第9話

 夕方の風が、蝉時雨を和らげる。他には誰もいない南公園のベンチに、蓮と那瑠が並んで座っていた。遊具の影が長く伸びて、遠くの空はオレンジと群青のグラデーション。

 蓮が呼び出されたのは帰ってから直ぐの事だった。那瑠の顔はいつもと変わらないように見えたが、その目の奥に何か決定的な物があると、蓮は直感していた。

「蓮……私、蓮やみんなに嘘を吐いていた」

 その声は穏やかで、しかし確かに震えていた。蓮は何も言わずに、ただ那瑠の横顔を見つめる。

「私、本当は……人を殺すためだけに作られた子供だった」

 空気が止まったようだった。蓮は目を見開き、それでも言葉を探す事をやめない。

「……どういう、意味だ?」

 那瑠は空を見ながら話し始めた。

 自分がN-01というコードネームで呼ばれていた事。遺伝子操作によって生み出された、殺戮兵器として育てられた事。裏世界で任務をこなすために、多くの人間を手に掛けてきた事。

 那瑠の声は静かで、語るほどに透明になっていく。まるで、長い時間をかけて自分の中で繰り返し噛み砕いてきた過去を、今ようやく他人に渡しているように。蓮は一言も遮らず、ただ聞いていた。

「昨日、桜が攫われた。私を裏世界に戻すために、NWPが仕組んだことだ」

 蓮の手がぎゅっと膝の上で握られる。

「私は聖山の、とある場所に向かう。そこは私が育った場所だ。たぶん、もう戻ってこない」

 少しの沈黙。やがて蓮が小さく息を吐いて言った。

「……じゃあ、何で俺に話した?」

 那瑠は笑った。それは悲しくて、しかしどこか安堵の混じった笑みだった。

「もう、会えないから。ずっと話したかった。蓮だけには、全部知ってほしかった」

 蓮は目を伏せ、暫く何も言わなかった。その横顔は怒りも拒絶も浮かんではいない。蓮は、受け止めようとしていた。彼なりに、那瑠の過去と今を。

 そしてぽつりと言った。

「行くな……」

「私が行かなきゃ桜が殺される。それに、みんなの身が危なくなる」

「だったら……!」

 蓮が立ち上がって那瑠を立たせ、抱き締めた。

「せめて帰ってこい。何もなかった顔して、またみんなで笑ってくれ」

 蓮は泣いている。那瑠の喉が詰まった。ありがとうが言えなかった。しかしその沈黙が、どんな言葉よりも二人を繋いでいた。


 夜が完全に落ちた頃、那瑠は制服を脱ぎ、黒い装束に身を包んでいた。風に馴染む、動きやすい素材。裏世界にいた時の仕事着だ。リュックの中には最低限の武器と通信機、そして母が一度だけくれた古い写真。逹と三人で写った、唯一の家族の記憶。

 自宅の窓から飛び出すようにして外に出る。住宅街の明かりは温かく、どこか別世界のようだった。ここから山の方へ向かえば、やがて全てが暗転していく。

 那瑠は一人、走り出した。聖山は遠いが、那瑠の足にかかれば直ぐそこだ。民家の明かりも少なくなり、やがて聖山に入ると、あたりは完全な闇となる。スマホの電波も切れた。風の音だけが那瑠を包む。

 そこからは徒歩。月明かりが道を照らす中、那瑠は一歩一歩と足を進めた。木々のざわめきの奥に、ただの風とは違う気配がある。

 数十分後、ついにその建物が見えてきた。聖山にひっそりと佇む、廃病院。鉄格子の嵌った窓、ひび割れた外壁。苔生した看板にはかろうじで、聖山第三医療センターの文字が読めた。

 那瑠はフェンスを軽々と越え、裏口の扉に手を掛ける。鍵は壊れていた。ゆっくりと中に入り、懐中電灯もつけずに、足音も立てない。まるでかつての自分に戻るかのように、地下へと続く階段へ向かう。

 記憶が疼いた。ここで育った。ここで何も知らずに殺し方を教えられた。ここが自分の原点。

 しかし今の那瑠は違う。戻るために来たのではない。終わらせるために来たのだ。地下へと降りる。その先にNWPが再び息を吹き返し始めた、戦場が待っている。

 ジャケットの内ポケットから取り出した携帯端末には、事前に掴んだ見取り図と施設内の動線が表示されていた。それを確認して一度深く息を吸い込み、那瑠は視線を上げた。

「行こう、桜を、迎えに行く」

 最初の警備ロボットとの遭遇は、階段を降りて直ぐだった。無機質な白い機体に赤いセンサーの目。那瑠の姿を感知した瞬間、警告音と共にバトンのような電撃棒を構えて接近してくる。

「相変わらず、歓迎が手厳しいな」

 那瑠は懐から取り出したナイフを構えると、滑るように踏み込んだ。瞬間、ナイフの刃が閃光を放ち、センサー部を正確に突く。火花と共に機体が崩れ落ちた。無駄の無い動作。昔の自分が戻ってきたようだった。

 息を殺して廊下を進む度、トラップや機械兵の反応を感じ取る。だが那瑠は一つ一つを確実に処理していった。冷静に、かつ鋭く。まるで一匹の獣のように、敵の喉元を正確に噛み砕いていく。

 やがて目の前に現れた分厚い壁。桜が閉じ込められているとされる場所。その先に待つのはNWPが誇る戦闘特化型の実験体たち。かつて「姉」としての那瑠を「最初の完成形」と呼び、その背中を追って創られた新世代の兵器たちだ。

 那瑠の目に、殺意が宿る。

 重たい扉が軋んだ音を立てて開く。那瑠が足を踏み入れた先は、まるで廃棄処理場のような広大な地下空間だった。床は錆びた鉄板、壁には所々剥がれた配線や配管がむき出しになっており、天井から滴る水音が、静寂の中で異様に響いていた。

 その中央に、五人の実験体が立っていた。彼らは那瑠と同じくNWPが創り出した兵器。N-05からN-09までのコードを持つ、那瑠の下の世代だ。かつて那瑠がここに姿を見せなくなってから、その空白を埋めるように育てられた弟妹たち。

「やっぱり来たね。N-01。いや今は那瑠って呼ぶべきか」

 最も背の高い実験体、N-05が静かに声を発した。那瑠とそっくりな少女の顔に張り付くのは、戦闘前の期待に満ちた笑み。両手にはナイフが装備されている。

「私たちはずっと待っていた。自分たちよりも優れた初代が戻ってきて、どれだけ成長したか見せてもらう日を」

「……待っていたなら、ここで終わらせてやる。全員まとめて」

 那瑠はナイフを構えた。空気が震える。次の瞬間N-06が地を蹴って跳びかかってきた。瞬発力重視の彼女は肉体強化型で、その腕力は那瑠にも匹敵する。

 ナイフとナイフがぶつかって火花を散らす。その直後、N-07の投擲武器が飛んでくる。那瑠は床を転がって躱しながら反撃の蹴りを放ち、N-06の顎を打ち抜いた。

「囲め!」

 N-08とN-09が両脇から挟み撃ちにかかる。だが那瑠は目を閉じ、わずかに息を吐く。次の瞬間、体が霞のように動いた。

 一瞬の内に距離を詰め、N-07の懐へ滑り込む。

「速――」

 その声が出る前に、喉元をナイフが裂いた。N-07が沈む。

 N-08の拳が那瑠の腹を狙って放たれるが、那瑠は半身でそれを躱しつつ手首を掴み、その勢いを利用して関節を逆に折る。

「ッ、ああああッ!」

 悲鳴と共にN-08が崩れる。残るは三人。N-05は唇を舐めて笑う。

「良いね……初代は別格だ。でも」

 N-05の背後から、N-06とN-9が連携して動いた。二人同時に左右から攻撃。那瑠は受け切れないと判断し、上に跳ぶ。だが既に上空には跳び上がったN-05の姿が。

「……!」

 寸での所で那瑠はナイフを逆手に持ち替え、空中で体を捻りながらN-05の胸元に突き立てた。体重をかけN-05を足場にして急降下。着地と同時にN-06のナックルが頬を掠める。激痛が走る。しかし、それでも那瑠は笑った。

「やっぱり、こっちの世界は殺し合いが正しいんだな」


 鉄の床に、血と汗が混じった雫がぽたぽたと落ちる。重く、深く、息を吐きながら、那瑠は立っていた。那瑠の前には、動かなくなったN-07、N-08、N09。N-06は壁に凭れ、肩で息をしている。既に戦闘不能だ。そしてただ一人、胸元を刺されたにも関わらず、未だに笑みを絶やさず立っているN-05。

「さすがだよ……全部、本物だ。体も、戦いの記憶も、そして何より、殺意も」

 N-05は胸元に刺さっていたナイフを引き抜き血を吐きながら、だけどと続ける。

「本当の地獄は、ここからだ」

 直後、奥の隔壁が自動で開いた。空気が一変する。機械音と共に、巨大な人型兵器が現れる。

「何……?」

 那瑠が眉を顰める。それは那瑠、N-01をベースに作られた無人殺戮兵器。NWPが、人間を超えた兵器として量産を目論んでいた試作型だった。

「イミテーション・ゼロ。君をモデルにしたんだよ、姉さん。戦闘データ、細胞、脳波、全てを流用してね」

 N-05は恍惚とした表情で言った。

「姉さんに勝つために、姉さんその物を創った。最高だろう?」

 そしてN-05は倒れた。

 イミテーション・ゼロは低く唸るような電子音を発した。那瑠の目が鋭く光る。微かに揺れる、ナイフの先端。それを見つめる那瑠の脳裏に、ふと桜の笑顔がよぎった。

 ――こんな場所で、終われる訳が無い。

「だったら、壊すだけだ。過去も、名前も、全部」

 その瞬間、イミテーション・ゼロが咆哮を上げて襲い掛かってくる。速い、人間の速度では避けられない。しかし那瑠はそれを読んでいた。

「私の戦いは、私が決める!」

 床を蹴り、壁を蹴り、天井を跳ねるように駆け抜けて、ナイフを一閃。金属のボディに亀裂が走る。

 だがそれは序章に過ぎなかった。イミテーション・ゼロが形態変化し、次のモードへ移行する。装甲が展開され、肩部から砲塔、腕部にはブレードが出現。

 しかし那瑠はほんの一瞬だけ微笑んで、低く構え直した。

「ようやく、私の敵が出て来たな」


 金属を断つ音、爆ぜる火花、空気を焼くような轟音。イミテーション・ゼロの攻撃は熾烈を極め、那瑠の体力も限界に近付いてきた。ナイフを逆手に持ち替え、わずかな隙を突いて深く切り裂いた。だがそれでも敵は倒れない。鋼のようなフレームが、何度も何度も那瑠の攻撃を撥ね返す。

 そして――

「もう、いい」

 重く響いたその声に、空間が静まり返った。通路の奥、鋼の扉がゆっくりと開く。現れたのは、冷え切った瞳のトキワ。

「……!」

 那瑠の視線が鋭く彼に向けられる。その目が直ぐに彼の隣に移った。

「桜……!」

 拘束された桜が無理矢理立たせられるような形で、トキワの前に押し出された。両手は後ろで縛られ、口元には細い猿轡。目はしっかりと開いていたが、驚きと恐怖に揺れている。

「那瑠……!」

 掠れた声が届いた。その瞬間、那瑠の足が自然と半歩前に出た。トキワは冷たい笑みを浮かべる。

「君がこれ以上、実験体どもと遊ぶつもりなら、この娘の命は無い」

 彼が、手にしていたリモコン型の装置をゆっくりと掲げた。桜の首元で爆弾らしき装置が鈍く赤く点滅を始める。

「信号一つで脳幹を破壊する。感情も記憶も、一瞬で消える。苦しませないよ、優しいだろう?」

 怒りが、那瑠の視界を赤く染めた。握ったナイフの柄が音を立てて軋む。

「卑怯な真似を……!」

「卑怯?君が人間らしい感情を持った事の方が想定外なんだ」

 トキワはあくまで冷静だった。

「今から投降しろ。N-01。抵抗を止めてこの施設の中枢へ来い。延命処置の実験は準備が整っている。君にはまだ価値がある」

 沈黙。空気が凍り付く。那瑠は俯き、少しだけ肩を震わせた。

――私が止まれば、桜は助かる。でもそれは奴らの思う壺だ。

「那瑠……来ないでください……!」

 桜の声が、命がけの拒絶を突き付けた。

 那瑠の中で何かが弾けた。ゆっくりと顔を上げ、静かな声で言った。

「……トキワ、私を人間にしてくれたのは、桜だ」

 そして滲むような微笑みを浮かべる。

「だから、私の手で、桜を守る。それが私の意志だ」

 次の瞬間、ナイフを床に滑らせると同時に、那瑠は壁を蹴って跳躍した。重力に逆らい、一直線にトキワと桜に迫る。

 跳躍の途中で那瑠は一瞬、時間を凍らせるような集中を見せた。桜の足元に転がる小さな金属片、先程イミテーション・ゼロとの戦いで破損した爆薬の部品。ナイフとその閃きが、数秒後の命運を左右する。トキワが目を見開いた。

「来るなと、言っているだろうが……!」

 手にした起爆装置のスイッチを押す、その寸前。那瑠は腰からナイフを引き抜き、鋭く振り抜いた。リモコンへ向かって。

 金属音が響く。起爆装置はトキワの手から吹き飛ばされ、金属の床に跳ねた。

「何……!?」

 その隙を逃すまいと、那瑠は桜の元へ一直線に駆ける。ナイフで手際良く拘束を切り裂き、桜を腕に抱くようにしてその場から飛び退いた。

 直後、爆薬の微弱な爆発が起きる。だが既に安全圏。風圧が那瑠の頬を撫で、細かい火花が視界を横切った。

「無事か、桜」

「え、ええ……!すみません、私、何も分からなくて……!」

 那瑠は微笑む。あの、教室で見せた柔らかな笑みと同じ物を。

「謝らなくて良い、桜が無事で、今はそれだけで充分だ」

 トキワは倒れたままにじり寄ろうとする。しかしその動きは遅すぎた。那瑠は既に彼の前に立ちはだかっている。

「これが、私だよ。トキワ。私の意志で、私の力で、お前たちを壊す」

 次の一撃は、容赦なかった。ナイフの背で喉元を打ち、呼吸を止め、腕の関節を捻る。トドメにトキワが持っていた制御端末を破壊して、その場を制圧した。

 警報が鳴り響く中、那瑠は桜を抱き上げて、影のようにその場を去る。

 闇の中に浮かび上がる、一つの強い意志。

「次は、NWPそのものを潰す番だ」

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