第64話 消失した日

 

 スクールバッグを肩に階段を駆け降り、皿にある焼けたトーストをとった。

 食卓から離れようとすると、母親がコーヒーカップを手に注意してきた。新聞を下げた父が、「ちゃんと座って食べなさい」と調子を合わせる。

 けれども小学生の妹は「いってらっしゃい」と手をふってくれた。今日は帰ったあといっしょに、新作のゲームで遊ぶ約束だ。

 普段とさして変わらない日常。

 玄関でシューズを履き、ドアをあけて朝の光と出会う。はす向かいの家からちょうど、セーラー服を着た幼なじみが出てきた。

 こっちと目が合うと、明るい声音で「おはよう」とほほ笑む。跳ねるようにして進んできて、僕の隣に並ぶ。

 高校は違うけれど、トーストをかじって雑談しながら歩いた。Y字路で別れたあと、リサイクルショップが見えてきた。僕の胸は躍りはじめた。

 エプロンをつけたお姉さんが、今日も髪をうしろにまとめた格好で、じょうろを花にかたむけている。水を浴びた花が陽射しを受けて綺麗だった。

 でもお姉さんはそれよりも綺麗で魅力的。なぜなら僕の憧れの人だから。大学二年で、弓道が得意で、料理やお菓子作りがばつぐんにうまい。

 すこし照れつつ挨拶をすると、頼んでおいた真空管ラジオが届いていることを教えてくれた。

 ずっと楽しみにしていたから、嬉しくなってお礼を言った。お姉さんは、「帰りに寄りなね」と笑顔で見送ってくれた。

 今までお姉さんの名前を呼んだことはない。氏名は知っているけれど、まだ本人の前で口にのせるのが恥ずかしい。

 でも今日は勇気を出して、それとなく言ってみよう。学校が終わったら、すぐに走って会いに行こう。夕方になるのが待ち遠しい。

 僕は浮かれた気分で校門を通り、にぎやかな昇降口に入った。

 靴を履き替え、廊下を歩いた。階段をのぼった先に、クラスの入り口が見えてきた。

 教室にはいつもの顔ぶれがそろっている。慣れた感じに言葉をかわし席につく。

 カバンの中身を出していると、友人たちが集まってきた。

 机にひらかれた雑誌。盛り上がる会話。ホームルームの時刻が来て教師がやってくる。

「……ん?」 

 担任とは違う別の教師が来たことにちょっと戸惑った。

 聞いたことのない声が教室にわたり、出欠確認が開始された。苗字が順々に呼ばれていく。しかし──。

「……おい、きみは、どこの生徒かね?」

 時が止まった。冷やかしか何かの冗談だと思った。けれども、とがめるような目で見据えられ、僕はうろたえる。

 あたりから視線が集まっている。ふり返ったクラスメイトたち。誰もが不思議な顔をしていた。ひそひそ声がはじまった。

 僕はクラスメイトをひとわたり眺めた。

「なんだ、これは!」 

 信じられない光景に、つよい焦りを感じた。なぜなら全員、知らない顔になっていたからだ。

 どういうことだろう。意味がわからない。

 いつのまにか顔ぶれが変わっている。教卓を見ているあいだに、クラスメイトが入れ替わってしまった。

 もしかして教室を間違えたのか。

 いやそんなはずはないだろう。窓から見える景色はいつもと同じだ。それに先ほどクラスメイトと挨拶をかわした。友人たちと楽しく会話もした。

 なんだか記憶がおかしくなりそうだった。

 孤立した重い空気のなか、動揺していたら、教師が硬い足どりで寄ってきた。「立ちなさい」と命令された。僕は従い、口をひらく。

「あの、二年二組の、田島です」

「ふぅん。二年二組ね。……で、どこの学校の?」

「いや。えっ? この学校の、ここの教室の生徒……ですけど?」

 教師がまわりに目を移す。

「おーい誰か、こいつのコト知ってる奴はいるか?」

 あたりの反応は薄く、顔を見合わせるクラスメイトが何組かいる。

「ちょ、待ってください。僕は確かにこの教室の生徒です。二年二組の田島晴海です!」

 言葉を切ったあと、水を打ったような静寂がつづいた。

 だがふいに、笑い声がドッと起こった。僕は混乱しながらも、視線を周囲に走らせた。

 誰かが嘲笑しつつ、こっちに指をさしている。机をばんばん叩く生徒がいる。ウケるとばかりに涙をちょちょ切らせて腹をかかえる男子もいる。

 女子生徒が迷惑そうに首をかたむけた。別の方向からも不穏な目が睨んでいた。

 ──僕は、完全に知らない人として扱われていた。

 どういうことなのか現状を把握できず、疑念と恐怖に耐えきれなくなった。

 思考がぐるぐる回って思わず教室を飛び出した。バッグは置き去りだがそれどころではない!

 廊下を走った。一度床に転んだ。階段を駆け降りた。昇降口で靴を履き替え、僕はまるで異物が吐き出されるようにして校舎を出る。

 息せき切って走っていると、泣きたい気持ちが胸に染み込んできた。涙をぐっとこらえ、ただただ一心に目的地を目指す。

 リサイクルショップが見えてきた。

 脳裏にお姉さんの笑顔が浮かんだ。涙腺がゆるみ、まぶたをぬぐった。気持ちがすこし癒された。

 けれども現実は残酷だった。

 僕は期待が外れたことに膝からくずれそうになった。

「ああっ!」

 店がすっかり様変わりしていた。

 看板はまったくの別物で、骨董品屋になっている。入り口の美しい花々はどこにも見あたらない。

 店内のうす暗いなかで、人の動く影が見えた。こっちをうかがっている気配がした。

 外で立ちすくむ少年に気味のわるさを感じたのか、店主らしき人物が黙々と歩いてくる。知らない老人だった。僕は口を切った。

「こっ、ここはリサイクルショップだったはずです。あなたは誰ですか!?」

 取り乱して詰め寄った。老人の腕をつかもうとしたら、お前こそ何者だというふうに眉間にしわが集まった。

「おいおい。きみは何を言ってるのかね。ここは見ての通り骨董品店だが?」

「いや。そうじゃなくって、あれ? いや、その、えっと。そっ、そうだ! お姉さんは……? お姉さんはどこにいますか?」

「あのね……いい加減にしなさい」

 焦燥と涙まじりの訴えは理解してもらえず、老人は黙ってかぶりを振った。そして付き合ってられないといった具合にきびすを巡らせた。

 だが僕はあきらめなかった。

 ゆるい歩調の老人をよけて店の中に飛び込んだ。背後から怒声が聞こえたが、かまわず無視してあたりを確かめた。

 ……見慣れたものが何ひとつ映らない。

 カウンターにあったお姉さんのお気に入りの椅子も。いっしょにお茶したテーブルも。僕が絵筆で描いたお店の絵も、壁からなくなっている。

 以前、お姉さんが「上手だね」と感慨深く褒めて飾ってくれたのに、そんな記憶にあったものがすべて見あたらない。

 それに、ただよう空気からして違っている。

 いつも店に入れば、癒されるような優しい香りが流れてきた。なのに今は、その匂いが本人と一緒になって、どこかへ消えている。

 まるで見知らぬ他人の家の玄関だ。違和感のある空気が皮膚に触れていて、ここはなんだか居心地がわるい。

 僕はたまらなくなって、お姉さんの名前を呼んだ。しかし返事はかえってこなかった。

 今度はのどをしぼって名前を叫ぶ。制服の腕がつよく引っ張られる。

 ふり返ると、怒りをあらわにした老人にこっぴどく叱られた。僕は店から追い出されて歩道につんのめった。

 店を見つめても、答えはかえってこない。いったい僕の身に何が起こっているのか……? 

 これはわるい夢なのか。どうしても現実として受け入れられない。なんの前触れもなく僕は違う世界に放り込まれた。

 ……どういうことだ。……どういうことだ。誰か僕に教えてくれ!

 いくら考えても答えは見つからず、もう走る気力がわかなくなった。通行人を見ても知った顔がなく、ひたすらつよい疲労が背におぶさっていた。

 だが遠くから感じるわずかな引力をたよりにして歩いた。足を前に出すのが怖かった。地面を見ながら歩を運んだ。

 そして路肩の車列をかわし、自宅にたどりついた。うるさい音が響いていた。

 僕は騒がしさにおもてを上げた。その瞬間、絶叫をあげそうになった。

「!!」

 重機のバケットがメキメキと音をたてて屋根を崩している。住み慣れた家が無慈悲に取り壊されている。

 血の気が引いてめまいを覚えた。だが怒りが込み上がってきて、意識はとどまった。

 僕は放水していた作業員を突き飛ばした。驚く顔を見ながら声を張った。

「おい! ここは僕の住む家だぞ! なんてことをするんだ!」

 他の作業員が憤慨した顔で集まってきた。重機の音がやんだ。しかし力の加わった屋根が傾いて、二階の一部とともに落ちてきた。

 妹の部屋のベランダが地にぶつかり、去年の冬、いっしょに星を眺めた思い出が砕けた。

 今朝、家族が食事をとっていた場所が見えた。食器棚やテーブルがなくなっていて部屋が粉塵にまみれていた。

 僕は目をみひらいた。自棄になって暴れた。

 あたりから罵声と固い手がたくさん集まってきて、それでも僕は夢中になって抵抗した。

 

 

 ──そして今。

 僕は夕暮れの土手で途方に暮れている。ため息をこぼし、遠くの景色に目を凝らした。

 オレンジ色の陽ざしを浴びる鉄橋に、我が家に帰るであろう人々を乗せた電車が通っていく。

 電池の切れた携帯電話に視線を落とした。もう役には立たないので川面に向かって投げ捨てた。

 波紋が消えたあと、脳裏にいろんな場面が巡り、目頭が熱くなってきた。僕はくしゃくしゃになった顔を膝頭に隠して嗚咽をあげた。

 ……おそらくもう二度と、家族や友だち、それにお姉さんとは逢えないだろう。これからもずっと続くと思っていた平穏な暮らしが、ふいに奪われてしまった。

 さきほど役所に向かったが、家族や僕の氏名は登録されていなかった。

 どうしようもない状況に置かれ、心の重苦しさが増していく。鼻をすすりながら、藍色に暮れてゆく空を見上げる。

 なぜこんなことが唐突に起こったのか、まったく理解できない。だが僕は居場所をなくしても、この世界で呼吸をしている。

 涙をぬぐって草場を眺めていると、汚れた野良猫が顔を見せた。痩せて小さいながらも、その姿は凛としていた。

 斜面の下から無垢な瞳が見つめている。僕を視界の中心にとらえたまま、口をあけてひとつ鳴く。

 そしてうしろ足をつかって首をかきはじめ、目を閉じたのんきな顔に変わった。

 なんとなく──動物から生きるということを教えられた気がした。

 僕は眉間に力を入れた。冷えていた心があたたかくなってきた。前向きな気持ちと勇気が胸に染み込んでいく。

 毎日あきらめずに生きていれば、家族や友だち、そして憧れの人であるお姉さんが戻ってくるかもしれない。

 突然にして起こった出来事は、また突然もとに戻るかもしれない。そうやって信じ続ければ、願いがかなう可能性はなくもない。

 そうだ。僕は……。いや、俺はこの謎を解き明かし、ふたたび元の日常を取り戻さなければならない。

「よし。……やるか」

 湧き上がる決意を心に刻み、こぶしを固めようとした時だった。

「あっ!」

 てのひらが透けて、向こうの景色が見えていた。奈落に落ちていくような深い絶望感が襲ってくる。

 そんな。まさか……。せっかく生きる意志を持てたのに、これから消えてしまうというのか。

 僕はあわてて立ち上がった。しかし焦りを無視して透明度が増していく。何もあらがうことができず、ただ状況に従うしかなかった。

 ……どうやら予感は当たるらしい。

 僕は身体のあちこちを見つつ、自身の終わりを悟った。そして無言で目をつむって、この世に別れを告げた。

 

 

 

 

 

 ──検視を終えた医師が、彼の死因を『虚血性心疾患』だと判断した。

 昨日の晩、自室で就寝中に起こった突然死だ。

 これから死亡診断書を作成する前に、廊下で待っている家族に報告しなければならない。

 鉄のドアを押し開けた。

 両親が長椅子から立ち上がり、妹が泣きはらした顔をあげた。ひょうしに胸からゲームソフトがこぼれ落ちた。

 かたわらにはセーラー服の生徒と、エプロンをつけた女性が身を寄せている。

 涙に濡れた顔をしつつ、慰みの言葉を掛け合っていたらしい。

 妹がゲームソフトを見下ろしたまま、沈んだ声で「おにいちゃん……」とつぶやいた。

 

 

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