第1話

 高校入学の日が来た。聖南ひじりみなみ中学校出身の橋本蓮は昨年の冬に私立聖北わたくしりつひじりきた高校の受験に合格し、晴れてこの春に聖北高校に進学する事になった。お隣さんの幼馴染が聖北せいほく高校に進学すると聞いて、必死に勉強した甲斐があったと蓮は合格発表の日、ボードに自分の番号があって喜んだのだった。

「蓮ー、ご飯の前に慎の事起こしてくれないー?」

 下階から母親の声がする。下階に降りようとしていた蓮は分かったーと返事をして弟の慎の部屋をノックした。

「慎ー?入るぞ」

 返事は無かったが構わずに部屋に入り聖南中学校の制服がハンガーに掛かっている事を確認して慎が寝ているベッドに近寄った。

「慎、起きろ。入学初日から遅刻する気か?」

「ん、起きる起きる」

 もぞもぞと布団の中で蠢いてから慎はボケっとした顔で体を起こす。蓮はちゃんと制服に着替えろよと言い残して部屋を出ようとした。

「蓮にい」

「ん?」

 呼び止められてドアノブに触れていた手を引っ込める。

「今日、父ちゃんが蓮にいの入学式行くじゃん」

「ああ、そうだな」

「最近テニス出来てないなってぼやいてたから、さっさとお礼言った方が良いよ」

「……そうか、分かったよありがとう」

「うん」

 蓮は今度こそ部屋を出た。父とは聖北高校への進学の事で揉めてしまっていたのである。蓮は気まずそうな顔になりながら下階に降り、父親がリビングで新聞を読んでいる所に行った。

「父さん」

「何だ?」

 蓮は深呼吸をしてから口を開く。父は真っ直ぐに蓮の事を見ていた。

「俺の進路を認めてくれてありがとう。それに、今日有休使ってくれてありがとう」

 父はそれを聞いて涙ぐみ始める。蓮は慌てて、な、泣くなよと言った。

「本当に後悔はしていないんだな」

「勿論、またあいつらと一緒に学校行けるのが嬉しいから」

「それなら良いんだ。しっかり勉強してくれよ」

「分かった、とにかくありがとう」

「どういたしまして」

 蓮は逃げるようにキッチンへと向かう。母は温かく微笑んでいた。

「蓮、偉いぞ」

「何だよ」

 照れたように笑い朝食が用意されているテーブルに着く。いただきますと言ってから箸を取った。その内慎が降りてきてテーブルに着いた。

「おはよう母ちゃん」

「おはよう慎」

 慎も蓮と同じように朝食を食べ始めて、母は時計を見て急ぎなさいなと言う。蓮たちは急いで朝食をかき込み、二人並んで歯磨きを始めた。歯を磨き終わって、蓮は通学鞄の中に、課題と学生証がある事を確認し、いってきますと家を出た。

 蓮は聖北高校行きのバス停には向かわず、お隣さんの星川家のインターフォンを押す。ピンポーンと無機質な音が鳴り、ハイと返事が来た。

「蓮でーす」

「逹!蓮が来たぞ」

 その少女の声は何処か楽しげであった。続いて少年の声がする。

「えー待って待って!今ご飯食べ終わるから!」

「蓮、もう少し待っていてくれ」

「オッケー」

 プツンとインターフォンが切れ、蓮は空を見上げた。真っ青な雲一つ無い空だ。蓮の日に灼けた小麦色の肌に、男子にしては少し長い前髪が掛かり蓮は前髪をかきあげる。今日も良い天気だ。そして直ぐにお隣さんの家のドアが開いて、よく似た顔の二人が出て来る。

「おはよう蓮!」

 二人の声が重なった。蓮は微笑んだ。

「おはよう、那瑠、逹」

「急げ急げ」

 逹と呼ばれた少年が走り出した。腕時計を見ると七時四十分。急がないとバスに乗り遅れる時間だ。那瑠と呼ばれた少女も走り出して、蓮は後れを取る。

 何とかバスに乗り、三人は息を整えた。このバスの運転は荒い事で有名だったが、三人はまだ知らない。急ブレーキを掛けられて、三人は急いで吊革に掴まる。危うく転びかける聖北高校生もいて、三人は顔を見合わせて気を付けようと心に誓ったのだった。

 聖北高校せいほくこうこう前に着いた。三人は深呼吸をして校門をくぐった。とうとう踏み入れた学び舎を何とも言い難い感情で眺めた那瑠は、まずクラスの割り振りの張り紙を見る。

「あ、私蓮と同じクラスだ」

「えー俺は!?」

「隣だ」

 一人だあと頭を抱える逹の背中をさすってやりながら那瑠は励ました。

「中学入学の時も友達出来るかなあって心配してたけど、逹なら出来るよ。中学ん時も出来てたし、心配するな」

「ううっ。お腹痛い」

「大丈夫だって、逹。ちょくちょく様子見に行ってやるから」

 蓮も励まして、逹は何とか元気を取り戻した。

「絶対来てくれよ?」

「勿論」

「那瑠も来てね?」

「ああ、行ってやるよ」

 二人は苦笑しながら逹の背中をパンパンと叩いて、下駄箱を確認して靴を履きかえる。三人でまた校舎を歩き始めた。まだ始業まで時間があった三人は、校内を散策する事にした。パンフレットの地図を見ながらあちこち散策して、疲れる前に各々の教室に向かう。

「じゃあまた後でな、逹」

「またなー」

「絶対来てくれよな!」

「分かったから」

 三人はそれぞれの教室に入った。座席表を確認して橋本と星川で出席番号が前後だった蓮と那瑠は席に着く。

「黒板が見えないな……」

「すまん」

 蓮は百七十を超える高身長で、那瑠は百五十という低身長だった。そして蓮はとても大人びた顔立ちをしていて、大学生に間違えられることも多かったが、逆に那瑠や逹は童顔で大きな猫目型の目にいつも悪戯っぽい表情を浮かべているので年相応か下に見られがちである。三人で歩いていると兄弟に間違われる事も多かった。

 蓮は課題の見直しをする事にした。那瑠も思い出したように参考書を鞄から取り出す。今日は入学式の前に実力課題テストがあるのだ。

「どこ出るかなあ」

 那瑠がぼやく様にそう言った。蓮は後ろの方に体の向きを変えて課題を開く。

「課題全般から出るだろ」

「そうだろうけど、実力って名が付いたテストだぞ?」

「確かにな」

 蓮は那瑠の言葉を受けて、課題をしまい参考書を取り出した。お互いにメモがたくさん挟んである様子で、どれだけ受験勉強をしたか分かる。那瑠はにこりと笑って、さあ勉強しようと意気込んだ。蓮も静かに参考書を読み始める。時折法則や定理を確認し合いながら、時間は過ぎて行った。

 実力課題テストの時間がやってきた。若い教師が教室に入ってきて、教室はシンとなる。教師は挨拶代わりに揃ってるかー?と確認し、テスト用紙を配り始めた。

「実力テストの内容は中学範囲の復習と応用になっている。時間は三科目合わせて百二十分だ。集中力を欠かさずに最後まで解いてくれよ。それでは、始め!」

 一斉にテスト用紙を捲る生徒たち。それを教師は最後まで見守った。那瑠と蓮は最後の二十分で見直しに入った。国語と英語は問題なく、那瑠は数学の見直しを重点的に始めた。法則や定理を覚えるのが昔から得意ではなく不安だったのだ。解けはしたが、イマイチ自信が無い。最後の最後にミスを見付けて慌てて解き直しをする。そうして二十分があっという間に経ち、教師は止め!と声を出した。

「後ろから回せー。この後入学式だ、直ぐに戻ってくるから廊下に出席番号順に並んでおいてくれ」

 そう言って教師は教室を出て行く。一気に教室内に漂っていた緊張の糸が切れた。ざわざわと騒がしくなる教室内。蓮は後ろを向いてどうだったと那瑠に訊いた。

「まあまあかなー。最後に数学ミスった所あって、直し終わって直ぐに終了時間になっちゃったから、そこだけ自信無い」

「そっか」

「蓮は?」

「俺はまあ英語が得意だったから何とか最初に解いちゃって、数学と国語はお祈りするしかねえな」

「お祈りするほど難しかった?」

「数学の応用がきつかった」

「なるほど」

「受験よりは簡単だと思ったけどな」

「ははっ、違いない」

 那瑠は蓮の言葉に笑う。確かに受験の時よりは簡単だったなと思い、問題用紙を机の中にしまった。

「さあ、並びに行こう」

「おう」

 二人はクラスみんながそうしているように廊下に並び、那瑠は欠伸をかみ殺した。

「どうせ入学式なんて暇なんだろうな」

 那瑠の言葉に違いないと蓮は返して前を向く。教師がやってきたからだ。教師は行くぞーと声を掛けて歩き出す。みんなぞろぞろと後に続いた。

 体育館前、教師は足を止めて新入生入場の声を待った。みんな緊張しているのか、静かに待っている。しかし那瑠はもっと緊張する場所にいた事があるので、こんな所で緊張などしておらず、気楽にしていた。主席合格で新入生代表に選ばれていた那瑠は、新入生代表の言葉のカンペがあるか胸元のポケットを確認して、教師が歩き出すのを待つ。その内、新入生入場と声が掛かり、教師が歩き出した。みんなシャンと背筋を伸ばしてその後に続いて歩き出す。

 祝電や祝辞、生徒会長の迎えの言葉などを聞いて、やっと新入生代表の言葉、星川那瑠と言われて那瑠は大きく返事をする。各方向にお辞儀をして壇上に立った。お辞儀をしてスッと息を吸いこむ。

「新入生代表として、ここに立てることを大変嬉しく思います。私たちは、希望に満ちた未来を胸に、この学校の門をくぐりました。新しい友人や先生方との出会い、様々な学びが待っている事に心を躍らせています。私たちはこの学校で成長し、挑戦し、夢を追いかける仲間です。困難な時もあるでしょうが、お互いに支え合いながら、共に乗り越えていきましょう。そして、私たちの努力が実を結ぶことを信じ、日々全力で取り組むことを誓います。最後に、学校生活が充実したものとなり、素晴らしい思い出を築いていけるよう、共に頑張っていきましょう。これからの三年間、どうぞよろしくお願いいたします。新入生代表、星川那瑠」

 拍手を貰って那瑠は壇上から降りて自分の席に戻った。那瑠は小さく溜め息を吐いて、隣の蓮からお疲れさんと小声で労いの言葉を掛けられる。ありがとうと小声で返した。いやしかし、退屈な時間だな、この時間があればこの付近のカフェ二軒は回れるなと那瑠はふと思ったのだった。

 那瑠の趣味はカフェ巡りで、聖南中学校付近のカフェは既に踏破していた。この辺のカフェも巡りたいなあなんて考えている内に入学式は終わって、新入生退場の声が掛かる。新入生が立ち上がって、また教師の後に続いて退場した。

 教室に戻ると、教師は黒板に自分の名前を書いて自己紹介を始めた。

「真波拓だ、今年教師になったばかりだがこの一年A組を担任する。担当教科は数学。これからの高校生活が楽しい物になるよう全力でサポートする。分からない事は分からないままにしない事をモットーに、これからの勉強に励んでくれ。それでは、みんなからの自己紹介を頼もうか。出席番号順に一番から、立ち上がってみんなの方を向いて」

 そうしてみんながたどたどしい自己紹介を終えて、真波は満足そうに頷く。

「基本的に中学まであったであろう終わりの会は無い。七時間目までの授業が終わって掃除の時間が終わったら放課となる。今日は掃除の時間が無いのでここで終わりだ。みんな羽目を外し過ぎないように。部活見学をするも良し、帰っても良し。それでは解散!」

 騒がしくなった教室から真波は出て行き、蓮と那瑠は逹の所に行こうと、顔を見合わせた。お互いに頷いて急いで教室を出る。隣のクラスにいる逹はがたがたと震えてそれを待っていた。教室の中央より左後ろの席にいた逹を見付けて、二人は駆け寄る。逹はそれに気が付いてぱあっと顔を明るくさせた。

「那瑠!蓮!」

「元気してた?」

 那瑠はからかうようにそう言った。逹はぶんぶんと首を横に振って否定する。

「もう、聖南せいなん中学出身の人はみんな友達じゃなかったから一人で寂しかった!」

「そっかそっか」

 那瑠は残念そうに眉を下げてから、帰る?部活見学行く?と訊いた。

「俺もう疲れたから帰りたいよお」

「それなら駅前のアーケードに出来たクレープ屋寄ってから帰らねえ?」

 蓮の思いがけない提案に逹は喜ぶ。彼は甘い物が好物なのだ。

「良いね!行こう行こう!」

「よっし、それじゃあ行こうぜ」

 蓮を先頭に三人は歩き出して、昇降口で靴を履き替えて駅前のアーケードに向かう。そんな時間で逹は素朴な疑問を蓮に投げかけた。

「蓮って甘い物あんまり好きじゃなかったんじゃないっけ?」

「ああ、そうだよ」

「でもクレープ屋に行って大丈夫なの?」

「なんと、そこのクレープ屋にはサラダクレープと言うもんが売ってるらしい」

「へぇ!そんなクレープあるんだ!」

「だから誘ったんだよ」

 蓮はにやりと笑って見せる。

「どこでその情報仕入れたんだ?」

 那瑠も話に参加してきた。蓮はスマホでアーケード商店街のサイトを開き、那瑠と逹に見せる。

「これで情報収集してるって訳」

「ほほーん」

「そんなのあるんだあ、知らなかった」

「まあ、俺たちは聖北出身じゃないから知らなくても当然かな」

「なんで蓮は知ってるんだ?」

「俺は出歩くの好きでよくアーケード街来てるから」

「なるほど」

「ああ、そうだったな」

 逹と那瑠は納得してそう言った。那瑠は大きく欠伸をしてぐっと伸びをしながら歩く。伸びをしたら凝った背中がパキパキと鳴った。

 そしてクレープ屋に着いた三人は各々好きなクレープを買って、傍にあったベンチで食べる事にした。那瑠はバナナチョコクレープ、逹はイチゴバナナチョコクレープ、蓮はサラダクレープだ。

「蓮、美味しい?」

 逹は恐る恐る問いかける。蓮は口の中の物が無くなってから美味いよと返した。那瑠は美味しそうに蓮が食べているのを見て、一口頂戴と蓮の持っているクレープを一口食べた。

「あ」

「ん、美味しい美味しい」

「食われてしまった」

 蓮はクスクスと笑いながらそう言ったが、逹は眉を上げて怒りだす。

「間接キス!」

「良いじゃん、ずっと一緒なんだから家族みたいなもんだよ」

「ダメダメ!」

 逹は那瑠の事が大好きで、シスコンというレベルなのであった。未だに二人は同じ部屋で生活しているし、ベッドも二段ベッドだ。隣に同じ広さの部屋はあるのだが、那瑠の事が好きで移動する気はないらしい。

 むすっと脹れたままクレープを頬張る逹を見て、那瑠と蓮はクスクスと笑うのだった。

 

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