五 旧友との再会

     1


 小柄な人影が森を抜け、寺子屋のある集落に辿り着いた。

 青々と背を伸ばし、穂をつけ始めた稲が辺り一面に広がる棚田、奥に立ち並ぶ十を超す家屋。

その光景に手甲を着けた手で笠を上げた男は、「こいつぁすげぇや」と言わんばかりの、感嘆の笑みを浮かべた。


 まもなく、

「ごめんくだせぇ」

 と、寺子屋に来客があった。

「はーい」と宗間そうまが応対に出る。

 来客の姿を認めた宗間は、驚きと歓喜に大きく目を見開いた。

五木いつき……!」

「おおっ、久しぶりだなぁ宗間。坊主になったあたま以外全然変わんねぇな、あんた」

 寺子屋建造に大きく関わった宗間の友人、五木であった。

 別れてから十数年。二十五だった五木もすっかり「おやじ」になっているが、太く精悍せいかんな眉と威勢のよさは当時から全く変わっていない。

 さっそく囲炉裏のある部屋へ五木を通し、宗間は御茶を淹れ始めた。そう、自分でだ。数週間前に結婚を決めてからも変わらず寺子屋で働いている青原あおばらだが、今は外に出ていていない。押しかけ女房をして寺子屋の手伝いをしていた谷地やちも、今では集落に構えた居で主婦をしているし――幼妻ということで祖父母の元とを行ったり来たりしているらしい――、平野ひらのは家事に復帰してはいない。随分回復しているのだが、青原がいることもあって、体力づくりに精を出している。そして佐島さじまは問題外だ。

 五木は嬉しそうに部屋のあちこちを見回しながら宗間を待った。その間、宗間のいる台所の方でガチャン、ごとん、バサーッ、と、騒がしい音が聞こえていた。

「お待たせしました」

「おう。怪我してねぇか?」

「湯吞を割った前提で訊いてますね」

「火傷の可能性もある」

「どこも怪我していませんよ」

 宗間が一人暮らしをしていた頃を知る五木からすれば、危なっかしいを通り越して危ないながらも、宗間が自力で家事をするのが当たり前であった。

 懐かしいやりとりに、二人は揃って噴き出した。

 五木は湯吞を受け取ると視線で寺子屋を示し、

「大事に住んでくれてるんだな」

「もちろん。子どもたちが行儀のいい子ばかりで、今のところほとんど修繕いらずで過ごせていますよ」

「そいつぁちと残念だな。どんなボロも直してやろうって、気合い入れてきたのによ」

 冗談めかして言った五木に、宗間は「ふふふ」と笑った。

「そういやぁ、がきんちょたちは元気にしてんのか? 荒野あらのやちづさんは?」

 宗間の顔が陰る。

「……荒野たちは――」


 二人は寺子屋の裏にある墓石の前にやって来た。

 五木は一番大きな石の前に屈み込む。

「まさか荒野がおっちんじまってるとはな……。っ……夢にも思わなかったよ……っ」

「…………」

「あんな……熊とやりあってもピンピンしてた男がよ……っ。こいつぁ全身に矢が刺さろうが、刀で斬り刻まれようが、死なねぇんじゃねぇかって……そいつが地滑りなんかで……っ……。あいつなら土砂の下から這い出てきそうなもんじゃねぇか……!?」

「……わたしも……遺体を目の当たりにするまで、そう思っていましたよ……」

「っ……あんたはこれを一人で乗り越えたんだよな。すまねぇ」

「いいえ……。わたしも一人ではなかったんですよ。平野が一緒だったんです」

「平野って、荒野とちづさんのガキの……?」

「ええ。今は山へ散策に出ていると思いますが、変わらず寺子屋に」

「ははっ。そうかそうか。そいつぁ一目会っていかねぇとな」

 笑う五木に宗間も微笑みを零す。

 五木は墓石に向き直り、

「『鬼』に喰われて遺骸も墓もねぇって人間が大勢いる中でよ、こうして弔われて……考えようによっちゃ、恵まれた死に方かもな。なぁ荒野」

 語り掛ける五木の背を、宗間は数歩後ろから見つめていた。

 五木は宗間を振り返ると、

「なぁ宗間。話の続きはここでしねぇか? こいつ荒野の分の茶も持って来てさ」

 五木の提案に宗間は微笑んで、

「ええ。――でも、荒野はお酒の方がいいと言うかもしれませんね」

「ははっ、ちげぇねぇや」


 荒野の墓石の前にむしろを敷いて座り、二人は互いのことを話し合った。

「――もっと早くに来たかったんだけどよ。結婚することになって。ガキもできたもんでさ」五木は後ろ頭を掻いて、照れ臭そうに言った。

「まあまあ! おめでとうございます」

「へへっ。ありがとよ」

「お子さんは何人?」

「息子が一人。これが嫁さんにそっくりでさ。気が優しいんだ」

 家族のことを話す五木はとても幸せそうだ。宗間まで幸せな気持ちになる。

「ふふっ。そうなんですね。ご家族は今どうしているんです?」

「家にいるよ。結婚してしばらくは俺も一緒に暮らしてたんだが、息子も大きくなったし。俺ぁ出稼ぎを再開したってわけよ。――つって、仕事は次いでで、ここに来るのが目的だったんだけどな」

 笑って聞く宗間に、五木は続ける。

「なぁ宗間。あんた別れる前に俺にこれくれたの、憶えてるか?」言いながら五木は、懐から小さい巾着を取り出した。宗間が『鬼』除けの香が入っているからと渡した、におい袋だ。

「……ええ」

 もちろん憶えている。『鬼』除けの香だと偽って、『鬼』を寄せ付けない自分の髪を入れて持たせたものだ。

 五木には結局、自身の体質について話せず終いだった……。

「これさ。分けて半分家に置いてきてんだ」

 宗間は驚きの表情を浮かべた。それは五木が袋の中身を見たということだ。宗間の顔には恐怖も滲んでいた。

 そんな宗間の反応を見た五木は、苦笑を浮かべた。

「実はさ。宗間たちと別れたその日に中身は見ちまってたんだ。すぐにあんたの髪だって判ったよ」

「…………」

「そんときにふっと思い出してさ。あんたが自分は『鬼』を寄せ付けない体質なんだって言ってたって。あんとき、俺が信じそうになかったから嘘吐いたんだろ? あんたは本当のことを言ってたのによ」五木は正座して改まると、「すぐに信じてやれなくてすまなかった……! ずっと嘘吐かせちまってすまなかった……!」と頭を下げた。

「…………」

 ずっと胸につかえていた。五木に嘘を吐き続けていたこと。真実を打ち明けられぬまま別れたこと。

 出会ったときには嘘で丸め込むことになんの罪悪感もなかった。

 それが親しくなれば親しくなるほど、苦しくなっていった。

 こんな嘘を吐き続けて、本当の友と呼べるのか。

 けれどありのままを打ち明けたら今の関係が壊れてしまうのではないかと、怖かった。

 五木と離れていたこの十数年、ふと思い出しては気にかかっていた。

 におい袋を渡すとき、袋を開けないようにとは敢えて言わなかった。中身を見た五木がすべてを悟る可能性もあると、わかった上で渡したのだ。切り離した髪に『鬼』除けの効果があるのか、確証もありはしなかったのに……。

 再会を約束した五木が訪ねて来ないのは袋の中を見たからではないか。わたしのことを気味悪く思ったのではないか。もしくは騙されていたとわかり、怒っているのではないか……。そんな風に思うこともあった。

 しかし、五木は今こうして頭を下げている。

 この十数年、気にかけてきたのは五木も同じだったのではないか。

 胸につかえがあったからこそ、あんなに幸せそうに話す家族を置いてまで、会いに来てくれたのではないだろうか。

 ――今のあいつなら信じたと思うぞ。

 本当ですね、荒野。

「……頭を上げてください」

 恐る恐る上げられた五木の顔は、心底悪いことをしたと思っている者の顔だった。謝るべきは自分のほうだと、宗間もまた思っているというのに。

「……長い間、君を苦しめることになってごめんなさい。本当のことを打ち明けられなくて、ごめんなさい……」

「っ、それはあの状況じゃしかたねぇって……!」

 ふる、ふる、と、宗間は首を振った。

「そうだとしてもです。……五木。会いに来てくれて、ありがとう……」

「――――」

「これからも、友でいてくれますか……?」

「っ……おうっ! あったりめぇよ……!」

 照れ臭そうに鼻の下を擦る五木は、しかし心底嬉しそうに、威勢のいい返事をした。

 ――五木は友の言葉を真正面から受け止めてくれる、器の大きな人でしたね。


 そのあとも二人は久しぶりの談笑を楽しんだ。

 しばらくすると平野と佐島が帰ってきて、五木は平野の顔を見るなりわちゃわちゃと頭を撫でまわした。

 平野の元気そうな顔を見て一つ満足した五木は、集落の家屋を見たいと言い出し、宗間と二人で様子を見に行った。

 宗間が間に入ったこともあり、五木と集落の男衆はすぐに意気投合した。古い家屋ばかりのこの世にあって、一から家屋を建てた職人同士、会話が弾んでいる様子であった。

 その日一晩寺子屋に泊まると、五木は宗間の元をあとにした。

 短い滞在であったが大変有意義で楽しい時間であったと、五木は言った。

 もう少しゆっくりしていってもいいと宗間が言ったが、早く家族の元に帰りたいのだと五木は返した。旅して回るほうが性に合っていると言っていた男が、変わったものだ。

 別れ際、五木は宗間にこう言った。

「もう会うこたぁないかもしれねぇが、もし会うことがあんなら次はじじいになったときだな」

 にっかと笑う五木に、宗間は微笑んで

「ええ」

 と返した。

「そんときにはお互い孫ができてるかもしれねぇな」「まあ」と、冗談めかした台詞に二人はくすくす笑い合った。その会話を傍で聞いていた平野だけは冗談じゃないといった顔をしていたが。

「じゃ」と大きく手を振って去っていった五木は、寺子屋が完全に見えなくなるまで、振り返り振り返り歩いて行った。

 宗間もまた、五木が森の中へ消えるまで、その姿を追っていた。


 もう二度と会えぬかもしれぬ友。

 それでも変わらぬ。君たちは生涯最高の友。

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