三 押しかけ女房(三)


 青原あおばら指導による谷地やちの花嫁修業が始まった。

 寺子屋の家仕事をする青原の横に付いて、それを習う。

 料理、掃除、洗濯、裁縫、畑仕事。以下はこの寺子屋ならではだが、薬種の採取を頼まれて山へ入ることもあれば、集落の人との付き合いもある。

 大きな括りにまとめたものを羅列しただけでやることはこんなにある。家事をしている者ほど身に染みてわかるだろうが、これらは細かく分けられるものばかりだ。それはもう、考えれば眩暈めまいがしてくるほどに。

 人々が集って暮らしていた大昔の花嫁修業では、さらに御花、御茶、御琴など、芸事まであったというのだから、恐れおののく。

 そんな無数ともいえる修業の数々を、谷地は少しずつ覚えていった。

 優秀な者には他人に教えるのはかっらきしという者も少なくないが、幸い青原は教えるのも上手い方だった。長年子どもの世話をしていたからかもしれない。

 御蔭で谷地はそれほど苦労せず、家事の腕を磨くことができた。

 そうして修業の日々が過ぎていき、早くも三週間になろうとしている。

「――うん、上手くできてる」

 木桶に入った白い豆腐を見て、青原が言った。

「角も崩れてないし。ずいぶん上達したな」

「やったぁっ」

 平野ひらのの好物の一つが豆腐(木綿)と知ってから、谷地は豆腐作りに力を入れてきたのである。

「これなら平野さんも美味しいって言ってくれるんじゃないか?」

 一瞬、谷地の表情が固まった。

 手放しで喜んでいたのが夕方の朝顔のように萎み、

「はい……」

 なんとも心許ない返事。

「? どうかしたのか?」

「い、いえ……っ! ただ平野くんが気に入ってくれるか不安なだけです……」

 この三週間で、谷地には新たな悩みができていた。

「大丈夫だよ」

 青原は励ますように谷地の頭に手を置いた。

 すると谷地は所在悪そうにして、頬が少し赤らんだ。


「――青原さんっ。その、平野くんに可愛いと思ってもらうためにできることってないですか……!?」

 先とは別の日。谷地が尋ねると、青原は暫し開けた目と口を谷地に向けていた。驚いたり考え込んでいるというより、面白いものを見ているような表情だった。

「そうだな。見た目を変えてみるとか?」

「見た目!?」

 ガンッ、と、谷地は頬を手で覆った。顔から変えないと可愛いって思ってもらえないってこと……!?

くし、借りてもいいか?」

「あ、はい……」

 まもなく。谷地は青原に髪をかされている。顔ではなく髪型を変えようというのだ。

 少し緊張した様子でじっとしている谷地は、優しい慣れた手つきで自分の髪が梳かされているのを感じていた。

「…………青原さん、女性の髪結うの、慣れてるんですか……?」

「妹がたくさんいるようなもんだったからな。毎日のようにやっていた」髪切りもできる。

「そんなにたくさん妹さんいるんですか……!?」

「いるいる。弟もいるし、兄姉も数えきれないくらいいるなぁ」

(!??……)

 そのとき、谷地の頭には無数の卵から孵っためだかが浮かんでいた。青原の言う兄弟姉妹が血の繋がったものだと思い込んでいる谷地には、理解が及ばなかった。

 谷地が誤解していることに気づいていながら、青原は説明せずに続ける。

「妹の中には一部で“悪夢の女”と評判の子がいるよ」

「なんですかその怖そうな妹さんはっ……!!?」

 君の恋敵だよ――とは言わない。

 断言するが、青原は谷地の反応を見て楽しんでいる。

「――できた。鏡で見てごらん」

「…………」鏡に映った自分の姿に、谷地は目を見開いた。

 以前は結った前髪がちょんまげのようで、子どもっぽい印象だった。それが活発な印象が落ち着き、可憐で愛嬌のある御嬢さんといったものに変わっている。横の髪を捻って耳の後ろで留めているだけなのに。

「……どう……?」

 青原が尋ねると谷地はぱっと振り返り、

「可愛い! 可愛いです……!」

 と、きらきらした目を向けた。

 それはよかったというように、青原は微笑みを強めると、

「平野さんに見せてきたらどうだ?」

 ぴたりと、谷地の表情がまた固まった。

 そして顔を陰らせ、

「そう、ですね……」

 谷地の悩み。それは青原が平野のことを口にすると、胸の辺りがもやもやするようになったことだった。

 花嫁修業として青原と過ごすうち、谷地は心変わりしていた。

 今では谷地自身、それを自覚している。

 そのことを誰にも、青原にも打ち明けられずにいる。

 以前と変わらず、平野のことを好きであるという体で接している。

 寺子屋に押しかけて来てまだひと月も経っていないのだ。なのにもう心変わりしたと知れたら、青原に幻滅されてしまう。

 そうなることを恐れて、谷地は気持ちを隠していた。


 体裁を繕うため、谷地は平野の元を訪ねる。

「平野くん……」

 おずと敷居の向こうから声を掛ける。

「今いい……?」

 平野は自室の布団で上体を起こして書物を読んでいた。近頃は随分調子が良くなり、長時間起きていても問題なくなっている。食事と体力をつけるための訓練時以外は、時間を持て余しているくらいだ。ただ、今も一緒になって書物を覗き込んでいる佐島さじまがぴったりとくっついているせいで、顔色は一向によくなって見えないが。

「いいよ。どうした?」

 髪型変えてみたんだ! どうかな!?

 そう、尋ねに来たつもりだったのに、口から出てこない。

 そして、意を決したように谷地が口から吐いたのは、別の言葉だった。

「……あのっ、話が、あるんだけど……」

 尻すぼみになりながら、谷地はちらちらと佐島に視線を向けた。話があるのは平野だが、佐島にまで聞かれることに躊躇ためらいがあるようだ。

 谷地の真剣な様子と、視線の意味を平野は察した。

「――佐島。ちょっと外してくれないか……?」

 佐島は暫し平野の目を見つめると、

「いいよ」

(いいんだ……!?)と思ったのは谷地である。

 そのまま佐島はするすると部屋を後にした。

 いつも平野にべったり纏わりついていた佐島があっさり引いた驚きのあまり、谷地はしばらく丸くなった目をその者が去った方向へと向けていた。

「……平野くん、あの人に離れるよう言えたんだ……。いつもはどうして言わないの……??」

「好きにさせておくのが一番被害が軽そうだから……」

 佐島がいなくなったというのに平野の顔は蒼い。どうやら平野にとってもどきどきの発言だったらしい。

「…………あの人――青原さんか……?」

「なんでわかったのっっ!!?」

 赤面して叫んだ谷地に、その場が一瞬固まる。

「いつも二人で色々してるだろ。だからその髪もあの人に教わったかなんかかと」

「髪……あ、髪かぁ……」

 誤解に気づき、谷地は赤い顔のまま視線を下へ逸らした。同時に脱力したように座り込む。

「髪以外になんかあるのか……?」

「…………っ」

 目も口もぎゅっと固く引き結び、膝では皺が残りそうなほど強く、両の拳で着物を握りしめる。

「……っ……わたし……青原さんが、好きになっちゃたの……っ」

 勇気を振り絞って告白した。

「……だから、平野くんのお嫁さんにはなれません……」

 そう言い切って……しかし、平野の顔が見られない。

 平野の反応が怖くて、またぎゅっと目をつむった。

 ややあって平野は、

「……そっか。ちゃんと好きな人ができてよかったな」

 谷地は顔を上げた。

 そうして見た平野は、優しい顔をしていた。

「――――」

 平野の言葉はまるで、自分のことは好きじゃなかったもんな、と、言っているようだった。

 胸の底から感情が込み上げてきて、気づくと谷地は声を張り上げていた。

「――ちゃんと好きだったよっ! 平野くんのこと、ちゃんと好きだった!」

 平野は目を丸くした。

「……それは、本当なの……」

 そう言った谷地は、また俯いてしまった。

 心変わりした人間がどの口で言っているのだろうと思う。

 けれど平野に誤解してほしくない。

 あなたに恋をしていた人間は間違いなく存在したのだと。

 あなたはそれほどに魅力のある人なのだと。

 そんなことはないと、平野に誤解していてほしくなかった。

「……うん」

 谷地は再び顔を上げた。

 平野は困ったような、苦笑を浮かべていた。

 ――ああ……わたしの初恋は、間違っていなかった。

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