第8話

 桜と別れた帰り道。那瑠は一人で閑静な住宅街を歩いていた。夏の風が温く頬を撫でていく。空には一つ、二つと星が滲んできていたが、那瑠の足取りは重かった。桜の話がずっと頭から離れない。同じ車、見られている感覚、不安に染まるあの表情。気のせいだったらそれでいい。しかしもし本当に何かが動き始めているのだとしたら。

 那瑠は逹が寝静まってから、部屋の明かりを落としたまま、ノートパソコンを開いた。普段は使わない暗号化されたソフトを起動する。中学の頃、仕事の連絡を受け取っていたツールだ。使い方は体が覚えていた。

 仮名で作った連絡用のIDにログインし、特定のワードを打ち込む。「観察者」それが裏の世界での情報屋の名前。

 応答は直ぐに返ってきた。

≪N-01、またお前か。三年ぶりだな≫

 懐かしくも、吐き気がするようなやり取りだ。

≪仕事じゃない。情報が欲しいだけ≫

≪料金は?≫

≪必要なら払う。とにかく、聖市で最近動きのある組織を教えて≫

≪NWP絡みか?≫

≪そうだ、何か感じた事があれば何でも良い≫

 数秒の沈黙。画面の向こうで相手がどこかのデータベースを漁っている気配がある。

≪気になるのは二件。一つは私立聖北高校付近での不審車両の目撃情報、もう一つはNWPの幹部級が市内に入った形跡があるって話だ≫

 那瑠はスッと息を呑んだ。やはり、ただの偶然ではなかった。

≪詳細はまだ分からない。ただ、何かを狙っているのは確かだ≫

 画面を見つめたまま、那瑠は唇を噛む。背筋に冷たい物が流れるようだった。

≪ありがとう、また連絡するかもしれない≫

≪程々に≫

 那瑠はパソコンを閉じ、小さな金属の箱を引き出しの奥から取り出し、慎重に開ける。中には古い手書きのメモと一枚の写真が入っていた。双子の弟と幼馴染と一緒に笑う、かつての自分。

「絶対……誰も巻き込ませない」

 その小さな呟きが、決意のように部屋に響いた。

 次の日から、那瑠の行動は少しだけ変わった。通学路。那瑠はさりげなく周囲の車のナンバーを目で追い、通りを挟んだビルの硝子に映る自分たちの姿を確認する。

 授業中も、教師の声を聞きながら心はどこか別の所にいた。食堂にいる時も、桜が何かに気を取られているように見える時がある。その度に、那瑠の背中には冷たい嫌な汗が滲んだ。

 放課後、部活を休んだ那瑠は、一人で聖北駅前の防犯カメラの死角を調べるために歩き回る。何も持たずにただ歩く。その癖は、かつて任務のためにルートを把握していた頃の物だ。

(こんなやり方、もうしたくなかったのに)

 そう思いながらも、動かずにはいられなかった。桜の不安な顔が、頭から離れない。

 その夜、再び那瑠は仮のIDで「観察者」と連絡を取った。今度は市内の不審者の目撃情報と不審車両の移動履歴を求める。

≪あんた、これ本当にやるつもりか?≫

≪ああ、手遅れになるよりマシだ≫

 那瑠の返答に「観察者」は暫く何も言わなかった。

≪分かった。これが今の最新情報。例のNWPの関係者、トキワとコーサカが一週間以内に市内で会合を行った形跡アリ。場所は非公開。だが監視カメラのデータから割り出された一部の行動ルートがある。解析する≫

 暫く経ってから送られてきたファイルを開くと、地図上に赤い点がいくつも打たれていた。点と点を結んだそのルートに、那瑠は少し目を細める。その中に、桜の通学路の直ぐ近くがあった。

「……やっぱり、狙われてる」

 息を呑む。そしてその瞬間に脳裏をよぎるのは、もしも桜に何かが起きたら、という最悪の未来。胸が焼けるような感覚に襲われる。

(私はまた、道具に成り下がるのか……?)

 人の命を守るために、人を殺すための力を使う。それは皮肉にもN-01の本質そのものだった。

 那瑠は机の引き出しから、一枚の黒いスリーブに入ったカードを取り出す。それはかつて自分が任務のために使用していた裏世界の通行証のような物だ。

 もう使わないと決めていた。しかし、桜のためなら。幼馴染たちとの日常を守るためなら。今はその決意さえも、揺らぎ始めていた。


 放課後、制服のまま聖北地区の南端にある古い喫茶店へと向かう。店名はロスト・チャイルド。昼間はほとんど客が入らないこの場所は、かつて那瑠がN-01として動いていた頃、情報交換の拠点として使っていた場所だった。

 ドアベルが鳴る。静かな店内に少しだけ音楽が流れている。薄暗い照明の中、警戒しながら歩く。ここは敵も味方も交差する、沈黙と警戒が支配する場所。古びたソファ、かすれたテーブル、緩やかに流れるジャズ。客の姿は無く、カウンターの奥で一人、背の高い男がグラスを磨いていた。

 那瑠はその男の前に座って、スリーブに入ったカードを取り出してひらりと見せた。

「……久しぶりだな、N-01、いや、今は那瑠、だったか」

 顔なじみの懐かしい声。この男、コールはかつて那瑠と共にNWPの暗部にいた一員であり、今はこの喫茶店の店主をしている。

「観察者から話が行ってるんだろう?わざわざ隠すつもりもない」

 コールは手を止め、磨いていたグラスをカウンターに置く。彼の目には、かつての戦場を知る者だけが持つ、どこか憂いを帯びた光が宿っていた。

「まあな。お前がここに来るって聞いて、久々にドアの鍵開けといた」

 その冗談に那瑠は微かに口角を上げる。

「変わらないな、コール。こんな場所で、まだ裏の流れを見てるなんて」

「変わる気もねえよ。俺にはせいぜいこうやって迷子どもを迎え入れる事くらいしか出来ねえ」

 コールは肩を竦めながら、グラスにウイスキーを注いだ。その手つきは昔のままだった。

 那瑠はポケットから端末を取り出し、カウンターに置いた。

「NWPの下っ端がこの街で動いてる。何か知らないか?」

 コールはウイスキーを一口含み、暫く無言で味わった後答えた。

「噂は聞いた。地下ルートが妙に活発になってる。しかも、ターゲット確保用の装備が動き出したらしい……どうせまた子供を攫う気だろう」

「……私の友達が狙われてる。絶対に巻き込ませたくない」

 那瑠の声は低く硬かった。コールはじっと那瑠を見つめて、その決意の強さを確かめるように目を細めた。

「お前、またあの地獄に戻る気か?」

 那瑠は確かに、しかしはっきりと頷いた。

「戻るよ。だけど今度は違う。誰かの命令じゃない……誰かを守るために、この力を使う」

 拳を握る。制服の下、細い体が微かに震えていた。沈黙。コールはゆっくりと息を吐き、手元のグラスを回した。

「……変わったな」

 どこか嬉しそうに、微笑みを浮かべながら。

「けど、覚悟はいるぞ。お前が人間になるための戦いは、今までよりもずっと過酷だ」

「分かってる。だから、覚悟を決めたんだ」

 それを聞いたコールはカウンター越しに小さなカードキーを差し出した。古びた金属のそれは、かつてNWPで使われていた施設のアクセスキーだった。

「これが、今奴らが使っている拠点の地図だ。生きて帰って来いよ……迷子のまま死ぬな」

「……ありがとう、コール」

 那瑠はカードを受け取り、制服のポケットにしまう。立ち上がり、ドアへ向かって歩き出す。背中越しに、コールの声が届いた。

「なあ、那瑠」

「……何だ?」

 振り返ると、カウンターに寄りかかったコールが、少しだけ優しい目をしていた。

「ここは、いつでもお前の居場所だ。忘れんなよ」

 ここは、迷子たちのための場所。今も昔も変わらない。

 那瑠はほんの僅かに微笑み、静かにドアを押し開けた。錆びたベルの音が、遠ざかっていく那瑠の背中を見送った。

 その帰り道、駅前の広場を抜けた先、人通りの少ない小道を歩いていた那瑠は直ぐに気が付いた。足音が一つ、那瑠の足取りに合わせて遅れて響く。影を確認しようと振り返るが、何も見えない。

 少し歩く速度を落として距離を測る。そしてある角を曲がった瞬間、那瑠は突然足を止め、石畳を蹴って跳ねるように後ろへ飛ぶ。

「そこにいるの、出て来なよ。隠れるのが下手すぎ」

 風の音が一瞬流れた後、建物の陰から一人、黒い服の人物が現れた。フードを深く被っていて顔は見えないが、身のこなしにただの素人ではない気配がある。

「……見破られるとは思わなかった。流石、処理者」

 聞き覚えの無い声。しかしその語り口に、那瑠の中で冷たい物が広がる。

 尾行者はゆっくりと那瑠に近付く。

「NWPの犬って訳じゃ無いよな。じゃあ何だ?」

「私たちは補填者。N-01、お前の空いた穴を埋めるために作られた」

「……クローンか」

 尾行者は答えない。ただ、片手をポケットに入れたまま笑うような口調で告げた。

「最後の警告だ。戻らないならそれ相応の対価を支払ってもらう」

 そしてつぎの瞬間尾行者は爆発的な速さでその場を後にする。追おうとした那瑠は一歩踏み出してから、足を止めた。

(罠かもしれない)

 そう判断し深追いはしない。代わりに、尾行者の体から漂っていた微かな薬品の匂いを覚える。それはNWPの内部でしか使われていない特殊な制御薬の成分の香りだった。

「補填者……それが次の実験体か」

 空気は既に、夏の熱気の中に冷たい死の香りを含み始めていた。


 陽が落ち始めた夕方。校門前で、桜は那瑠を待っていた。いつも通り男子テニス部は先に終わったので先に逹と蓮は帰り、残された二人の時間はゆっくりと流れる。

「あの、那瑠。最近帰りが遅くないですか?」

 軽く問う桜の声には、ほんの少しだけ気遣う色が混じっていた。

「うん、まあちょっとね。部活終わってから寄り道してただけだよ、コンビニとかさ」

 那瑠は視線を前に向けたまま、自然に笑って見せる。その言葉は半分本当で、半分は嘘。実際はあの薄暗い路地で尾行の確認をしたり、ロスト・チャイルドに行って裏の世界の動きを探っていた。

「そうですか、コンビニに行くのならお供いたしましたのに」

「いや、ちょっと考え事しながら歩いてて、フラッと寄っただけだから。

 その瞬間、那瑠は自分の声が少し硬くなった事に気が付く。桜は首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。

 沈黙が二人の間を流れる。遠くから野球部の掛け声が聞こえてきて、夕焼けが二人の影を長く伸ばした。

「ねえ、那瑠」

 不意に桜がぽつりと呟く。

「前よりずっと、大人っぽくなりましたよね。何だか、遠くに行っちゃいそうな感じがします」

「そんな事無いよ」

 そう即答したが、それもまた嘘だった。本当は、那瑠はもう遠くへ行ってしまっている。しかしその場所を、誰にも知られてはいけない。

 心の中で、ごめんと何度も繰り返しながら、那瑠は今日も嘘を重ねていく。


 七月最後の登校日。空は曇りがちで、湿った空気が街を包んでいた。

 その日の朝、桜はいつも通りに笑いながら璃音と共に登校した。蓮と逹、那瑠も揃って昇降口を通り抜け、何気ない会話を交わしながら教室へと向かう。午前の授業、昼休み、終業式、特別な違和感は無かった。

 放課後桜は、家庭科室に忘れ物をしたと言って一人で教室を出た。その姿を見送った璃音もまた、図書室に向かうと口にして別行動を取る。ふとした瞬間、何かが胸を騒がせていった気がしたが、それは言葉にならずに消えていった。


 その日の夜になっても、桜は誰の前にも姿を現さなかった。


 夏休み一日目の部活帰り。逹と蓮、それから那瑠は、揃ってバス停でバスを待っていた。くだらない冗談を言い合いながら、時々笑い声が通りに響いた。その時、見慣れた黒塗りの車が、バス停を少し過ぎた辺りで停まった。運転席から降りて来たのは、深く帽子を被り、丁寧にスーツを着こなした年配の男性。那瑠が桜の家を訪れる度に出迎えてくれた桜がじいやと呼ぶ人だった。

「那瑠様……少々お時間よろしいでしょうか」

 その声音は、いつもの柔らかさを残しながらも、どこか張り詰めていた。

「ちょっと行ってくるよ」

 那瑠は逹と蓮にそう告げて、招かれるままに車内に入る。ドアが閉まると、外の音が一切遮断された。じいやはハンカチで額の汗を拭いながら、躊躇いがちに口を開く。

「……お嬢様が行方不明です。警察にはまだ知らせておりません。何者かに攫われた形跡がありますが、それ以外に証拠が一切ございません。防犯カメラも、通信履歴も、誰かが完全に遮断した形跡がございます」

 じいやの目が、真正面から那瑠を見据える。

「……この件について、真っ先にお知らせしなければならないのは那瑠様です。一本の留守番電話より、警察は動かない、連絡を取るのなら那瑠以外には漏らすなと男の声が入っておりまして。貴女様以外には頼れるところが無いのが現状です」

 那瑠は口を開けないまま、指先に力が入るのを感じていた。――やはり来た。まるで自分を試すように、これまでの静かな日常を壊すように。

 じいやは静かに言葉を続けた。

「お嬢様は……貴女様の名前を、毎晩のように口にしておりました。那瑠様と話すのが楽しみだと……どうか……」

 言葉が詰まり、じいやは小さく目を伏せた。那瑠は深く息を吸い込んだ。胸の奥に広がるのは、焦りでも怒りでもない。決意だった。

「私に任せて。必ず、桜を取り戻す」

 その瞳はもう、普通の高校生の物ではなかった。

 車の窓の外で、雲間から一筋の陽が差し込んでいた。それはまるで、これから向かう闇を照らすための光のようだった。

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