第15節 再びオルタキョイの小屋
罪悪感、なのだろうか。
戦場は泥だ。
「平和」も泥だ。
脚を突っ込んでいるか、顔を突っ込んでいるか、その違い。
結局どっちかに居るしかないのだから、息ができなくても動き回れる「平和」の方がいいのかもしれない。気にしなければ息苦しさだってたいしたことはない。
現に私は気付かなかった。
ずっと戦場の泥に足を取られていると体ごと沈んでしまう。息ができる、頭がちゃんと回っているから、自分の沈んでいくのが刻々とわかるのだ。
彼はそういった立場なのだ。
平和を志向して、トルコに来て、農業をする地位も手に入れて、仕事を任されて、猫の友達も居る。でもやっぱり、泥は落ちなかった。それどころか、足元はまだ泥濘だった。
戦争をやる人間が悪いのではない。
彼らの織り成す連関構造が悪いのではない。
戦争と「平和」は、例えば、慢性的な死のイメージと、過激な死のイメージの違いに似ている。
目に焼きつく鮮烈さを美しいという人も居るけれど、
決定的に破壊を伴う。
曖昧な境界の中で、
壊れているという自虐。
朽ちていくという悲哀。
分かれ道の真ん中を割って進むゆえの割り切れなさ。
風が吹いた。
金色の絨毯がざあと泣いた。
額の横で前髪を押さえる。
五秒、下の唇を噛む。
私はオルガン。
望み、望まれた存在。
ヘレンはドア横の配線の剥き出しになったブザーを押す。百年前のエレベータのようなぎこちない音がくぐもって響いた。昨日は閉まっていたガレージのシャッタが開いていた。オルゴールみたいなローラーを接続したトラクタが先頭でその後ろはコンバイン。端に肩身狭そうなハッチバックが一台。
返事が無い。
もう一度、さらに間隔を狭めてもう一度押した。けれど、ウステアは居なかった。ガレージのシャッタは開いていた。例えば、足の裏とブーツの裏にバルブが付いていて、地面から差し込まれたプラグがいったん全身の血液を抜き取って、アドレナリンの豊富に含まれた新しくて冷たい血液を注入した、そんな感覚だった。
ああ、そうか。
助走をつけてドアの一メートル手前で跳び上がる。折った脚を伸ばす勢いを合わせて薄っぺらいドアを蹴破る。貧弱な材木にしがみついていた蝶番がとうとう事切れて盛大な不協和音を立てた。
ドアを踏む。誰もこちらを向かない。それは当然、誰も居ないのだから。
ギターケースが部屋の真ん中に引き出されて内臓を晒していた。肝心の中身は既にない。
こういう時は、そう、無線機だ。
イヤホンを耳に付け、腰の送受信機の白いボタンを押す。ホットラインだ。
すぐに交信状態を告げる赤いランプが点灯した。
「こちらオランピア。エマージェンシー」
「ニュクティ・ヌル。どうした」
「ターゲットロスト」息を吐く。「コーネリウス、そちらが危ない。そういう予感です」
「わかった。心配するな。誰も気を抜いていない」
「…はい」
「気をつけて戻ってこい」
「そちらこそ」
通信は切れた。
外界には風が吹いていて、それは柔らかいもののはずなのにマジックテープの硬い方で頬を引っ掻かれたみたいに思えた。
ガレージに向かって走った。ドアの横のフックに車のキーが掛けられているのは昨日のうちに把握していた。
プジョー205。古い車だ。ブレーキとクラッチを踏みながらキーを捻ってイグニッションを回すと、三回空転した後でようやくエンジンに火が入った。大丈夫、動きそうだ。
エンジンなんか掛けてないで自分の脚で走り出したい気分だったけれど、焦らず急げというのは名言だ。ちゃんと的を射ている。ここは戦場なのだ。私にもできる。慣れたことのはずだ。
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