第6話
――少し時は遡って。
那瑠は珍しく、昼休みに図書室を訪れていた。逹と蓮たちと一緒にいるのも良いが、たまには一人の時間も欲しくなる。昼休みの図書室はひんやりとした空気に満ちていた。ページを捲る音と、遠くで誰かが咳払いをする音だけが静かに響いている。
那瑠は窓際の席に腰を下ろし、手に取った詩集をパラパラと捲っていた。教室よりも少し落ち着ける空間を那瑠は気に入った。
那瑠がふと気配を感じて顔を上げると、見覚えのある女子生徒が立っていた。同じクラスの、確か空野葵と言ったはずだ。
「……隣良い?」
控え目な声に那瑠が頷くと、彼女、空野葵は小さく頭を下げてから隣の席に腰掛けた。手には分厚い小説と、ノートが一冊。
「葵さん、だよな?同じクラスの」
声を掛けると葵は驚いたように少し目を見張ってから照れたように笑った。
「うん、空野葵。那瑠さんって言うんだよね?」
「ああ、那瑠で良いよ」
「ありがとう、私も葵で良いよ。この図書室落ち着くからつい来ちゃうんだよね」
「ここは静かで良いね」
それきり二人の間に少しの沈黙が落ちた。しかしそれは重くもなく気まずくもなく、丁度良い距離感の静けさだった。
葵は小説を開いたが、すぐにぱたんと閉じてぽつりと言った。
「……実は、前から話してみたかったの」
「え?」
「那瑠はクラスでも目立ってたし、委員長だし、頭良いんだなって思ってて。不思議と目が行くって言うか、ちょっと気になってた」
「そうか、それは嬉しいな」
那瑠と葵はふっと笑う。窓の光が那瑠の髪に柔らかく差し込み、元々色素の薄い茶色の髪が更に光って輝いていた。
「これから、少しずつ話していけたら嬉しいな」
「ああ、話して行こう。よろしくな、葵」
「よろしく、那瑠」
図書室の片隅で小さな出会いが静かに芽吹いた。
それからと言うもの、図書室で話した日をきっかけに、那瑠と葵は教室でも挨拶を交わすようになった。
「おはよう葵」
「おはよう那瑠」
最初はそれだけだった。それでも葵の中で毎日のおはようがちょっとした楽しみになっていくのにそう時間はかからなかった。
授業の合間、ふとした拍子に同じ教科書を覗き込んだり、休み時間に少し話したり。そんな些細なやり取りが積み重なっていく。
「ねえ那瑠、さっきの数学のプリント、三問目の途中から分からなくなっちゃって……」
「ああ、あそこな。図形の面積の所だろう?ここ、公式を少し変えて使うと楽なんだよ」
葵は那瑠の指差すノートを覗き込みながら、素直に頷く。
「すごい、ノート綺麗に取ってるんだね。それにすごい分かり易い」
「ふふっ、分かってもらえて良かった」
その笑顔に、葵の中で何かが柔らかく解れる。気を張らずに話せる相手、高校で初めてそう思えたのが那瑠だった。
放課後や廊下ですれ違った時も。自然に立ち止まって話をするようになっていた。
「今日の風気持ち良いね」
「そうだな、気持ち良いよ」
「ねえ今度一緒にどこか遊びに行かない?」
「ああ、良いよ」
那瑠は快諾する。何処に行こうか?と葵が問いかけると、那瑠は紹介したい人がいるんだと言った。
「え、誰?」
「幼馴染の橋本蓮って奴と、双子の弟の逹。それに鷹之宮桜っていう子と東条璃音っていう男子」
「いつも一緒にお昼食べてる人だよね?」
「ああ、知ってた?」
「うん、私も食堂行くから、よく見かけてたよ」
那瑠はそっかそっかと言って、それなら話は早いなと笑う。
「今日はもう遅いから、また明日話そう。桜たちにも紹介したい人がいるって言っとくよ」
「うん、ありがとう」
――という事があり、先日あ・ら・かるとで顔を合わせた六人であった。
そして次の月曜日の昼。チャイムが鳴ると那瑠は筆箱を閉じて机の中のしまいながら、葵の方へと目を向けた。
「今日、一緒に食堂行こうか」
「うん、行きたい!蓮も一緒に?」
那瑠の前の席の蓮がノートを閉じて微笑みながら立ち上がる。三人は声を掛け合いながら教室を出た。昼休みの廊下は既にざわついていて、あちこちからお弁当の匂いや笑い声が漂ってくる。並んで歩く三人はどこか自然なリズムで足を揃えていた。
「食堂混んでないと良いな」
「逹が早めに行って席取っとくって言ってたから、多分大丈夫だろう」
「頼もしいね、逹は」
葵が楽し気に笑い、那瑠も口は軽いが、こういう時は役立つなと言った。蓮は黙って聞いていたが、ふと優しい声で言った。
「こうして三人で歩くのも落ち着くな」
「……私もちょっとそんな感じに思ってた」
葵が頷いて言うと、那瑠も悪くないなと笑う。
食堂に着くと、窓際のテーブルで手を振っている逹が直ぐに見つかった。隣には桜と璃音も座っている。
「おーい、こっちー!」
「声がでかいよお前」
那瑠が小さく溜め息を吐いて歩み寄った。
「約束通り、窓際の良い席ゲットしといたよ。感謝してくれよな」
逹はにししと笑って見せる。
「はいはい、ありがとさん。桜も璃音も、待たせたな」
「いえいえ、そんなに待ってませんよ」
桜はにこやかに微笑み、璃音はちらりと三人に目を向けてやあと小さく手を振った。六人が揃うと、テーブルの上には日替わり定食、パン、ジュース等と思い思いの昼食が並んだ。
「葵はよく食堂に来るのですか?」
桜がそう訊ねると葵は頷く。
「うん、よく来てるよ。いつも見かけてたから、こうして一緒に食べられるのちょっと不思議な感じがする」
「確かに、前にあ・ら・かるとでは会ったけど、こうやって並んでご飯ってのは初めてだもんね」
逹が箸を持ちながら言うと、璃音が小さく、でもなんか自然だと呟いた。
「うん、自然にっていうのは分かるな、無理なく落ち着くって感じ」
葵がそう言って笑うと、那瑠もつられるように微笑む。
窓から差す春の陽射しが、食堂のテーブルを優しく照らしていた。六人の会話と笑い声が、温かな昼のひとときを優しく彩っていく。
ジュースのストローをクルクルと回しながら、逹がふと葵に顔を向けた。
「そう言えばさ、葵はどこの部活に入ったの?」
箸を口に運びかけていた葵は、少し目を丸くさせた後恥ずかしそうに笑った。
「文芸部だよ」
「文芸部?マイナーな所入ったね。人数とか少ないんじゃない?」
「うん、今年の一年生は私入れて三人しかいないの。でも静かで雰囲気が良いんだよね。小説とか詩とか絵とか、読むのもかくのも好きだから、丁度良いなって」
「へぇ、何か葵っぽいかも」
那瑠が少し感心したように言う。
「でしょ?私もそう思う。文芸部って地味に思われがちだけど、結構自由で楽しいよ」
葵の話に桜が興味深そうに身を乗り出した。
「素敵ですね。私は本は読む専門ですが、そういう静かな時間も良いなと思いますよ」
「みんなは?文芸とか読む?」
「……ミステリーは好きだな、あと詩集もたまに」
珍しく自分から発言した璃音に、葵は目を輝かせる。
「ホント?今度おすすめ教えてよ。文芸部に来るのは難しくても、本の話が出来る人がいると嬉しいな」
「……ああ」
璃音が小さく頷くと、逹がちょっと大袈裟に驚いて見せた。
「まさか璃音から食いつくとは思わなかった」
「五月蠅いな……」
璃音の一言にみんなから笑いが零れる。蓮は静かにその様子を眺めながらぽつりと呟いた。
「それぞれ違う所にいても、こうして一緒にいられるのって何か良いな」
「うん、私もそう思う」
葵が柔らかく笑い、那瑠もまたみんなの顔を見て頷いた。
昼休みの時間はあっという間に過ぎていく。六人の距離は少しずづ近付いてきている。食堂を出る頃には昼休みの終わりを告げるチャイムがすぐそこまで迫ってきていた。廊下を足早に歩きながら、那瑠はやばい、急がないとと小さく呟き、みんなはそれを聞いて笑った。
「いつもは余裕そうなのに、意外ですね」
「今日は葵がいたせいだ」
「え、私のせい?」
軽口を叩き合いながら六人はそれぞれ教室のドアを開けて、時間ギリギリで自分の席に滑り込む。直後にチャイムが鳴り、廊下を歩いてきた真波が那瑠たちの教室に入ってきた。
「では、午後の授業を始めるぞー、教科書は二十ページを開いてくれ」
真波の声に従いながら、那瑠は素早くノートと教科書を机に出す。その様子は手慣れていて無駄がない。前の席では蓮が静かにペンを走らせ始めて、ちょっと離れた席の葵もページを捲る音を立てながら授業に集中する。
後ろの方の席に座る那瑠の頬に、午後の陽射しがほんのりと差し込んだ。視界の端に少しだけ首を傾げながらノートに書き込みをする葵の姿が見える。昼休みの柔らかな空気がまだ心の中に残っている気がして、那瑠は少し目を細めた。
真波が黒板に書いた文字を取りこぼさないように写しながら、ふと那瑠が小さな紙切れを葵の方に回してくれるように隣の席の子に頼んだ。授業が終わったら、文芸部の事もっと聞かせてよという教科書体を崩したような綺麗な那瑠の文字。葵はそれを目にしてふっと微笑んだ。那瑠の方をちらりと見て、口元だけでうんと形作り、視線を前に戻す。その動きはさりげなくて、しかし嬉しさを那瑠に伝えていた。
午後の教室は、ペンを走らせる音と教師の声が静かに流れていく。新しい日常の中で少しずづ芽吹き始めた関係は、静かに、そして確かに根を張り出した。
今日の授業を終える最後のチャイムが鳴り、教室は一気に騒がしくなる。椅子の引かれる音、教科書を閉じる音、廊下へ出て行く足音。それらの中で那瑠は一度立ち上がって伸びをしてから、ゆっくりと席に腰を戻した。その時、ふわりと葵は那瑠の机の横に立った。少し屈んで那瑠の顔を覗き込む。
「那瑠、さっきのメモの事だけど、文芸部の話、今良い?」
「ああ、勿論だ。どっか移動するか?」
那瑠がそう言うと、蓮が静かに後ろを振り返った。
「俺は職員室に行く用事あるから、ここ譲るよ。じゃあまた部活で」
「気が利くな、蓮は」
軽く手を挙げて出て行く蓮を見送って、葵は蓮の席に腰掛ける。放課後の教室は人の気配がまばらになり、窓の外からの風でカーテンがゆらゆらと揺れた。
「えっとね、文芸部って凄く自由なんだ。活動も週三くらいで、基本的には好きな事して良いよって感じ。絵を描いてる人もいるし、詩や短歌を書いてる先輩もいるよ。私は最近、ちょっと恥ずかしいけど物語を書き始めた所なんだ」
葵は少し照れたように、しかし楽しそうにそう言った。那瑠は頷きながら穏やかに葵の話を聞いている。
「葵は言葉選びが丁寧だよな。文章にも表れてそう」
「ホント?そう言って貰えるとちょっと自信付くな。那瑠は文芸には興味ある?」
「読む方ならな。最近は詩集をよく読んでる。あの静かな言葉の流れ、何となく好きなんだよな」
その言葉に葵の目が輝いた。
「凄く分かるそれ。言葉だけで世界が変わる感じあるよね」
葵の表情には、部活の話を出来る喜びと、少しの緊張とが混じっている。それでも那瑠の受け止め方が柔らかくて、安心したように口元が綻んだ。
「……ねえ、もし良かったらなんだけどさ、那瑠もいつか部室に来てみない?見学とかじゃなくて、ただの話し相手でも良いから」
「ああ、良いなそれ。葵の書く物語にも興味あるし」
「ホントに?やった」
葵は小さくガッツポーズをするように握った手を胸元でぎゅっとしながら笑う。その笑顔を見て、那瑠もふっと息を抜く様に笑った。
外からもう部活動に勤しむ声が聞こえる。二人の声はその中で静かに重なっていった。
「そろそろ行かないと遅刻扱いになるかもな」
那瑠が腕時計をちらりと見て立ち上がると、葵もそれにつられて立ち上がる。
「そっか、テニス部だよね」
「ああ、逹と蓮も、もう準備してる頃だと思う」
「じゃあまた今度、文芸部の話の続きしようね」
「楽しみにしてるよ。葵も執筆ファイトな。私もテニス頑張るからさ」
「うん!」
葵はパッと明るく笑って手を振った。那瑠も軽く手を挙げてじゃあなと返し、鞄を肩に掛けて教室を後にする。夕方の廊下では部活へ向かう生徒たちの足音が混じり合っていた。廊下の窓から吹き込む風で、那瑠の前髪がさらりと揺れた。那瑠は階段を軽やかに降りながら、葵の言葉や笑顔を反芻する。文芸部。それまであまり関心の無かった世界が、今は少し気になる存在になってきていた。
渡り廊下を抜けて部室に入り、着替えを済ませてテニスコートへ向かうと、遠くから声が聞こえてくる。
「うわっ、今のアウトじゃない!?いやギリギリ俺のポイントか!?」
逹の声が相変わらず元気に響いていた。その向こうでラケットを肩に担いだ蓮が淡々と返す。
「いや、今のは俺のポイント」
「くっそ、納得いかねえ!」
笑いながら言い合っている二人の姿を目にして、那瑠も自然と口元が綻んだ。
「おい、楽しそうだな」
「あ!来たね那瑠!遅かったじゃん、何してたの?」
逹が手を振りながらラケットをクルクルと器用に回す。蓮は那瑠に目を向けて小さく笑った。
「文芸部の話だよな」
「え、蓮何で知ってんの?」
逹がきょとんと訊く。
「さっき少し聞いてきた」
那瑠は少しだけ肩を竦めて苦笑し、バッグからラケットを取り出した。
「それより、ウォーミングアップやってんのか?」
「うん、軽くね。今から基礎メニュー入る所」
「了解、じゃ、私もさっさとウォーミングアップしちゃうわ」
そう言って那瑠は壁打ちを始める。賑やかな声とコートに響く気持ちの良いボールの音。葵との静かな時間とは対照的なこの場所も、やはり那瑠にとっては大事な場所なのだった。
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