一 押しかけ女房(一)

 あゝ、あなたのたかのように鋭くもどこかうれいを感じさせる瞳。熊の毛のように太く硬そうな逆立った髪の毛。健康的に焼けた小麦色の肌。袖から覗く筋張ったその腕に、わたしの胸は高鳴った。

 山犬を思わせる野性的な見掛けに反して、物静かで、堅実で、家庭的な、愛しい人……。

 あなたに会える日が楽しみで仕方がなかった。

 あなたに会えた日は喜びでいっぱいだった。

 次に会えるのはいつだろう。会えたら言葉を交わせるだろうか。

 あなたへの想いは募るばかり。

 けれど、あなたはめっきり来なくなった。

 いったいどうしたのだろう。床に伏せっているのだろうか。なにも告げずに遠い所に越してしまったのだろうか。

 わたしの心は不安と切ない気持ちで押し潰されそうだった。

 しばらくしてあなたが家出をしていたことを聞いたわ。そして家に帰ったから来なくなったのだということも。

 決めた! あなたを捜し出して会いに行く!

 今行きます! わたしの未来の旦那さまっ!


     1


 季節はまだ、ハジメたちが寺子屋を発ってまもなくのことだった。

 平野ひらのはやっと回復し始めたところで、支えがなくてもしばらく座っていられる、という状態だった。食事をしっかり取りつつ、支えを使っての歩行訓練も始めた。

 このときの平野は縁側に腰掛け、ぼーっと過ごしていた。

「ひーいーくんっ」

 悪寒が走る中、視線を向ける。

「元気?」

 柔和な笑みを向けた愛らしい顔の少女――佐島さじまが立っていた。

「――っ」

 それを認めた瞬間、

「げぇええええっ」

 平野は嘔吐した。

「まあひどい」

 平野はげほげほと数回嘔吐えずくと、酷い色になった顔を佐島へ向けた。

「……っ……おま、なにしに……っ」

「ひーくんに会いに来たんだよ」


 それからというもの、佐島は寺子屋に入り浸るようになった。

 会いに来たという言葉がまことであるかの如く、平野の傍で適当に過ごすと、日が暮れる頃には去って行く。

人殺ひとごろし】の娘ということで初めは宗間そうまも警戒したのだが、同じく【人殺し】出身で佐島のことも知る青原あおばらが「【人殺し】の命で来ているのではなさそうだ。僕も目を光らせておくから、しばらく様子を見ないか?」と言うので、それに同調することにした。

 実際、数日経っても佐島がなにか悪事を働く様子はなかった。

 だが、平野の傍からはまったく離れようとしない。

 平野からすれば視界に入り込むだけで恐ろしいというのに、異様に距離が近い。共に生活していたときでもこれほど密着してきたことはなかった。

 日に日に平野の顔は青さを増し、やつれていくようだった。

 そんなある日、寺子屋に新たな来訪者があった。

「ごめんくださいっ」

 縁側からやって来る者が多い中、その声は玄関から聞こえてきた。勇んだ様子の高い女の子の声だった。

 宗間が応対に出ると、大きな荷物を背負しょった小柄な女の子が立っていた。歳は十二~十四といったところだろう。

「あのっ、ここに平野さんという人はいますか!?」

「ええ、いますよ」

 宗間の返事を聞いた女の子は、喜びで胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 そこへ聞き覚えのある声に嫌ーな予感がした平野が、壁に手をつきながらやって来た。来訪者の姿を認めるやぎょっと目を見開く。と同時、

「わたしっ!!」

 女の子は吸い込んだ空気を一気に吐き出すかの勢いでこう言った。

「平野さんのお嫁になりに来ました!!」

 宗間は「まぁっ」と口元を袖で覆い、平野はいっそうげんなりしたのだった。


 女の子の名前は谷地やち。ここからそう遠くない所――といっても山を越えなければならないが――で、物売りをしている祖父と共に生活していた。正確には祖母も一緒だが、祖母は父方、祖父は母方というややこしさのため、子細は省こう。

 彼女が平野と出会ったのは一年ほど前。平野が佐島含む【人殺し】のみなと最後に過ごした洞窟に住み始めてからのことだった。

 食料調達は主に【人殺し】の内の誰かがしていたが、炊事番をしていた平野自身が買い出しに出ることもままあった。

 その買い出し先が谷地の祖父であり、谷地は毎回祖父にくっついて来ていたので、必然的に知り合いになった。

 かと言って求婚されるような覚えは平野にはまったくない。

 佐島だけでもこの上ない悩みの種なのに、更に谷地まで加わるとは。

「おやおやおや。とりあえず上がって、お話聴かせてくれますか?」

 宗間が何処か浮かれた様子で谷地を招き入れる。

「! はいっ。お世話になります!」

(ただ話を聞くだけって言ってるのに……)

 平野は言葉を口にする元気もなかった。

 三人が居間へ行くと、そこでは佐島が座っていた。

「こんにちは」

 と、にこやかに見える顔を谷地に向ける。

「こんにちは……」

 谷地は誰だろうこの女の人と思いつつ、挨拶を返した。

 谷地が佐島を見つめて立ち尽くしていると、佐島は自分の隣の座布団をぽんぽんと叩き、

「ひーくん」

 と、平野にそこへ座るよう促した。

(ひーくん!?)

 谷地が目を見開く中、平野は促されるまま佐島の隣に腰掛ける。何処に座ろうと結局佐島が隣にやってくるので、平野はもう抗う気力を失くしていた。

 平野が腰掛けると、佐島は腕を組みぴっとりと密着した。

 その光景に、谷地は蛇を見た猫の如く、目を極限まで大きくし硬直した。

 まもなく、

「あ、あなた平野くんのなんなんですか……!?」

「んーー……ひーくんの忘れられない女?」

 ズガッ――ピシャッ――ゴロォーーンッッ

「おや? 今、雷鳴りました?」

 本物の雷ではなく、谷地の脳天に落ちた雷である。

 佐島の説明は間違いではないが、この状況であらぬ誤解を生まないわけがない。言った本人はわかっているのかいないのか。

 とにもかくにもこの瞬間、女の戦いの火蓋が切って落とされたのだった。


 谷地は自分の嫁としての力を見せるべく、青原から仕事を奪って家事に奮起し。一方佐島は以前と変わらず平野に密着していた。捉えようによっては平野との仲を見せつけているようにも取れる。

 遊んでいるのか本気なのか、誰にも判別できないが、

たし愛人でもいいよ」

 などと佐島が言ってきたときには、平野は堪ったものではなかった。

 そんな攻防が数日続いたある日。

「で、平野。佐島さんと谷地さん、どちらを選ぶつもりなんですか?」

 二人きりになった隙に宗間が改まって訊いてきた。

「選ぶもなにも、嫁をとる気はねえよ……」

「おや。今時相手がいるだけでもありがたいことなんですよ。この先いい人が現れるかわからないんですから、どちらかに決めてはどうです?」

 平野は宗間の言葉に不快にも近い違和感を覚えた。宗間は何事も本人の意思を尊重する人間だったはずだ。それがやけに自分の意思を押してくるではないか。離れていた数年の内に変わってしまったのか? ……いや違う。

「……宗間。浮かれてるだろ……」

「そんな。なにを根拠に」

「顔に“孫”“見たい”って書いてあるぞ」

 あら、と、宗間は両頬に手をやった。図星であった。

 宗間は恥じらった表情でこほんと咳払いをすると、

「平野がどうしてもというなら無理強いはしません。ですが、せっかく好いて家まで来てくれたんですから、もう少し前向きに考えてあげてもいいんじゃないですか?」

「…………そもそも、佐島は俺のことを好きなわけじゃないと思うし……なに考えてるのかわかんねぇし……。谷地は他に歳の近い男に会ったことがないから俺のことを好きだと思い込んだだけだと思う。しばらくしたら目も覚めるよ」

「そんなこと……」

「大体、俺なんかを好きになるやつなんているわけないだろ。どこがいいのかさっぱりわかんねぇし」

 平野は自ら失笑する。

(おやおや、すっかり卑屈になって……)

 平野にはまだまだ養生が必要なようである。

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