第10話

 那瑠の足は止まらなかった。廃病院の裏手から抜け出し、今は地図にも記されず、行政記録からも削除された夜の廃村を駆け抜ける。桜の体は軽い。それは彼女が華奢だからではない。那瑠の腕に、今は迷いも躊躇いも無かったからだ。

「大丈夫だ、もう大丈夫だからな」

 胸元で那瑠のジャケットを握る桜の手は震えていた。声を掛ける度に、少しずつ力を取り戻していくのを那瑠は感じながら、廃村の外れにある廃教会へと向かった。

 そこはかつて裏世界にいた那瑠が逃走経路の一つとして使っていた、誰にも知られていない隠れ場所だった。

 鉄の扉を開けて中に入ると、埃と静寂に満ちた空間が二人を包む。ステンドグラスは割れ、礼拝堂の椅子はほとんど朽ちている。だが地下へ降りる階段の先、かつて密談や取引に使われていた部屋だけは、今も整っていた。

 那瑠はそっと桜を簡易ベッドに寝かせた。古びた毛布を掛け、水を差し出す。

「ここなら見つからない。NWPでも、この場所は知らないはずだ」

 桜は震える唇で水を一口含んだ後、ようやく顔を上げた。

「ありがとうございます、那瑠。私は……あのままもう……」

「言うな」

 那瑠は優しく、しかしきっぱりと首を振る。

「桜はまだ終わってない。ここで生きて、これから日常に戻るんだ」

「……那瑠は、那瑠はこれからどうするのですか」

 その問いに、那瑠は少しだけ沈黙した。しかし直ぐに背筋を伸ばして答える。

「私は、決着をつけに行く。私をこんな風にした奴らに、もう終わりだって言いに行く」

 桜は何か言いたげに那瑠を見つめた。言葉にはならなかった代わりに、力強く那瑠の手を握る。

「戻ってきてください、絶対に」

 那瑠はその手をぎゅっと握り返した。自分の手が、冷たい殺し屋のそれではなく、今は誰かを守る手としてあることを、強く実感していた。

「……ああ、必ず」

 那瑠はまた嘘を吐いた。


 教会の地下の別室に向かった那瑠は、静かにジャケットを脱ぎ捨てる。シャツの下には、さっきの戦闘で受けた小さな裂傷が滲んでいた。しかし痛みはもう気にならない。棚の奥に隠していた黒いケースを引き出し、丁寧に蓋を開ける。そこに並ぶのは、かつて自分が使っていた道具の数々。音を抑えた拳銃、サプレッサー、弾倉、ナイフ、スモークグレネード。手袋とホルスターもきちんと整えられていた。

「こんなもん、もう二度と触らないって思ってたのにな」

 呟きながらも、那瑠の手つきは慣れている。拳銃のスライドを引き、乾いた音を確認する。弾倉を差し込み、ホルスターに収めるまでに迷いは無かった。ナイフの刃先を軽く指先でなぞる。鋭さは健在だ。自分が兵器だった事を忘れないように作られた、あの頃の記憶が指先に焼き付いている。

「でも今はもう、ただの兵器じゃない。私は、私の意志で戦う」

 腰にホルスターを装着し、左右にナイフの鞘を固定。スモークグレネードは小型ポーチに詰め込み、羽織ったジャケットの内ポケットに地図と非常用の通信機を差し込む。

 準備は整った。

 最後に、鏡代わりに壁に掛けていた古びたガラスに自分を映す。戦闘服に身を包んだ少女の瞳は、どこまでも澄んでいた。曇りも迷いも無い。そこにいるのは、那瑠、その人だった。

「私が終わらせる、全部終わらせてやる」

 拳銃をジャケットの内側で握り締め、那瑠は教会を出た。夜の冷たい風が地下から這い上がり、那瑠の背中を押した。次に向かうのはNWPの中枢、最後の戦場。

 那瑠はフードを目深に被り、廃病院の裏手に回った。かつての搬入口、鉄の扉は錆びついているが施錠はされていない。何も知らない人間なら、そこに足を踏み入れようとは思わないだろう。しかし那瑠にとっては、かつて何度も出入りした裏口だ。

「……まだ変わってない」

 扉を押し開けた瞬間、黴の匂いと静寂が迎え入れる。懐中電灯は持っていないが、那瑠の目は特別で何でも明るく映す事が出来た。剥がれた壁紙、転がるカルテ、ひび割れたタイルの床。音一つ無い空間が、どこか不気味に懐かしかった。

 地下へと繋がる非常階段、今度は那瑠はそこへ足を踏み入れる。階段の先、三階層下に広がる空間こそが、NWPの実験と作戦の拠点。その構造も警備の癖も、今も那瑠の頭には刻まれている。

(中枢までのルート、通気口の分岐、監視カメラの死角……忘れてない)

 呼吸を整え、那瑠は慎重に階段を降りていく。途中監視カメラの赤い点が光る。即座に物陰に身を潜め、カメラの動きを読み死角をすり抜ける。警備システムの構造も熟知している那瑠にとっては、まるで昔の自分とチェスをしているようだった。

(トキワは死んだが、コーサカは私がここに戻るとは思っていない。その油断が命取りになる)

 地下二階の廊下を抜けた先。そこには一際重々しい気配が漂っていた。

 旧「第七実験室」

 那瑠の記憶の中でも忌まわしい場所だった。ここはNWPがクローン計画の失敗作を収容、廃棄していた場所。彼らには番号すら与えられないまま、素材としてだけ扱われていた。

 通り過ぎようと思ったが、開いていた扉を覗くと、一瞬呼吸を忘れた。

 淡い青白い光の中、整然と並ぶ培養カプセル。その多くは破損し、中の溶液が干上がっている。カプセルの中に残る、干乾びた人影たち。かつて那瑠の代替として生み出され、失敗とみなされ、ここに置き去りにされた命。

「……ごめん」

 思わず口から漏れるように言葉が落ちた。何度も消そうとした記憶が、今ここで突き付けられる。背を向け、前に進むために捨てたはずの重み。目の前のそれらは、紛れもなく自分の同類だった。

(私は……)

 足を動かそうとしたその時。

 ――カシャン。微かな音。まだ機能していた一つのカプセルがゆっくりと開いた。中からか細い呻き声と共に、一人の少女が這い出して来る。

「……N-01……?」

 細い声。目は虚ろで、体には管の跡が残り、皮膚は透けるように青白い。それでも彼女は那瑠に向かって手を伸ばしていた。

「どうして……迎えに、来てくれなかったの……?」

 ――錯覚か。それとも本当に生き残っていた個体なのか。那瑠は目を閉じて、拳を強く握った。そして、抱き止めた。

「……まだ、生きてたのか……助けられなくてごめん」

 那瑠の腕の中で、少女は微かに震えていた。

「寒い……」

 その呟きに、那瑠はそっと自分の上着を脱ぎ、細い体を包んだ。

「直ぐに、楽にしてあげるから」

 囁くようにそう言った自分の声は、どこか遠くから響いているようだった。

 ――助けたい。それは本心だ。しかしもうこの子が生きていける場所などない。

 機能を維持していたカプセルはただ一つ。酸素濃度も、生命維持装置も不完全で少女はゆっくりと死に向かっている。それを助ける事は、彼女に再び実験台としての人生を強いる事に他ならない。この子は、目覚めるべきではなかった。

「名前も、無かったんだよな……」

 那瑠はかつて、自分に割り当てられた番号を思い出す。N-01。この子には番号すら与えられなかった。だからせめて、最期くらい穏やかに。

 那瑠は実験室の中に残されていた麻酔薬を注射器に満たし、少女の腕に静かに針を差し込んだ。少女はぴくりと体を揺らしたが、次の瞬間には安堵のような笑みを浮かべた。

「……ありがとう、お姉ちゃん……」

 那瑠は涙を零しそうになる心を、強く押し殺した。

「……おやすみ」

 少女の目が静かに閉じられ、呼吸が緩やかに、やがて止まる。那瑠はカプセルの破片を集めて棺のように組み立てて、そっと少女の体を横たえさせた。

「これで、終わりにさせる。私が……全部潰す」

 その言葉と共に踵を返した。もはや迷いはない。クローンという存在も、実験体としての過去も、ここで葬る。自らの手で。

 足音も立てずに、また那瑠は地下深くの闇の奥へと進む。那瑠の目は静かな決意の色に満ちていた。

 通路はかつて病院だったとは思えないほど、異様な静けさに包まれていた。白い壁は薄汚れ、所々に監視カメラが埋め込まれ、床には血痕がうっすらと残っている。

 奥へ進む度、空気が変わる。冷たいのではない。張り詰めた圧力のような物が那瑠の背中を押し、呼吸を浅くさせる。しかし、今更怖がっている場合ではない。

「N-01、確認」

 不意にスピーカー越しの男の声が響いた。コーサカだ。

「お前は戻ってきた。それだけで充分だ。さあ、降伏しろ。殺さなくていい部下たちも大勢いる……選べ」

「そう……選ぶのは私だ」

 那瑠は小さく呟くと、腰のホルスターから拳銃を抜き、構えた。直後――

「目標、発見!打て!」

 右手の通路から、複数のNWP兵士たちが一斉に飛び出してきた。全員が機関銃を装備しており、統率の取れた動きで那瑠を包囲する。が、その程度の戦術は、那瑠には通用しない。

「……遅すぎる」

 パァン、と乾いた銃声が響く。那瑠の一撃は正確に先頭にいた兵士の膝を撃ち抜き、崩れた隙に横へ回り込む。拳銃での接近戦闘は那瑠の十八番だ。躊躇いの無い連続射撃で、僅か十数秒の内に三人を無力化した。

「ば、化け物め……!」

 叫び声と共に残った兵士たちが一斉に射線を向けるが、その瞬間那瑠は窓際の棚を蹴り飛ばして遮蔽物を作る。乱射された弾丸は虚しく鉄板に弾かれ、那瑠はすぐさま飛び出す。

――二発、三発。瞬時の判断と正確な狙撃で、残りの兵士たちも次々と倒れていく。

「終わりだ。お前たちの時代は過ぎた」

 残った兵士が呻きながら這い寄ろうとするが、那瑠はその傍を黙って通り過ぎた。必要以上の殺しはしない。しかし情けを掛ける余裕も無い。

 扉の先には、全ての元凶が待っている。コーサカ。那瑠を道具として扱い続けた全ての根源。

 拳銃の残弾を確認し、那瑠は深く息を吸い込んだ。

「行こう」

 扉が開く。扉の奥に広がるのは、無機質な金属の部屋。壁一面に張り巡らされたモニター、管理装置、無数のコード。その中央に、椅子に腰を下ろした一人の男がいた。コーサカだ。白衣を羽織り、背筋を伸ばしたその姿は、まるで玉座に座る支配者のようだ。

「来たか、N-01」

「私の名前は那瑠だと、そのちっぽけな脳みそじゃ覚えられないのか?」

 那瑠の声は静かだった。しかしその奥には剣のように鋭い、怒りと悲しみが渦巻いていた。

「君は優秀だったよ。どのクローンも君には追い付けなかった。殺しも、判断も、精神の耐久も。だからこそ我々は君に、世界の正義を委ねようとした」

「それを支配って言うんだ。都合の良い正義を私に押し付けて、便利な駒として使っただけだ」

 那瑠が一歩踏み出す度に、コーサカの周囲に警備機が上がってくる。自動照準装置付きの小型ドローン。部屋の四方に浮かぶそれらが、那瑠に狙いを定めて起動音を立てる。

「君は特別だ。だから生かしてやる選択肢もあった」

「遅いよ、全部、遅すぎる」

 次の瞬間、那瑠は一気に走り出した。弾丸が那瑠を囲うように飛び交う。銃声、機械音、電子の悲鳴。それらを全て裂くように、那瑠の一発がドローンの一機を撃ち抜く。

 その時、部屋全体が揺れた。短い火花を散らして、機械の一部が機能停止を起こす。

「解析済みだよ、その防衛機構。電源系統、分散されていないのが欠点だったな」

 那瑠は予め覚えていた設計書通り、室内のパネルに向かって連続射撃を浴びせる。火花と煙。ドローンの赤いセンサーが次々と沈黙していった。

「――このっ!」

 ついに椅子を立ったコーサカは、懐から自らの銃を抜き放つ。医者でも研究者でもない、兵器開発者としての顔に変貌していた。

「私が創った神の兵器は、私の命令に逆らえないように出来ているはずだった!」

「悪いけど、私は神の兵器じゃない。たった一人の、那瑠っていう人間だ!」

 怒号と共に最後の銃撃戦が始まった。互いの動きは速く、殺し合いに躊躇いは無い。コーサカは老いて尚、実験のために訓練された肉体で撃ち返してくる。しかし、那瑠の動きには隙が無かった。全てを乗り越えてここまで来た。全てを終わらせるために。

 那瑠の一発がコーサカの拳銃を弾き飛ばす。

「終わりだ、コーサカ」

「やっぱりお前は、失敗作、だったか……」

 そう呟いたのは、コーサカの最期の言葉だった。

 那瑠の手から放たれた銃弾は、迷いなくコーサカの眉間を貫いた。コーサカの体が仰向けに倒れ、瞬く間に床に血が広がる。白衣が紅く染まっていった。

「いいや、お前は“人間”を創り出した。成功だよ、この実験は」

 静寂が身を包む。システムのアラームも停止し、部屋の中にはただ心音のように響く那瑠の息遣いだけが残された。

「……終わった、のかな……」

 手の中の拳銃はまだ温かい。引き金を引いた時の感触が、まだ指に残っている。

 倒れたコーサカを見下ろすと、不思議と怒りも達成感も無かった。ただ虚無だけが、心を満たしていた。

 後ろを向いて歩き出そうとするが、どさっと膝から崩れ落ちる。那瑠は拳銃を逆に握り、自分の頭へと銃口を押し当てる。

 誰にも頼らず、誰にも救われず、自分の物語を自分で閉じるための選択。

「これで、全部終わる……私なんか、産まれてこなければ良かったんだ……!」

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