第53話 帰る場所


 陽射しが降りそそぐ日曜の午後。

 緑ひろがる土手の下で、小学生の兄妹が仲良く歩いていた。

 兄が釣竿を肩にかけ、妹と手を繋いでいる。どうやらこの河川に釣りをしに来たらしい。

「にいちゃん、ここでいいんじゃない?」

 川沿いを進んでいた二人は足を止め、光が反射するキラキラとした流れに視線を移す。

 兄は草に腰を下ろし、竿先から垂れる糸をつまんだ。

「おまえはいつもここを選ぶよな」

「うん。この場所すきなんだもん」

「そうか。じゃあ今日はどんな魚が釣れるんだろうな」

 針にミミズを通し、妹に問いかける。

 妹は隣にちょこんと体育すわりになって、ひざに両肘をついた。そばには黄色い花が風に揺れていた。

 バッタが元気に飛び跳ねるのが見える。倒れた看板にはなめくじがウニウニと移動している。

「わたし、ちいさなサカナがいいな。おおきいのはなんだかこわいもん」

 まえに図鑑で見たサメを思い浮かべたらしく、空に目を向けてぶるぶるっと震えた。

「あははっ、おまえは怖がりだなぁ、ここはそんなに大きい魚は釣れないよ」

「そうかな。こんなにひろい川だもの。ヌシとかいたら食べられちゃうかも」

 兄が川に向かって竿を振った。水面に針が落ちて波紋が広がる。

「ヌシがあらわれても大丈夫だよ。兄ちゃんが守ってやるさ。でもそんな大物が釣れたらみんなに自慢できるな」

 クラスメイトの驚く顔を想像した兄は、ほくほくとした面持ちに変わる。

 川の向こう岸には、数人の家族連れや恋人が、自然とたわむれるために遊びに来ている。

 草であぐらをかく暇そうなおじさんもいた。

 

 ――それから数時間が経った。

 竿が何度かしなるも、毎回、餌を食い逃げされた

 そのたびに兄は負けじと餌を付けなおした。妹にいいところを見せようと、糸を水面に垂らす作業を繰り返す。

 そうこうしているうちに、太陽が遠くの山稜に近づき、空は夕焼け色に染まっていった。

「……にいちゃん」

「ん?」

 草場にうつぶせに寝そべり、腕を枕にしていた妹があくびをかむ。

「ぜんぜんつれないね……」。

「う~ん。場所が悪かったかな。ここはけっこう魚がいそうだけどハズレだったかもな」

 兄もだんだん疲れてきた様子だ。

 そんななか、工場のサイレンが朱に染まった雲めがけて鳴り響く。

 数羽のカラスが大空をすべりながら、のんびりとした声をあげていった。

 地上の二人は寂しい気分になってきた。魚は釣れないし、お腹は空いてきたし、だんだん家に帰りたくなってくる。

 いまごろ母親が、夕飯の支度をしているだろう。

「にいちゃん」

「なんだよ」

 兄は顔を向けずに応えた。妹の口からちいさくため息が漏れた。

「もうそろそろ、ウチにかえらない?」

「……」

 二人は同じ気持ちになっていた。

 だが兄は釣りを始めた以上、手ぶらで帰るなんて、カッコわるく情けないと思っている。そんな男の妙なプライドじみたものを感じている。

「よし。じゃあ一匹だけ。一匹だけ釣ったら帰ろう。せっかく来たんだし、まだ夜までには時間はあるって」

 兄は竿をぐっと握り締めた。そして糸の先に視線を据えた。

 妹はお腹が減ってきたのをがまんし、黙ったまま、同じところをぼっーと見つめていた。……すると、竿が小刻みに揺れた。

「おっ! なんか、かかったかも!」

 兄は腰を浮かせて立ち上がった。

「まちがいないぞ。魚がヒットした!」

「ほんと?」

 妹は寝ぼけまなこだったが、瞳を広げてとんび座りになった。前のめりの姿勢のまま、わくわくとした期待感が胸に広がっているようだ。

「にいちゃん!」

「うわ! これは糸の引きがすごいぞ! けっこう大きい!」

 妹は一瞬、大きいという言葉におびえた。ヌシだったら食べられてしまうと恐れたからだ。

 だが妹は、兄が必死に竿を引き、頃合いを量って糸を巻く姿を応援することにした。

 にいちゃんがんばれ! サカナに負けるなっ。というふうに、興奮しながらこぶしを振って右往左往する。

 兄は高まる鼓動を感じつつ、竿を持ち上げ、下ろしたタイミングを見計らい、すばやくリールを巻いていく。

 額に汗がにじむ。兄は紅潮しながらこれは大物だと確信した。

 今まで感じたことのない強い反発力だ。『ヌシ』という言葉が脳裏に満ちていく。

 見事、釣りあげた時はきっと妹は喜んでくれる。クラスの仲間に自慢ができる。

 そんなふうにして兄は、獲物を絶対に逃がすものかと夢中になっていた。

「にいちゃん! 見えてきたよ」

 妹が、はらはらしながら水面をさす。

 大きな輪郭が浮かび上がっている。そして水の中で荒々しく抵抗を繰り返している。

 兄はそれをみとめ、さらにがんばった。それからこう思った。

 数時間、何度も餌を付けかえ、待ちに待った大きなヒットだ。しかもこのあたりの河川にいる魚の中では、かなり大きい。釣り上げたらきっとヒーローになれる。

「たぁーーー!」

 兄の勇ましい叫びが響き渡った。

 同時に、水から跳ね上がるようにして、大きな魚が宙に舞った。

 黄昏のなか、光を反射する魚はとても綺麗だった。二人の笑顔が弾けた。

 ようやく思いが叶い、魚を打ち揚げることができたのだ。

「やった! やったぞ。にいちゃんが釣り上げたんだぞ!」

 手を取り合って、ぐるぐる回りながら喜んだ。待ちぼうけの疲労なんてどこかに飛んでいった。

 ──そしてひとしきり喜び合ったあと、目方が十キロはありそうな大物をまじまじと見下ろした。  

 するとそこへ、一本の影法師が割り込んでくる。

 おや? 誰だろう……と、二人はおもてを上げた。

「立派な魚だね。キミたちが釣ったのかい?」

「あっはい。そうです」

 兄は自慢げに答えながら、どこかで見た人だと思った。

 たしかここへ来た時、対岸であぐらをかいていたおじさんだ。

 短く切った白髪にメガネをかけている。生やした髭が凛々しく、どちらかといえばお爺さんに近い。

「そうかそうか。大物が釣れて良かったじゃないか」

 妹が少し警戒するようにして、兄にくっついてくる。

 知らない大人が近寄ってきて、不安になったのだろう。兄はそっと、あたまをなでた。

 おじさんがポケットに手を入れた。

「じゃあ、もう気が済んだかい……?」

「えっ?」

 意味のわからない質問に、兄が目を丸くする。

 不気味なものを感じたが、いったい誰なのかと口をひらいた。

「どういうことですか?」

「だって大物が釣れたんだろう? ならば、もういいじゃないか」

「あの……」

「これで満足だろう。はやく帰りなさい」

 おじさんが怒ったような顔つきで、ポケットから手を抜いた。

 何らかの意思を込めて固く握られているのがわかった。兄妹はそれに目を向けた。

 おじさんが、数珠を持った手を強く振った。そして念仏を唱えはじめた。

「……?」

 兄と妹は、何が起こったのかわからず、ただ茫然としながら成り行きを見守っていた。

 だが二人に変化が起こった。

 兄と妹は、風に溶けるようにして、すうっと消えていく。まるでそこに、最初から何もなかったようにして……。

 

 やがて詠唱が終わった。おじさんの顔が悲しいものに変わる。

「……かわいそうに。わしにしてやれるのは、この程度のことだ」

 陽が暮れたことであたりはもう薄暗かった。草むらには、木枠が腐って倒れた看板が、星空を見上げていた。

 いったい何年前からそこにあるのか知れない古い看板だ。錆びて赤茶けた表面には、【水難事故に注意】という文字がどうにか読みとれる。

 おじさんはふたたび独りごちた。

「きっとあの二人はまたやって来る。何度も、何度も……。だがこれもわしの務めだ」

 川辺には、供えられた菊の花が揺れている。

 

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