた。
『――12時の方向へ走ります』
「えっ……」
浮かび上がった『漠然とした胸騒ぎ』の正体を確認する間もなく。
再び自分を支配下に置いたオフィサーが前方に突き出した剣により、半ば引きずられるように走らされる善夜。
「ぃやああああああ!!?」
向かう先から迫ってくる幾条もの鎖は、右腕の剣が目にも止まらぬ速さで片っ端から弾き飛ばしていく。
「待ってっ……止まってください……っ!!」
必死に懇願する善夜の声を、公務を執行することしか考えていないであろうオフィサーが聞き入れるわけもなく、
『真上に跳びます』
自分の右腕が上に引き上がる。善夜は反射的に地を蹴るためにつま先に力を込める――が、寸前のところで我に返り、
「――やらないって、言ってるじゃないですか!!」
真後ろに向かって地面を蹴った。
(まずは
「――ぇぇええええええ!!?」
善夜の思考を止めたのは、彼女自身の驚きの叫び声と、もの凄い勢いで後方へ低く飛んでいく自分の体と――先ほどまで自分が立っていた場所に、様々な方向から飛んできた鎖が殺到する光景だった。
『あなたの命令外行動に合わせて動きを変更しました』
「なっ……――ぁうっ!」
声色ひとつ変えずに真相を教えてくれるオフィサーの声に反応すると同時に、善夜の体は何かにぶつかるようにして止まった。
「…………びっくりし――きゃああああああ」
本日何度目かの絶叫の理由は、自分の胸から突き出た子供の手だった。
年少の児童が友人を呼び止めるように前方に差し出した手が、彼女の体を貫いていた。
胸の傷口からは真っ赤な血の代わりに真っ黒なアニマが立ち昇っている。それを見た善
夜は我に返り、
「……オフィサー、さん……?」
呼びかけつつ自分に装備された剣と剣帯を確認するが、支配状態は継続中のようである。
「……大丈夫ですか……?」
念のため周りも見回してみるが、彼の姿は見当たらない。
「――さっさと死なねーからこんな面倒に巻き込まれるんだぞ」
「!!」
不意に目の前に着地したヒドゥンに、善夜は大きく息を飲む。
そのリアクションが気に入ったのか、ヒドゥンは薄笑いを浮かべた顔をグイ、と善夜に近づけて、
「それとも、まだ期待してんのか?」
その言葉で。
善夜の抱いていた『漠然とした胸騒ぎ』が、より明確なものとなった。
(この人が、わたしの……)
ショックに固まる彼女を現実に引き戻したのは、ヒドゥン目がけて放たれた半円を描くような黒い影の一撃。
「ぅおっと……!」
漆黒の剣を握る自分の右腕によって繰り出された横薙ぎが、ヒドゥンを後方の鎖へと飛び退かせる。
『今の状態から脱出します。前に進んでください』
オフィサーの声とともに。
善夜の右手は剣を素早く逆手に持ち替えると、勢いよく後方に剣を繰り出した。
彼女を貫いている児童の体に剣先を突き立て、その反動で串刺し状態を解消すると、
『追撃します。走ってください』
善夜の右腕は彼女を引っ張って強制的に走らせた。
ヒドゥンは余裕の笑みを浮かべて善夜を見下ろしている。右腕を振るって篭手から鎖を放ちながら、さらに後方の鎖へ飛び移る。
「考えてみろ。何でもやってきたのにどうしてみんなお前を無視するんだ? 何でお前は捨てられたんだ?」
「……!」
『聞く耳を持ってはいけません』
悲しみに顔を歪ませる善夜に、オフィサーの声が釘を刺す。この間に善夜の右腕が素早く動き、逆手に持った剣が鎖を撃ち返した。
鎖はヒドゥンに到達する前にピタリと止まり、ゆっくりとした動作で彼の篭手に収まっていく。
ヒドゥンは邪悪な笑みを善夜に向けて言った。
「答えは簡単だ。――お前が生きてる価値すらない、ゴミみてーな存在だからだよ」
その言葉に、今度こそ善夜の足が止まり――彼女の体がぐらりと傾く。
そして――
「――もらったぁ!!」
そこをヒドゥンが見逃すはずはなく――会心の笑みを浮かべた彼は、無数の鎖を従えて善夜へと飛びかかった。
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