第7話

 六人の仲も深まった七月。那瑠は逹が寝ている隣の空き部屋でとある電話に出ていた。

「N-01。仕事が溜まっている。それに最終実験も残っている。死ぬ気か?」

「私の名前は那瑠だ」

 低く唸るように言った那瑠の目には、静かな怒りの炎が宿っている。

「それにもうそっちの世界には戻らない。私は十八で死ぬんだ」

「お前は私たちの大事な実験体なんだ。自我を持つなんて事は許されない」

「五月蠅い、とにかくもう私の事は放っておいてくれ。それじゃあな」

 プツン、と無機質な音が室内に響く。切った電話の画面を見つめながら、那瑠は深い溜め息を吐いた。握り締めたスマホの角が指に食い込む。怒り、恐怖、そして押し込めた感情が胸の中でゆっくりと広がっていった。

 これ以上、あの世界には戻らない。ただそう決めたはずなのに、心の奥底で冷たい不安が燻っていた。そんな時、部屋の扉が静かに開いた。

「……那瑠?」

 乱れた髪を掻きながら、眠たげな表情で現れた逹。逹は目を擦ってから那瑠の顔をじっと見る。那瑠は咄嗟にスマホを伏せた。

「……起こしたか?」

「いや、何か……変な声が聞こえた気がして」

 逹の声には眠気と少しの心配が混じっている。那瑠は微笑もうとしたが上手く笑えなかった。

「ごめん、ちょっと変な電話が来たから」

「変な電話?」

「うん……ちょっとした知り合いからの電話」

 逹は一瞬眉をひそめたが、それ以上何も訊かなかった。那瑠の中で何かが張り詰めている事を、逹なりに感じ取っていたのかもしれない。

「何か悩んでるなら、俺で良ければ話聞くけど」

「大丈夫だ。ありがとな、逹」

 優しいその言葉に胸が熱くなった。しかし全てを伝える訳にはいかない。逹は何も知らなくていい。そう決めているのは那瑠自身だった。

「無理しないでね、那瑠。最近時々さ、みんなといる時もちょっと遠くに行っちゃいそうな顔してる」

 その言葉に那瑠は一瞬だけ目を見開いた。逹は気が付かないふりをして、いつもの様に軽く笑う。

「俺、心配性だからさ、夢とか変な予感とか、色々勝手に考えちゃうんだよね」

 そう言って逹は部屋のドアに手をかけた。おやすみとだけ言い残し、静かに部屋を出て行く。残された那瑠は、閉じられた扉を暫く見つめていた。

 何も知らない双子の弟。しかし勘だけは鋭い。だからこそこの世界の事を巻き込んではいけないと、改めて強く思った。

「おやすみ、逹」

 小さく呟きながら、那瑠は再びスマホを見下ろす。着信履歴が、無数の名も無き番号で埋め尽くされていた。どれ一つとして逹の名前は無い。それが那瑠にとっての小さな救いだった。

 夜の帳が静かに降りる中、那瑠は隣の部屋から逹の寝息が聞こえる事を確認して隣の部屋に静かに入り、机に頬杖をついた。部屋の電気は落とされていて、窓の外から差し込む街灯の淡い光が、カーテンの隙間から床を照らしている。

 仲間の内、誰も「本当の那瑠」を知らない。学校では笑っていられる。蓮とも、葵とも、桜とも、璃音とも。みんなといる時間は不思議と心が軽くなった。逹と過ごす日常もそうだ。何気無い会話や、くだらない冗談、時には口喧嘩もするけれど、あの空気が愛おしい。

 ――それでも、私は殺してきた。胸の奥底で冷たい声が囁く。たとえ今笑っていても、放課後に部室へ向かう葵の姿を眺めていても、テニス部で汗を流す逹と蓮の姿を見ていても、桜のふんわりとした璃音との会話を聞いていても。忘れる事なんて出来ない。どれだけ普通を装っても、積み重ねた「死」は消えない。罪は消えない。

 那瑠は立ち上がり、ゆっくりと逹が寝ている二段ベッドの下の段に腰掛けた。スマホを手に取り、メッセージの履歴を開く。そこには、那瑠がかつて仕事を受けていた相手の名前が並んでいた。

「次のターゲットは市内に潜伏しているC-α」

 未読のままのメッセージを指先でなぞる。画面の中の文字が、次第にぼやけていく。

「もう、やめたい」

 ぽつりと口から零れた言葉で、改めて自分がそう思っている事に気が付いた。十八歳で死ぬ。それが決まっているのなら、それまでの残された時間くらい、誰かとちゃんと向き合って過ごしたい。逹と、仲間と。――生きていたい。

 でもその希望が一番叶わないということも分かっている。

 那瑠は逹の頭を撫でてやりながら呟いた。

「どうすれば、良いんだろうな」

 誰にも届かず部屋の中に溶けていく言葉。殺す事でしか存在を証明出来なかった人生。今更手を止めた所で何が変わるのか。ただ、変えたいと思ってしまった。誰かと未来を語ってみたいと思ってしまった。それは罪なのだろうか。那瑠は逹の頭から手を離し、膝を抱えてゆっくりと目を閉じた。眠れない夜が、また一つ積み重なっていく。


 N-01からの電話が一方的に切られた。受話器の向こうでツー、ツーと虚しく響く音を聞きながら、スーツ姿の男は静かに受話器を置いた。彼の名はコーサカ、NWPのトップの人間。

「やはり、N-01は戻らないつもりか」

 コーサカの声に感情は無い。だがその沈黙の裏には焦燥が滲んでいた。モニターにはN-01の過去のデータ、任務記録、そして現在の居住エリアの情報がずらりと並んでいる。研究室の奥では、白衣を着た科学者たちが淡々と延命処置の薬剤データを整理していた。

「予定を早めるべきかもしれない」

 別の男が言う。この男は研究主任のトキワ。冷徹な計算でN-01の命を測ってきた張本人だ。

「まだだ、焦るな。現状N-01の情緒は不安定だ。周囲への人間への執着が強くなっている。そこを突く」

 コーサカは立ち上がり、モニターを見つめる。N-01と昼食を囲む五人の写真に目が留まる。特に一人の少女、桜の顔に注目して、口元に冷たい笑みを浮かべた。

「交渉材料は整いつつある。夏休みに入ったタイミングで接触する。N-01は人として生きたがっているが、誰かを犠牲にする覚悟までは持てないはずだ」

「その子を?」

「身代金の代わりに本人を要求する。私たちは優先順位を間違えない。N-01はあくまで兵器だ。それを忘れるな」

 その言葉に、研究室の誰もが黙して従った。冷房の効いた密閉空間に、N-01を巡る新たな計画の幕が、静かに引かれようとしていた。


 NWPからの電話を切ってからというもの、那瑠はずっと胸の奥に重い石を抱えているような気分だった。しかしそれを誰にも見せる訳にはいかない。逹に、蓮に、葵に、桜に、璃音に。今ここにある日常を壊したくないから。

 次の日も変わらず朝はやって来る。逹と何気無い会話を交わしながら登校し、教室に入れば葵が小さく手を振ってくれる。蓮は何も言わないが、前の席から那瑠の机にメモを滑らせるようにして置いていった。

「今日の課題、難しそうだったら声かけて」

 些細な気遣いに、那瑠の胸がちくりと痛む。――私はこの優しさを、全部裏切るんだ。

 授業中、ノートを取る手がふと止まった。窓の外には穏やかな青空が広がっている。蝉の鳴き声が微かに聞こえ、午後の陽射しが教室の床を照らしている。

(こんな日がずっと続けばいいのに)

 そう思ってしまったその瞬間、後悔が込み上げてきた。そう思えば思うほど、自分の存在が異物のように思えてならなかった。人を殺すように育てられた存在が、こんな平和な空間にいていいはずがない。

 昼休み、みんなで食堂の隅のテーブルを囲んでいた時も、那瑠は心此処に在らずだった。葵の笑い声、逹の無邪気な質問、蓮の無愛想な合いの手。その全てが温かくて、だからこそ怖かった。

「那瑠、少し元気が無いですか?」

 不意に桜が訊ねてきた。那瑠は一瞬息を詰まらせたが、すぐに笑って誤魔化す。

「昨日夜更かししただけ、ありがとな、桜」

 嘘はいつだって、誰かを守るためにある。それを信じてきたのは、皮肉にもNWPの教えだった。

 放課後、部活に向かう途中の渡り廊下。那瑠は一人きりで立ち止まり、遠くに沈みかける夕陽を見つめた。

(この時間を守るために、私には何が出来る?)

 答えは出なかった。だけど、何もせずに失うくらいなら。そう思う自分がいる事だけは、確かだった。


 その夜、NWPは静かに次の一手を打ち始めていた。

 聖山最奥、古びた病院の地下にある一室。光の届かない空間に、青白いモニターがいくつも並んでいる。画面にはN-01が通う高校、下校中の生徒たち、そして食堂の中。様々な日常の断片が映し出されていた。

 モニターの前に座るコーサカが、無言で画面の一つに指を滑らせて拡大する。映っているのは逹が蓮と笑いながら部活動に打ち込んでいる姿。

「これが、双子の弟か」

「接触するには早いが、記録は進めておこう。奴を刺激するのは最終手段だ」

 背後に立つトキワが静かに言った。彼の手には那瑠の生活記録がびっしりと記されたタブレットがある。学校の時間割、行動パターン、人間関係。すべてが把握されていた。

「問題はあの少女。鷹之宮桜という名前だ。N-01との関係はまだ浅いが、感情的な繋がりがあるようだ。それに加えてあの鷹之宮財閥の一人娘。夏休みに入ってから動く。N-01を交換条件にする計画は予定通りだ」

 淡々と語られる会話の裏で、画面には桜が部活動を終えて帰宅する姿が映し出されている。その後ろには、別の生徒に紛れて歩く、見覚えは無いがどこか那瑠の面影を残す少女の姿。

「尾行の精度は上がっている。N-01の感情の揺れが、今一番深い。いずれ戻ってくる」

「戻らなければ、どうする?」

 トキワの問いに、コーサカは一度だけ画面から目を離し、無機質な声で答えた。

「その時は日常を壊すまでだ。N-01が愛したもの全てを」

 まるで何かを押し潰すように、地下室の空気が冷たく沈む。

 どこまでも冷静で、どこまでも残酷な計画は、既に動き始めていた。


 七月も半ばに差し掛かったある日の夕方。那瑠は聖北駅前の書店に立ち寄ってから帰路に就いていた。最近出た詩集を手に入れたばかりで足取りは軽い。しかし聖北駅前の雑踏から少し外れた裏通りに差し掛かった時、ふと背中に冷たい物が這う感覚がした。

(誰かに見られている……?)

 何気無く振り返る。しかしそこには不審な人影など無い。通り過ぎた自転車、スマホをいじる高校生、夕飯の買い物を終えた主婦の姿。どれも見慣れた日常の風景だ。

「気のせいか」

 そう自分に言い聞かせながら歩き出すが、ふと視界の端に見覚えの無い黒い車が停まっているのが目に入った。窓にはスモークが掛かっており、中の様子は見えない。だがその車はここ数日学校の近くや駅の周辺でも見かけた記憶がある。

(あれって……)

 一瞬だけ足が止まるが直ぐに動き出す。詩集を抱き締めるように胸に押し当てて、那瑠はその場を離れた。心臓が妙に速く脈打っている。怖いというより不快だった。何かが自分の輪郭をじわじわと浸食しているような感覚。

 バスに乗り、いつものバス停で降りる。家の鍵を開けると、リビングから逹の声が聞こえてきた。テレビゲームのBGMが流れていて、逹はいつも通りの様子だ。靴を脱ぎながら那瑠は小さく溜め息を吐いた。

「おかえり、那瑠。なんかあった?」

 逹の声に一瞬だけ答えに詰まる。

「いや、何でもない」

 言葉は出たが心は晴れない。ほんの僅かに揺れ始めた日常。誰にも気が付かれずに、静かに、しかし確実に、それは壊れ始めていた。

 次の日の夕方。テニス部の練習を終えた那瑠は校門の前で桜と落ち合った。男子テニス部は先に終わってしまったので、逹と蓮は直ぐ帰ってしまったらしく、桜と二人きりで歩くのは久しぶりだった。陽は傾き、街に赤橙の光が差している。

 桜はやけに静かだった。いつもなら今日の練習の出来とか、明日の予定とかを明るく話すのに。今日は時折、振り返るように後ろを気にしていた。

「……桜?」

「はい……」

 暫くしてぽつりと桜が口を開いた。

「変な事だと、笑わないでくださいね」

 那瑠は足を止め、少し目を伏せた桜の横顔を見る。

「誰かに、後をつけられている気がするのです……多分気のせいだとは思うのですが、ここ何日か帰り道で同じ車が何度も通るのです。信号待ちで停まっている時も、私の方を見ているような気がしていて……」

 桜の声は震えていた。明るくて、どんな時も笑っていた桜が、こんな風に怯えている。それが那瑠にはただ事ではないように思えた。

「それって、何色の車?」

「黒です。ナンバーまでは見ていませんが、何かが妙に引っかかるといいますか……」

 那瑠は思い出す。昨日、自分が書店帰りに見かけたスモークがかかった黒い車。その時は何とも感じなかったが、こうして繋がり始めると嫌な予感が膨らんでいく。

「誰かには話した?先生とか、親とか」

「……まだです。こんな事で心配をかけるのも嫌ですし、気のせいかもしれないと思っていました。しかし今日また見かけたら、那瑠には話しておこうと思いまして」

 桜がまた目を伏せた。その手は少し震えていた。

「大丈夫、桜の思い違いだったとしても、私がちゃんと気にしておく。何かあったら、絶対に直ぐに言ってくれ」

 那瑠の言葉に、桜は小さく微笑んだ。その笑顔は頼り無く、それでもどこか安心したようだった。

「ええ……ありがとうございます」

 その背後、遠くの交差点でエンジン音がひときわ長く響いた。黒い車がゆっくりと消えて行った事に。那瑠はその時まだ気付いていなかった。

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