第55話 山の展望台
日曜の午後。
服を着替えて、自室のドアノブを回した。
受験勉強の休憩を兼ねて、外の空気を吸いたくなったからだ。
居間を通る時、親に外出を告げたらそろって白い眼を向けられた。
僕は玄関を出たあと、原付にまたがり、いつもの展望台に向かうことにした。30分も走れば到着する距離だ。
住宅地を抜け、山道を上り、途中の細い脇道に入って目的地にたどり着いた。
このさして広くない敷地はひと気がなく、相変わらずの貸し切り状態だった。のどかな海沿いの街はずれにあるマイナーな場所だからだ。
僕は、材木で組まれた黒い階段を上がった。
そして手すりをとった。急斜面の手前にあるベランダのような位置から湾が一望できた。キラキラと光る紺碧の海は今日も綺麗だ。
沖には漁船が数隻、ゆるゆると進んでいる。
数km離れた対岸に、灯台の建った岬が見える。その岬に行く途中に砂浜が横に伸びている。砂浜は、夏になると海水浴客でにぎわうスポットだ。
僕は気分が良くなって背伸びをした。暖かい陽射しを浴びながら空気を味わった。ゆるやかな風に、うっすらと塩のにおいが混じっていた。
「やっぱりこの場所は落ちつくなぁ。誰もいないし、おだやかで心地いい」
独り言のあと、上着のポケットから双眼鏡を出した。手すりに肘をかけて、レンズを覗き込む。
双眼鏡のスペックは、倍率が10倍の21口径だ。僕はそれを用いて、まずは砂浜を眺めることにした。
晴れた日曜だけあって、海とたわむれる人がいくつか見える。顔ははっきりしないが、家族連れやカップルが楽しんでいる様子が伝わってきた。
「んっ」
浜の堤防の下で、男がひとり座っていた。
白のシャツに、ジーンズらしきズボンの男は、やや背を丸めた姿勢で海を見ているらしい。
なんだか今の僕に似ているようで気になってきた。あの人も気分転換に、ひとりでやってきたのだろうか。
こちらと向こう側で、孤独な感情が繋がったみたいになってくる。
僕は今、双眼鏡をのぞいているけれど、あの人と同様に、孤独な時間を過ごしていることに変わりはない。
そんなシンパシーを感じつつ、どんな気持ちで海を眺めているのか考えていたら、男がいきなり立ち上がった。
「えっ!?」
唐突な出来事に驚いてしまう。
なぜなら男が、こちらに向かって手を振りだしたからだ。
両手をつかって大きく振っている。まるで船で遭難した人が救助を求めるかのように。
偶然だと思った。いや、それとも波打ち際に知り合いがいて、その人に手を振っていると思った。だがよくよく確かめてみて、そうではないと判断する。
「……」
信じられなさに、だんだん気味がわるくなってくる。
しかし男はかまわず手を振っている。こっちに早く反応しろといった調子で、執拗に動作を送っている。
僕の胸に不安なものが募ってきた。
どうしていいか迷いつつ、ただ茫然としながら、手を振る男に釘付けになっていた。やがてレンズの向こうで変化が起こった。
堤防の切れ目の通り口に、人が歩いてきた。階段を降りて、男の背後に立った。
だが男は、接近した者に気づかない。両手を動かすことに夢中になっている。僕は目をこらした。
すぐうしろに立っているのは、少年だった。
背格好からそう判断した。何をするつもりか不明だが、あやしい人物に変わりはない。
「ああっ!」
急な出来事に、思わず叫んでしまった。
男が痛そうに背をおさえる。包丁か何かでブスリとやられたらしい。男はふり向いたあと、前のめりに倒れていく。
「うっ、うわ……」
なぜこんなことが起こったのか理解できない。だが現実に人が刺されてしまった!
致命傷を受けたらしく、砂浜に突っ伏すように倒れたまま。男は動かなくなる。血は見えないが、きっと体内からあふれるそれが砂を赤く染めているはずだ。
僕は恐怖におびえ、双眼鏡をはずした。
顔がこわばっている。心臓が高鳴っている。呼吸は短くなっている。──見間違い、なわけがない!
だがもう一度確認する気にはなれない。どうしてなのか不明だが、あれに関わってはいけない圧力を感じたからだ。
脳裏に嫌な感情が渦巻く。
……そうだ。関わってはいけない。あれは自分の生活とは無関係な出来事だ。僕はただ景色を眺めていただけ。
離れているから関係はない。それに男が死体になれば、砂浜にいた誰かが発見して、通報するだろう。
そして警察が事件として扱い、何らかのかたちで解決するだろう。
だから僕は、たんなる傍観者としてこの場を立ち去り、またいつもの日常に戻っていいはずだ。
そもそもこの場所でいつまでも油を売っている立場ではない。長居しているとまた親に説教されてしまう。
先週の模試の結果はさんざんだった。居間で正座をさせられ両親から徹底的にどやされた。
他のきょうだいと比べられ、おまえはガラクタだとののしられた。志望校に落ちたら勘当すると宣告された。
暗い気持ちのままいろいろ回想していると、理性という名のふたに隙間があき、おさえていた憎悪が昇ってくる。
そうだ。僕は他人の不幸ごとに首を突っ込めるほど幸せな人間ではない。
そう結論づけて、きびすを返した。うしろ髪を引かれる思いだったが、頭を振って追い払った。
階段を一段ずつ、ゆっくりと降りる。
地に足がついた時、塾や家庭教師のうるさい顔まで浮かんできて、原付にキーを差し込んだ。
山を下りながら、暗澹たる気持ちが心にべっとりこびりついていた。
双眼鏡をつかって景色を見たことを後悔した。いや、今日こうして展望台に来たこと自体を悔やんだ。
──それ以来、僕はこの場所に来るのはやめた。目撃した場面は自身の禁忌として、なるべく思い出さないようにつとめた。
そして10年が過ぎた。
僕は志望校に二回落ちたあと、県外に就職していた。仕事はやりがいなどなく、ただ業務に追われるだけのいそがしい日々を送っていた。
だからこんな予定のない日曜日は、ゆったりと休息できる機会になる。友人はもとからいない。恋人なんてできたためしはない。
もしも彼女がいれば今日こうして、ひとり寂しく浜辺に降りることもなかっただろう。
僕は午後の陽ざしのなか、堤防の根元に腰を降ろした。そして孤独を感じながら紺碧の海を眺めた。
自分が生まれ育ったこの土地は嫌な思い出が多い。だが海を見るのは好きだ。
広い景色に身を置いていると、自分がだんだんその中に溶け込んだ感じになって、荒んだ気分が落ちついてくる。
だから久しぶりに地元へ足を運んだのだ。もちろん実家になど立ち寄ってはいない。このまま気が済んだら帰る予定だ。
「……」
こうしていると、思い出すことがある。
高校生の頃、ここから対岸にある急斜面の展望台から見た出来事。
ちょうど今いるこのあたりの位置で、人が刺された。前のめりに倒れて動かなくなった。突然、刺殺事件が起こったことにひどく戦慄した。
しかし、のちにテレビや新聞でそういった事件は取り扱われなかった。もしも殺人事件ならば、警察が捜査し、マスコミが取り上げるはずだ。
当然ながら地元で大騒ぎになって、犯人逮捕までのあいだは誰もが恐怖とともに暮らすだろう。
けれど、そういった騒ぎは一切起こらず、いつも通りの平和な毎日が続いていた。
おそらくあの光景は、知り合い同士のたわむれだったのだろう。それか演劇の練習でもしていたのだろう。
何度かSNSに書き込もうと思った。しかし事件じゃないならば、たいしたことではないので伏せておいた。
ただひとつだけ、気がかりが残る。
なぜあの男は、こちらに向かって手を振っていたのか。肉眼だけで、対岸の緑の山に混ざった展望台が見えるはずはない。
こういった腑に落ちない事実が、ときおり記憶からよみがえってくる。そのたびに胸がもやもやとさせられる。
「……」
僕は立ち上がり、あの時、まさにこんな感じだったと手を振ってみた。
ちょうどあの場所に僕はいた。受験勉強に疲れて、それを少しでも癒そうと景色を眺めていたのだ。
僕は展望台があるらしき位置に視点を置き、真似るようにして手を大きく振りつづけた。
そうしていると、なぜか楽しい気分がやってきた。
理由ははっきりしないが、自分自身が滑稽に思えてきたのだ。
いい年した大人がこんなことをして何になる。受験に失敗して、就きたくもない職場で、満足できない日々を生きながら心をすり減らしている。
そんな自分が面白おかしくなってくる。
僕は少し呆れながら、しかし脳裏にいたずら的な子供心がやってきて、手をブンブン振ってしまった。
肉眼では認識できない展望台に向かい、心からこんなメッセージを送った。『おーい。見ているかあの時の僕。こんな大人になった自分が今そちらに対して、必死に合図を送っているぞ』
などと、だんだん飽きてきたのを感じつつ、そろそろ座りなおそうと思った時、身がゾクリと凍るのを覚えた。
これは、偶然だろうか──。それとも無意識に、もうひとりの自分が選んだものなのか。
今日の服装が、あの時の男と似ている。白いシャツにジーンズ。
いや。ありきたりな衣服だから、たまたま被っただけかも知れない。
「──!!」
突然、背に激痛が走った。
僕はのどから内臓を吐き出すみたいにうめいた。靴の擦る音が聞こえ、ふり返った。
視界に、憎しみに満ちた形相が飛び込んでくる。
少年が歯を食いしばって僕を睨みつけている。呼吸のかかる距離で、何かをつぶやく。
僕は痛みに耐えかね、相手の手首を強く握った。
だが硬い刃物は引き抜かれることはない。むしろ深々と刺さってきた。血があふれ、少年の手を赤く濡らしていく。
高まる激痛に負けて意識が薄らぐ。前のめりに倒れながら少年の顔が遠ざかっていく。
身体が砂浜を擦って、口の中にざらついた感触が入った。傷口から体温が抜けていき、じょじょに迫ってくる死に恐怖を感じた。
僕は混乱しつつ、目玉を上に向けて痙攣する。しかし謎は深まるばかりだ。
──なぜ、この少年は、高校生の頃の僕と、同じ顔をしているのだろう。
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