第2話

 次の日、逹はまた一人で教室へと入った。今日は昨日行われた実力課題テストの結果が返ってくる。逹は基本的に勉強全般が得意では無かった。受験勉強も那瑠に教えられながらやったものである。どうも授業を聞くのが苦手で、気付いたら寝てしまうのであった。

「星川逹ー」

「はーい」

 テストが返ってくる時間、逹は名前を呼ばれて黒板前へと向かう。安藤先生から手渡されたテストの結果を見て、逹は喜んだ。赤点じゃない!心の中で自分に拍手を送りながら席に着く。


――時は遡って昨日。

 逹は那瑠と蓮と別れてから、一人で参考書を読んでいた。それはもう暗い顔だったと逹は自分でも思っていた。机に向かっていたがふと参考書を手放してしまい、横の通路に落ちてしまう。その時通りかかった生徒が拾ってくれた。

「ありがとう」

「いえいえ」

「お、お綺麗ですね、何ていう名前ですか?」

 逹はつい癖でそう訊いてしまった。彼女はふふっと笑って、鷹之宮桜ですと言う。

「それより顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

 それが逹と鷹之宮桜の出会いだった。

「いや、まったく勉強が出来なくて、今日の実力課題テストも自信無くて」

「あら、そうなんですね……少し教えて差し上げましょうか?」

 桜は少し思案してからそう声を掛ける。

「え、良いの?」

「ええ、良いですよ」

 桜は丁寧に課題と参考書を見ながら教えてくれた。逹にも理解できるように、桜は言葉を嚙み砕いて説明する。

「へえ、目から鱗って感じ……」

「そうですか?そしてこの公式は……」

 公式の説明までしてくれて、逹は数学への理解度を高めた。予鈴が鳴るまで桜は逹の相手をしてくれた。予鈴が鳴って、それでは失礼しますねと桜が行ってしまったので、逹はお礼を言いそびれる。


――という事があった。

 授業と授業の間の休み時間、逹はそわそわと早く昼休みになれと思っていた。この学校には広い食堂があって、那瑠と蓮とそこでお弁当を食べる約束をしている。きっと蓮は早弁をして食堂で何か買うんだろうなあと思っていると、案の定隣の教室では早弁をしている蓮がいたのだった。あの巨体を動かすのには相当なエネルギーを必要とするのだろう。成長期なのもある。

 逹は昼休みになると、速攻でお弁当を持って教室を出た。授業が長引いたので、少々焦りながら階段を降りる。食堂に着き二人の姿を探して、蓮の頭が飛び抜けて見えたので、ホッとしながらそちらに向かった。

「お疲れー」

「お疲れ様、逹」

「お疲れさん」

 那瑠と蓮はそう言って笑顔になった。逹も笑顔になって、報告したい事があるんだ!と言う。

「どうした?」

 那瑠にそう訊かれて、逹は更に笑顔になった。

「なんと!実力課題テストで赤点を回避しました!」

「えっ、本当に?」

 那瑠は疑惑の目になってカンニングしたんじゃないだろうなと言う。

「してない!実はさ」

 逹は昨日の出来事を話した。那瑠は目を大きくさせて、じゃあ姉としてお礼言わせてもらいたいなと言った。

「そんな子供じゃないんだから」

「いや、言わせてもらいたい」

「そう?じゃあ今日の放課後か明日の朝、食堂に来てもらえないか言ってみるよ」

「そうしてくれ」

 那瑠は笑顔になってお弁当を食べ始める。逹も思い出したようにお弁当を広げた。

「それにしても、逹が赤点回避か」

 蓮はラーメンを啜ってからそう言う。逹もびっくりだよねーと返した。

「二人はどうだったの?」

「俺は八十点くらい」

「私は満点だった」

「さすが那瑠」

「満点だったからクラスの委員長にも選ばれちゃったよ」

 聖北高校では春の実力課題テストの順位で委員長が決まるという風習がある。那瑠は溜め息を吐いた。

「委員長は星川那瑠にお願いするって担任から言われてびっくりしたよ」

「そうなんだ、ウチのクラスはその鷹之宮桜さんだったよ」

「へぇ、頭良いんだな」

 蓮も気になっているようだった。それよりと那瑠は気になっていた事を話し始める。

「鷹之宮って言ったら、この辺に鷹之宮財閥ってあるじゃん。お嬢様かな?」

「え、そうなのかな。分かんない」

「多分そうなんだろうな。他に聞いた事無い名字だし」

「えー凄い人に参考書拾ってもらえちゃったな」

 逹がポツリと言うと、那瑠がじっと逹を見つめた。

「……ちょっと待って、逹、お前その時、お綺麗ですねとか言わなかった?」

「え、何で分かるの?」

 逹が素で驚いた顔をすると、那瑠は額に手をやって溜め息を吐いた。

「出た、癖!なんでもかんでも口に出すやつ!」

「いやでも、本当に綺麗だったんだって!なんかドラマから出て来たみたいな雰囲気で……」

「もう、それナチュラルに口説いてるからね」

「うっそ!?俺そんなつもりじゃ……」

「彼女引いてなきゃ良いけどな」

 蓮が苦笑しながら、箸をラーメンの器に戻す。

「引いてたかな……いや、でも勉強教えてくれたんだよ?それってちょっとは良い印象だったって事じゃない?」

「ふーん」

 那瑠が冷めた目で逹を見た。

「逹は単純すぎて心配になる」

「いやでも感動したんだよ。なんかさあの人の説明って凄く分かり易くてこの公式は……とか言ってめっちゃ丁寧でさ。優しかった」

「なるほどね。じゃあ彼女がいなかったら赤点だったって訳か」

「そうかも。マジで命拾いした」

 逹がふっと笑いながらそう言うと、蓮が少しだけ真面目な顔で口を開いた。

「でも良いきっかけだったんじゃね?こういうのって、ちょっとの事でも自信付くと思うし」

「……うん、俺も何かちょっと自信付いた」

 那瑠は黙って弟を見ていたが、やがてクスリと笑う。

「じゃあ、次は私の出番は無しかな?」

「いや!那瑠先生の補講も引き続きお願いします!」

「しょうがないなー、今度アイス奢ってくれるなら考えてやるよ」

「めちゃくちゃ高いな!?」

 三人の笑いが食堂の喧騒の中に溶け込んでいった。


 掃除が終わり、放課となる。逹は机の横に置いていたラケットが入った鞄を、膝に置いた。中には何度もガットを張り直した、手に馴染んだラケット。新品とは言えないが、手放せない一本だ。

「おーい、逹!」

 廊下から蓮の声が響く。

「今行く!」

 鞄を肩に掛けて教室を出ると、那瑠と蓮がもう待っていた。那瑠もジャージ姿、蓮はタオルを肩に掛けて気合十分だ。

「本当に見学だけで良いのか?顔出したらきっと打たされるよ?」

「まーね、でもやっぱ見てるだけじゃ物足りないしな」

 蓮が笑い逹も頷いた。

「懐かしいよな、三人でテニス行ってた頃。まだ小学生の時だよね、毎週日曜朝からレッスンでさ」

 逹がそう言うと那瑠が、途中からは私が一番強かったと自慢気に言った。

「それ、今も変わってないっしょ」

 蓮が苦笑すると、那瑠は得意気に胸を張る。そして口を開いた。

「ちゃんと覚えてるよ、逹が最初にラケット持った日。サーブの格好が滅茶苦茶でさ、コーチに、これはボウリングですって言われてた」

「やめてくれ……その黒歴史は……」

 逹は顔を覆いながら笑う。

 そんな会話をしている内に、校舎裏手のテニスコートに着いた。フェンス越しに見えるコートでは既に何人かの生徒たちが練習を始めている。男子も女子も、声を出してラリーを繰り返していた。

「わ、結構本格的じゃん」

 逹がフェンスに手を掛ける。

「うん、ラケットもみんなちゃんとしたの使ってるし、球出しも自分たちでやってる。自主性高そう」

 那瑠はじっと観察してから、私ここ入ってもやっていけそうと呟いた。

「え、もう入部決定してる感じ?」

「んーまだ。でもやっぱ体が動きたがってる」

「それ分かるわ。何か見てたら打ちたくなってきた」

 蓮が腕をぐるぐると回しながら準備運動を始める。その時、部長らしき上級生が三人に気が付いてフェンス越しに声を掛けてきた。

「おーい、見学?」

「はい、テニス経験者です!」

 逹が元気良く答えると、上級生は笑って手招きする。

「じゃあちょっと一緒に打ってみる?ラケットあるなら使って良いよー!」

 三人は顔を見合わせた。逹が苦笑しながら呟く。

「見学って、実質参加ってやつだったか……」

「ま、良いじゃん。昔みたいにやろうぜ」

 蓮が笑い、那瑠も頷いた。そして三人はゆっくりとフェンスを開けてテニスコートの中に入っていった。コートに入ると、部員たちが使っていた予備のボールを貸してくれた。三人は簡単なストレッチをしてから軽くラリーをする事にする。最初にペアを組んだのは那瑠と蓮。

「じゃあ私がサーブね」

 那瑠がさらりと構え、綺麗なフォームで打ち出しサーブは鋭く蓮のコートへ。

「うおっ、変わってないな……!」

 蓮は慌てて打ち返すが、甘くなった球を那瑠がクロスで打ち返す。逹はその様子を見てにやにやしていた。

「さすがだわ、那瑠。相変わらず手加減ゼロ」

「え?本気出してないんだけど?」

「それが怖いんだよ!」

 暫く打ち合って、次に逹が那瑠と交代して蓮の対面に立つと、急に緊張した空気になる。

「逹ー、お前のフォーム、ちゃんと直ってんの?」

「……今に見てろ」

 逹は構え、力を入れてサーブを打った。しかし。

「わっ」

 勢い余ってボールがフェンスの外へすっ飛んでいった。

「おいおい!どこ狙ってんだよ!」

 蓮が大笑いしながらボールを取りに走る。

「あっれーおかしいな。またボウリングフォームになってたかも」

「逹、それは逆進化って言うんだ。進化して戻ってきてる」

 那瑠が呆れながら、でもどこか嬉しそうに笑った。

 その後も三人はペアを変えながらラリーをし、昔の感覚を思い出していった。周囲の部員たちも上手いね!と声を掛けてくれる。

 ラリーが一段落した時、蓮がコート脇のベンチでタオルを使いながら口を開いた。

「なんかさ、こうしてると小中の頃思い出すよな。大会前の練習とか」

「うん、帰りにジュース奢ってもらう約束して頑張ったり、逹が私のサーブ全部空振りして悔しくて泣いてたり」

「やめて!それ掘り返すのやめて!」

 部活見学を終えて荷物を纏める頃には、三人の心も少しだけあの頃に戻っていたようだった。荷物を纏め終わった三人は、校門を抜けて直ぐのバス停に向かう。校門を抜けて直ぐに並木道があり、夕焼けに照らされた舗道に三人の影が長く伸びた。

「やっぱ良い運動になるなー」

 蓮がタオルで首筋を拭いながら言うと、逹も額に残った汗を袖で拭った。

「体は覚えてるのに、スタミナがついてこないのが悲しい……」

「そりゃずっとゴロゴロしてたからでしょ」

 那瑠があっさりと返す。

「最近はちゃんと起きてるよ!授業中は寝ちゃうけど」

「アウトなんよ」

 蓮が笑いながら言った所で丁度バスがやってきた。車体がぎしりと音を立てて停まり三人は乗り込む。空いていた後方の並び席に並んで腰を下ろした。

「でもテニス部ちょっと良かったよね、先輩たちも雰囲気良かったし」

 那瑠がそう言いながら鞄からペットボトルのお茶を取り出して一口飲む。

「そうだな、無理に詰めてくる感じが無かったし、のびのび出来そう」

 蓮が頷く。座席の揺れがほんのり心地好い。

「じゃあ入部、前向きに検討って事?」

「まあね、でも逹は?」

 那瑠にそう訊かれて、逹はちょっと窓の外を見ながら口を開いた。

「んーやりたい気持ちはあるけど……両立出来るか不安かも、学力的に」

「珍しいな、逹が現実的な事言うの」

 那瑠がわざとらしく驚いて見せると、蓮が肘で逹の脇をこつんと小突く。

「じゃあ、部活で疲れて寝ちゃってまた赤点、と」

「やめて!ほんとにありそうなのやめて!」

「しかもあの鷹之宮さんに、あら、また教えて差し上げましょうか?って言われるやつ」

「だから勝手にフラグ立てないでくれる!?」

 バスの中で笑いが漏れた。何人かの乗客がちらりと此方を見たので、三人は小声で会話を続ける。

「でも私としてはまた中体連の時みたいな蓮と逹のペア見たいし、一緒に課題やってやっても良いけど?」

 那瑠がそう言うと、逹は思わず身を乗り出した。

「先生ですか?」

「星川那瑠先生ですよ。生徒は赤点くん一名」

 那瑠がにこっと笑う。

「その言い方……でも、うん。考えてみるよ部活の事」

「えっ、真面目!」

「天気が崩れるなこりゃ」

 蓮が冗談を言い、那瑠も明日雷かもと肩をすくめる。

「だからそういう所だって!俺のやる気が削がれていくの!」

 ガタンとバスが停まり、那瑠が立ち上がった。

「ほら、降りるよ」

「ちょ、まだ会話途中!」

 笑いながらバスを降りる三人。夕焼けの街並みに、またこの日が溶けていった。


「逹、起きろ。七時だぞ、逹ー!」

 夢の中で遠くから誰かに呼ばれている気がして、逹は顔を顰めた。瞼の裏がじんわり明るい。那瑠が開けたカーテンの隙間から差し込む光が、逹の微睡を容赦無く打ち砕く。

「うーん……あと五分」

 寝返りを打って布団に潜り込もうとする逹の背中を、容赦無く那瑠が叩いた。

「いった!」

「五分なんて言ってるとバス逃すって昨日も言ったろ!」

「うぅ……昨日の部活見学で筋肉痛……」

 そう、昨日の放課後に参加したテニス部の見学は思った以上に本格的で、試し打ちのつもりがフルラリーに近い運動量になっていた。久し振りに全力で体を動かしたせいで筋肉痛が逹の体を襲っていた。

 布団に顔をうずめたまま唸る逹に、那瑠は深い溜め息を吐いた。

「起きないなら、布団剥がすぞ」

「それはやめてくれ……せめて心の準備を……」

「三、二、一、はい」

「待ってって言ったのにー!」

 予告通り布団は軽やかに持ち上げられ、無情にも逹の体から剥ぎ取られた。春の朝とは言え、布団の無い空気は肌寒い。冷たい空気がシャツの隙間を通り抜けていく。

「さむっ」

「だから起きろって言ってんの。顔洗ってこい。朝ご飯はトースト焼いてあるから、さっさとしないと遅刻するぞ」

 那瑠は下階に降りながら言ってきた。逹は渋々体を起こし、ようやく現実の朝に戻ってくる。

「全く、姉ってのはどうしてこうも……」

 ぼやきつつ洗面所に向かい、水で顔を洗う。シャキッとした冷たさに、少しずつ頭がはっきりとしてきた。鏡に映る自分の顔を見る。案の定寝癖で爆発していた。

「……朝から手強いな」

 寝癖をどうにか落ち着かせ、制服に着替えて対面キッチンに行くと、那瑠がちゃっかり自分の分のトーストを食べ終えようとしていた。

「あ、ずるい!」

「ずるくはない。自業自得だろ。時間ギリギリなんだから、もたもたしてると置いていくぞ」

 逹は慌てて席に着き、トーストを齧った。外はカリカリ、中はふんわりとしていて思ったよりも美味しい。しかし時間は待ってくれない。

「あと三分で出発だ。バス一本逃したら教室まで全力疾走だからな」

「鬼コーチか……」

 そうぼやきながらも、逹は残りのトーストを口に詰め込んだ。身支度を整え玄関を出ると、ちょうど朝の風が頬を撫でる。まだ少し肌寒いけれど、春の香りが混じっていて心地好い。

「蓮、もうバス停着いてるって。早く行こう」

 那瑠がスマホを見ながら歩き出す。逹は後ろから付いて行くが足が重い。

「足、いた……筋肉痛……」

「もうお年寄りか?」

「年寄り扱いしないで……」

 そんな会話をしながら角を曲がる。丁度バス停に着いた所で長身の蓮がスマホをいじっていた。

「おはようさん、遅かったな」

「いや、聞いてよ。那瑠が布団剥がしてきてさ……」

「その位しないと起きないだろう?」

「そりゃそうだ」

 三人で談笑していると、朝のバスがゆっくりとバス停に入ってきた。時間ピッタリだ。

 車内はそこそこ混んでいたが、運よく三人並びの席が空いていた。今日は那瑠を中心にして逹が窓際に収まる。逹は座ると直ぐに窓に凭れかかり、一つ大きな欠伸をした。

「……今日一日乗り切れるかな」

「まだ始まってもいないんだが」

「それもそうか……」

 三人は今日も元気に学校へ向かって行った。

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