第72話 懺悔
今日の給食後の図書室は賑やかだった。僕はすみっこの席で本の虫になっていた。
賑やかな理由は、同じ六年生の女子の一団がピアノを弾きに来ているから。
軽快な曲を奏でていて、時おり聞こえてくる笑い声にページをめくる手が止まってしまう。
ちらちら見ていたら、鍵盤から手を離した女子が立ち上がった。僕はあわてて目を落とした。だんだん近づいてくる上靴の音に気分が暗くなった。
「てるきくんって、いっつも本ばーっかり読んでるね」
「……」
クラスのリーダー格である『城呉塚みう』だ。お金持ちでキッズモデルをやっていて雑誌やテレビで人気だから調子にのっている気高い子。
スカート姿も派手めで茶色の髪が姫っぽくクルクルしていて、とにかく僕がいちばん苦手な種類の子だ。
だから本に顔を寄せて、何を言われても無視を貫こうと決意した。
心の中で早くあっちに行けと念じつつ、口を縛って相手にしないよう心掛けた。片手を半ズボンのポケットに入れて祖父からもらったお守りを握った。
みうはそんな態度に不機嫌になったらしい。突然、「なにを読んでいるのよ!」とアクセのついた手を伸ばしてくる。
僕は力を入れて抵抗した。残りの四人が寄ってきて、みうが本をつかんで細眉をつり上げた。
「男子はみんなサッカーとかドッジやってるでしょ? 読書なんかやめて校庭で遊んだら?」
読書をしている子は他にもいるのに、なんで僕だけ目をつけるんだ。おとなしいからって絡むのはやめてほしい。
「それとも私たちといっしょにピアノを弾く? でも女子と遊んでるのを見られたらクラスでもっとイジメられるね」
「……」
「おい! 聞いてんのかよ。なにシカトしてんだお前。本なんか読むのやめて私を見ろ」
僕はみうと本の引っ張り合いになった。みうはムキになりながら、眉間に力を込めてうなり声をあげた。
「抵抗するな! おまえなんかクラスで浮いてるバカでみんなに嫌われてるんだよ!」
「……や、やめろ。向こうに行けよ」
僕は思わず声を漏らした。……本に罪はない。紙面にしわが入った本がかわいそうだ。
だから怒りよりも悲しさを理由に本から手を離した。みうはよろけて長机に腰をぶっつけた。
「きゃン!」
転んだせいで派手な音がたった。みうの険しかった表情に暗みが増して、さらに怖いものへと変わっていく。
僕はそっぽを向いた。心の内で自業自得だとののしった。
しかし取り巻きが怒って無数の手が伸びてきて、僕は床にうつ伏せにされた。頭上からいろんな悪口を浴びせられ、中の一人が上靴で僕の後頭部を踏みつけた。みうだった。
「おい、てるき、土下座しろ! 女子を突き飛ばすなんてサイテーだぞ」
大声で騒いでいたことで野次馬が次々と集まってきた。やがて輪ができあがり、この場が即製の処刑場となった。
そして僕が一方的に女子をいじめたことになってしまい、人垣から委員長が姿を見せた。
ふたつ結びの丸顔の委員長が、めがねを正して生真面目な声色で威圧してくる。
「てるきくん。この件ついては『帰りの会』で問題提起します。覚悟しておいてね!」
僕はそこかしこから追い詰められて心が痛んだ。みうが茶髪をうしろに払って正座するよう強要してきた。
取り巻きが指示を受けて僕は両腋をつかまれた。正座になったあと、ふたたび目を上げると円状になった人々が、「土下座! 土下座!」とシュプレヒコールを始める。
皆が皆、無慈悲に手拍子を打っていて人間とは違う生き物みたいだった。僕は頭が混乱した。ただおとなしく読書をしていただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。
そう思うと泣きたい気持ちに胸が締め付けられた。敵意に満ちた複数の目がうずまくようにして僕の存在を強く否定している。
どうにか弁解しなければ……。だけど言葉がでてこない……。焦れば焦るほどに心の痛みが広がって、喉の奥が苦しくなってくる。
頭上から降るたくさんの罵声に気圧されてしまい、がっくりとうつむいた。目を閉じると鼻腔がツンと染みて、まぶたの内が緩んできたのがわかった。
しかし突然、女子の誰かが声を張った。「やめて!」という一言に、あれだけうるさかった罵声が止まる。
僕はうつむいた姿勢でまぶたをぬぐった。床に小さな上靴が映った。そっと顔を向けると。背の小さい短髪の女の子が凛々しく立っていた。
みうが不服な顔つきで鼻をフンと鳴らし、サスペンダースカートを着けた女の子の肩を突く。
「なによアンタ。ずいぶんとチビね。いったい何年生?」
みうは威圧的に腕組みをした。女の子はそれを見上げたまま一歩も引かず、「二年生!」と答えた。
「ふぅん。下級生のくせにあたしらに歯向かう気?」
「図書室で、静かに読書してるヒトのジャマをするのは、よくないと思う!」
女の子は果敢に反論した。けれどもみうが陰険な面持ちで吐き捨てるように言う。
「てるきはアホでクラスみんなの掃き溜めだから、何をしても構わないのよ」
「そんなコトない。お兄さんは、何もわるくない!」
負けん気いっぱいの振る舞いに、みうが面白くなさそうな面持ちで舌を打った。
「そうやってカッコつけて、こんなヤツをかばってもぜんぜん得にならないのよ。逆に出しゃばったアンタがバカにされるだけ」
「とにかくもうやめて。お兄さんにヒドイことしないで!」
「……へえ、ずいぶんと食い下がるわね。二年のくせに六年生に文句をつけるとか自分の立場が分かっているの?」
女の子は沈黙で返したけれど、両手のこぶしに力を込めていた。みうの取り巻きが背後に立ち、女の子のカッターシャツのえり首をつかんでグイと引き上げる。
「なにコイツ。けっこう軽くて持ち上がったよ? 野良猫みたいで面白ーい」
「そのままどっかに捨ててきたら? いっそ窓からポイしちゃえ」
取り巻き同士が楽しそうにさげすむ。
ここは三階だ。窓から落としたら怪我どころじゃ済まなくなってしまう。
僕はどうにか助けなきゃと思ったけれど、まだ涙に濡れた顔を見られるのが恥ずかしかった。代わりにポケットのお守りをつかんで祈った。
みうが窓際に進んで窓を乱暴に開けた。
「そいつをこっちに持ってきてくれる?」
「いいけど。……まさかマジでやっちゃう気?」
「そうよ。ここから捨てるに決まってるじゃん。あたしを邪魔するゴミはボッシュートよ」
「あははは。ボッシュート。ボッシュート!」
取り巻きが腹を抱えて汚い笑顔を咲かせた。みうが顔で合図をすると、女の子がぶら下がったまま運ばれていった。
本当に下へ落とす気だろうか……。僕は立って止めようと思ったけれど、それを察した一人に冷たい視線で圧迫され脚に力が入らなくなった。
そして窓際に運ばれた女の子が手足をもがいて抵抗しはじめた。しかし取り巻きに力づくでおさえられ、三人の手によって女の子は窓外に出される。
横向きになった姿を、みうが冷やかすように覗き込んだ。
「ほーら行くよー。上級生に口出しするバカを校舎から捨てて花壇の養分にしてやるから」
「地面に赤い花火を咲かせましょう。ここ掘れワンワン!」
隣で犬のマネをしておどけた者に対し、他の奴らがげらげら笑って外に出した身体を揺らした。
女の子が焦った表情で必死にもがいた。司令塔のみうが悪魔に似た顔つきで口角を上げる。
「そんなに暴れると自分から落ちちゃうよ? いいの? ねえいいの?」
「おねがい! おろして!」
「今更遅いっての。これはね、あんたが自分から首を突っ込んだ報いなのよ。だから素直に受け入れて、この世にバイバイしちゃいなさい」
「たっ……、高いところはニガテなの……。もう黙るからおろして、おろしてください……」
女の子の目から涙が滑り落ちた。さっきまでの凛々しかった顔がまるで別人のようにおびえ、悲しみの色に満ちている。
苦しい状況に耐えきれなくなったらしく、年相応の幼い声をあげて泣き出した。顔を赤く染めてしわを寄せ、瞳から大粒の涙があふれてくる。
「もうやめてください。何もいいませんから……。もう、もう……黙りますから、お願いします。……怖い。怖いよぅ……」
僕は周りを見た。野次馬の誰もが引いた表情を張り付かせていた。
みうの取り巻きも気が静まったらしく、そろそろ終わりにようと顔をまちまちに向けている。委員長は離れた席でこっちに背を向けて読書していた。
取り巻きの一人がみうにそっと制止の声をかけた。しかしみうがそれを認めなかった。厳しい面持ちで下級生の首をつかみ、中空へと押し出す。
「こんなヤツ許すわけがないだろう! なによ急にしゃしゃり出てきちゃって、このミルクの甘ったるい匂いをぷんぷんさせたメスガキが」
「うわああああん! いやだ。いやだよう!」
さきほど仲裁に入った時、あんなに立派な姿だったのに、今はもうその片鱗さえ失くしていた。恐怖のあまり本能をむきだしにして嗚咽をあげている。
僕のせいでこんなことになってしまった。だから罪悪感でいっぱいになった。さすがにこれは止めなければいけない!
だが足を踏み出し近寄るも、そこから勇気を出せなかった。感情はこみ上げてくるのに、肝心な勇気を絞り出すことが難しい。怒ったみうの暴力と周りの視線が怖くなって、自己保身という利己的な考えが僕の身体を動けなくしている。
取り巻きが女の子を窓外で支えたまま困惑した様子を見せた。
「もうやめようよ。手にだんだん力が入らなくなってきた」
「そうよ。これくらいでいいんじゃない? こいつけっこう反省してるみたいだし」
「わたしもそう思う。なんだかこの子がかわいそうになってきたわ……」
それぞれが戸惑う顔で返事を待った。しかしみうの睨んだ両目がその訴えを跳ね返した。
つづいて構うものかとばかりに涙する女の子の前髪をひっつかむ。周囲にどよめきが起こったが、なぜかみうの醜悪だった表情がそっと緩んだ。
静まる図書室のなか、みうが態度を改めて慈愛のある母親のような顔に変わった。悪意に満ちていたはずの手が涙をすくっていき、女の子に優しくささやきかける。
「……ねえ。あなたって、どんな物が好き?」
女の子は悲哀の表情で泣いていた。けれどもみうの穏やかな目にじっと見つめられ、やがて徐々に涙を引っ込めた。ふたたびみうのささやき声が流れてくる。
「好きなものをおしえて? 例えば……、そうね。食べ物は何が好きなの?」
ややあってから、女の子は鼻をすすってこわごわと唇をひらいた。くっついていた粘膜がねばりをもって離れた。
「…………はん」
「ん? 何? よく聞き取れなかったわ。もう少し大きな声でお願い」
女の子は固唾を飲んで喉を鳴らし、唇を震わせる。
「おかあさんのつくってくれた、目玉焼きごはん……」
「ふぅん……そうなの」
みうが微笑をたたえて納得したみたいにうなずいた。突然吊り上がった眼をむいて、悪魔の表情に戻った。
「あはははは! じゃあもう食べられなくなるね。だってあなたはもうすぐ窓から落ちて死ぬんだもの」
取り巻きの一人が慌てて止めようとした。みうはその手を邪険に払った。女の子の首をつかんで押し出し、角度をつけて頭を下に向ける。幼い悲鳴が響く。
「いやああああああ!」
「わたし、先生呼んでくる!」
委員長が言い放って上靴の音が遠ざかっていった。他の野次馬も集まってみうを取り押さえようとした。僕もその中に混じって加勢した。
だがみうの容赦ない魔手によって、下級生の身体が支えを失った。
「──!!」
誰も止めることができなかった。小さな身体が絶叫をあげて校舎の壁に沿って落下していく。
僕は必死に手を伸ばした。しかし間に合うわけがなかった。代わりに花壇の端が壊れて鈍い音が返ってきた。
「あ……あ……」
なんてことだ……! 何の罪もない女の子が地面に叩き付けられてしまった。うつぶせの状態で微動だにしなくなっている。
自分の日常に、こんな悲劇が起こるなんて信じられない。
「あ……。ああ!」
僕が気弱なせいでひとつの命が散り果てた。もっと勇気を出してみうを止めるべきだった。
……静まる空気のなか、みうが花に埋もれた下級生を睨み、興奮冷めやらない表情で口端をゆがめている。
僕はそんな紅潮した横顔を見て頭が真っ白になった。だから堪らずポケットからお守りを出した。グリップから親指を滑らせ、刃をひらいて奇声をあげる。
みうがこっちを向いた。青ざめる顔面に力いっぱい振り下ろした。なめらかな感触のあと、悲痛な金切り声があがった。
「ぎええええええええ!!」
絶望じみた汚い声がうるさかった。今度は刃を喉に走らせた。みうが床に崩れてのたくり回った。
僕は心地よい気分にひたり、胸中に蓄積していた毒がどんどん抜けていく感じを味わった。血濡れた刃に、自分とは思えない鬼の形相が反射していた。
午後の太陽が僕たちの光景を笑っているみたいだった。
……あれから十五年が経った。
今日はあの子の命日である。僕は職場を定時で退勤して墓地に向かった。
帰りは電車に揺られつつ、夜の景色を眺めて当時の出来事を回想した。その後、駅の喧騒から抜けて下弦の月を見上げた。
自宅のマンションに向かって歩道を進んでいると電話が鳴った。上着の内から出して耳にあてた。
「もしもし。今帰るところだ。あと十分くらいで着くよ」
「……………………」
受話口の向こうで微笑を浮かべたのがわかった。僕は薬指のリングを見て暖かい気持ちになり、言葉をつづけた。
妻は何かと僕に尽くしてくれ、月命日には目玉焼きごはんを作る。理由は三つある。
それは無残な形で死んだあの子を弔うために。そして美しい顔を傷物にし、声を奪ったことで、僕を良心の呵責で苦しませるためだ。
あと目玉焼きごはんは妻の幼い頃からの好物である。
妻はあの事件が起こる以前から僕に好意を抱いていたらしい。だからあんな行動に出たという。
短編集 ろねっきー @bokka
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