最終章-5 堕ちた兄
「大人たち、ひどいですね。お兄さんがかわいそうです」
桃瀬は憤慨する。いつかの見沼の伝説の女性に涙したり、彼女は本当に感受性が豊かで思い入れができる人なのだな、と話しながら榊は思った。
「本当にな。俺は家を継ぐつもりはない、公務員になると散々言っていたのに、誰一人として耳を貸さなかったということだ。酒の上の話だったとはいえ、俺を跡取りにという声は度々上がっていたらしい」
「お兄さん、家業のために民俗学まで専攻していたのに。その努力を認めないなんて」
「ああ、俺もそう考えていた。あの時までは」
「あの時?」
「俺が大学を卒業し、
仕事が終り、退庁しようと携帯を見ると実家からの着信が異常な桁の件数を示していた。普段の連絡は無料メッセージツールを使うから緊急の要件ということだ。
「じいさんが倒れたのかもしれないな。年も年だし」
そう思いながら、人気の無い場所へ移動してリダイヤルした。しかし、予想外の事実を告げられることになる。
『雄太が禁忌を破った』
電話に出た父親が開口一番、雄貴に告げた。
「兄さんがどうしたって?」
『ああ、あいつが東経大へ行ったのも、民俗学が専門の山中教授のゼミを専攻していたのも、そのまま院へ進んで研究していたのも、全てはこのためだったのだろう』
父の声は興奮しており、舌足らずなところがある。よほどの事が起きたとはわかるが、何のことだかさっぱりわからない。
「ちょっと、意味がわからない。兄さんが何をしたって言うのさ」
『山中教授から連絡があったのだ。雄太が榊家の古文書を複数持ち出したと』
「古文書?それがどうして大変なことなのさ」
『持ち出した古文書の中に『天狗見聞集』が入っている』
「え?それってまさか」
『ああ、あれは榊家の正式な跡取りにしないと見られないようにしてある取り決めだ。それは教授にも話してある。だから、雄太が持ち出したことを不審に思って問い合わせがきて発覚した』
勝手に持ち出すなんて兄は何を考えているのだ。そもそも事情を知っている教授がなぜ兄に渡したのだろうか。
「なんで教授はあっさりと渡してしまったのさ」
『教授が学会で出張中で留守のところに、雄太が教授の家に行って奥さんを言いくるめて、保管してある古文書を出させてしまったようだ。『緊急の案件で父の代わりに受け取りに来た』と言ってな。雄太は度々教授の家にも行っていて、面識があった奥さんはそれを信じて差し出したらしい。教授が出張から帰って発覚したというから、遭えて発覚を遅らせるために出張時を狙っていたのだろう』
「それで、兄さんはどこに?」
『それが、行方が全くわからない。連絡が取れないのだ。恐らく古文書の記してあった天狗の住む山へ行ったのだろうが、拠点が破壊されている』
「拠点?」
『ああ、緊急だから教えるが、榊神社の御神木が出入口だったのだ』
「あそこが?」
榊神社とは榊一族が管轄している神社でもあり、傍系の者が管理している。
『ああ。実は今朝、そこの木が倒れた。
あそこは一週間ほど前からドリアードも木霊も消えていたから我々が対策を探っていた。精霊が消えた日と雄太が持ち出した日が一致するから、追いかけてこれないように雄太は御神木の精霊を抹殺していたのだ。精霊が居なくなれば当然樹は枯れる。これも発覚を遅らせるためにこの方法で拠点を破壊したのだろう』
「なんてことを……」
『生身で天狗の拠点に行けない以上は式神を飛ばしてみるしかない。しかし、ことごとく打ち破られている』
「な……親父の式神が破られているだと!!」
当主である父親の霊力は高く、式神が打ち破られるとは相当な力を持った何者かに返り討ちにされていると言うことになる。それは今までの兄ではできなかったはずだ。
雄貴はいつかのことを思い出していた。天狗になった虎太郎の話に異様に執着していたこと、祖父の古希の席で『お前を追い越す』と言い放ったこと。あれらの態度や言葉の本当の意味を今悟った。
兄は自分を越えたかったのだ。しかし、正攻法では成し遂げられないと考えた兄は禁忌を犯して力を手に入れる目的のために、榊家が古文書を貸し出した教授の元へ近づき、信用を得て持ち出す機会を伺っていたのだ。
その目的のためだけに最初から進学先も専攻も決めていたのだろう。
「じゃあ、既に兄さんは……」
『ああ、もう手遅れだ。恐らくは天狗の住む異界に行って天狗になってしまった。式神もあいつが打ち破っているということだ。ああ、なんてことだ』
確かに、天狗の異界へ行ってしまったということは天狗になるということだ。そしてそれは兄が人間でいることを辞める選択をしたということだ。
「そんな……兄さんが」
雄貴は事態が飲み込めず、いや受け入れられずに呆然とする。
『とにかく一族で緊急会議だ。お前もすぐに来い』
「わかった」
電話を切り、空を見上げた。
夕闇が迫り、藍色に染まりかけた空。そこに彩るように月が出ている。何故だか妖しい光を放っているようにも感じるのは今の話を聞いてしまったからだろうか。
「俺は家を出て就職したのに。何故だ、兄さん」
月は煌々と霞が関のビル群を照らし続けていた。
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