四 押しかけ女房(四)


 それから数日を過ごしたが、青原あおばらには気持ちを打ち明けられていない。

 ただ、ずっと内に秘めていた想いを口にしたせいか、自分は青原のことが好きなのだと、以前より強く認識した気がする。

 青原といるともやもやの入るいとまがない程どきどきするようになってしまった。純粋にどきどきできるのは、平野ひらのがこの気持ちを肯定してくれた御蔭もあると思う。

 ぴとっ――

 と、ふとした瞬間に手が触れてしまっただけで、跳び上がるほどどきんとしてしまう。

 畑で雑草抜きをしていて手が重なったときには、動転して土の上をゴロンゴロン転がってしまった。

「大丈夫か?」

 と、青原は傍まで来て手を差し伸べてくれた。

「ご、ごめんなさい……大丈夫です……」

 不意でなければ普通に触れるのになぁと思いつつ、青原の手をとった。

 すると引き上げてくれるのかと思いきや、手をとったまま顔を凝視してきた。

 困惑する谷地やちは顔を逸らせず、青原の顔を見つめ返す。

 わたし顔赤くなってる……!? 赤くならないようにしなくっちゃ……っ。

 などとそぞろな意識を割く。が、当然赤くなっているのは言うまでもない。

 青原の顔はどんどん近づいてきて、とうとう耐えられなくなった谷地はぎゅっと目をつむった。

 すると青原は空いている方の手で谷地の頬をぬぐった。

 はれ? と、谷地は目をぱちくりさせる。

「顔にまで土が付いてるぞ。もうほとんど終わったし、先に上がって井戸で流してきたらどうだ?」

 ここでやっと青原は谷地を引き上げ立ち上がらせた。

「……はい……」

 そう返事したものの、魂が抜けたようにぽかーんとして。なにが起こったのか理解できるまで、谷地はそこに突っ立っていた。

 一方、残りの雑草を取りに背を向けた青原は、くっくっ、と、僅かに肩を揺らしていた。

 種を明かしてしまうが、青原はとっくのとうに谷地の気持ちの変化に気づいている。なんなら本人が自覚するよりも早いくらいで。

 気づいていてなにも言わず、谷地の反応を楽しんでいるのである。悪い男だ。


 そんなこととはつゆ知らず、谷地はまた一人溜め息を吐いていた。

 今度は青原にも見つかっては困る――というより一番見つかりたくない相手だ――ので、森の木陰で座り込んでいる。

 寺子屋のある方へ爪先を向けて、ぼーっとする。

 虫や鳥の鳴き声を聞き流し、樹のざわめきと共に風を感じる。

 そして思い出したように溜め息を吐くの繰り返し。

 しばらくそうしていると、ゆったりとした歩調で近づいてくる足音がした。

 振り向いてみると、一羽の青鷺あおさぎが向かって来るところだった。

 青鷺は寺子屋周辺にいるのをよく見掛ける。そのうちの一羽だろうか。

 危険な生物という印象もないため、谷地は近づいてくる青鷺をじっと見つめ、様子を窺った。

 青鷺とはこんなに人馴れしているものなのだろうか、谷地の傍までやって来て立ち止まった。

 するとばっと翼を広げて、ワンだかキャンだか、仔犬のような声で二度、天に向かって鳴いた。

 突然のことだったので谷地はびくっとしたが、次の瞬間には「へ~、青鷺ってこんな声で鳴くんだ……」と感心していた。

 その後も青鷺は何故かその場に留まった。不思議に思いながら谷地もその場を動こうとはしない。

 あまりにも傍を離れようとしない青鷺に、谷地はとうとう語り掛け始めた。

「ねえ、心変わりの早い女って、どぉ思う?」

 青鷺は首を傾げる。

「他の男の人に求婚していた女がさ、いきなりあなたの方を好きになりました!――って言ってきたら幻滅しない? ――ところであなた雄? 雌?」

 青鷺は二度首を傾げた。

「はぁ……」と溜め息を吐くと、立てた膝に頬をのせた。「青鷺は夫婦になったら一生添い遂げるの? 途中で相手を替えるひととかいない?」

 青鷺は首を傾げたままじっと谷地を見つめている。

「…………わたしだって、初恋の人と両想いになって添い遂げられたらって思ってたのよ。……だけど、好きになっちゃってたんだもん……っ」

 顔を伏せ、泣くのを堪えるように谷地はぎゅっと目を瞑った。

「――誰を好きになっちゃったって?」

「!!!??」

 突然聞こえてきた声に谷地は跳ね上がった。

 見るとそこには青原が立っていた。

「青原さっ……! どうしてここに……!?」

「谷地の姿が見えなかったから、青鷺たちに捜させていたんだ」

 青原が歩み寄って来ると、谷地の傍にいた青鷺がピョンピョンッとそちらへ移動した。青鷺は青原の回し者で、鳴いたのは谷地の居場所を知らせていたのだ。

(!!? ……鳥使い……)

 青原の衝撃的な一面を知り驚愕した谷地だったが、青原が近づいてくるともう一つの事実を思い出す。青原に先の話を聞かれてしまったのだ。

 心変わりしたことがばれてしまった。

 谷地は動揺し、目が泳ぐ。

 近づいてくる青原をチラチラ見て、出方を窺う。

 目の前までやって来た青原は屈み込んで、顔を覗き込んできた。

「谷地は今、誰が好きなんだ?」

「そ、それは、えっと、あの…………」

 青原が真っ直ぐ目を見つめてくるので、谷地は目が逸らせなくなっていた。指先でもじもじして、頬は赤らみ、逃げ腰なので上目遣いになる。

 もう言い逃れはできない。

 けれど、今一歩勇気がでない……――と、

「ちゃんと伝えてくれたら、僕もちゃんと応えるよ」

「…………」

 その言葉に既に相手が誰だかわかっているという意味が滲んでいることを、谷地も感じ取ったのだろう。

 谷地は伏し目がちに、

「……わたしが好きなのは、青原さん……です……っ。青原さんのお嫁さんになりたいっ……」

 きゅっと目を瞑った。

「うん」

 谷地は青原の顔を見た。

「なろうか。夫婦」


 過去にある男が青原のことをこう言った。

 ――解き放ったらもう戻って来ぬものだ。

 男の言葉は青原のことをよく表している。

 檻に閉じ込めていても彼のことを手に入れることはできない。

 では所帯を持つとはどういうことなのか。

 それは青原が背負っている書架。それにずっと入れて持ち続ける、お気に入りの一冊を見つけたと、そういう話なのだろう。


「あ、そうだ」

 谷地の手を引いて歩いていた青原が不意に振り返った。

「もう心変わりはさせないから」

「はひっ……」


     3


「――そういうわけで、谷地とは僕が夫婦めおとになることになりました」

 青原と谷地は二人揃って宗間そうまの私室へ報告に訪れていた。

「それは、おめでとうございます。――でも、そうですか……。孫の顔を見られる可能性が減ってしまったんですね……」宗間は物憂げに片手を頬に当てる。

「明け透けだなぁ先生」

 二人の結婚は心より祝福する宗間だったが、それはそれとして平野ひらのの嫁候補が減ってしまったことは残念がるのだった。

 そう。平野の元にはまだ佐島さじまが残っているのである。

 残っているのが佐島であるというのが平野にとって大問題。

 平野の悪夢の日々は続く。

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