第14節 エーリンとコーネリウスの会談
首の包帯を外してしまいたかった。包帯をしていれば実態はどうあれ怪我をしているように見えてしまう。けれどなぜ包帯をしているかといえば、無論その下の膚に傷があるからなのだ。包帯を外しても怪我は無くならない。ワイアームは他人から心配されるのが嫌だった。特別な配慮を受けることが、そうやって自分が若僧として扱われるのが不愉快だった。歳を重ねた経験者は語り、これからの経験に備える若者は聴く。個人的な関係までそんな概念に染められてしまうのはごめんだった。
現実を追求するエルフリンクにそんな世俗的な構造などないはずだった。けれどそれでも俺は分けられるのだ。結局誰もが未熟さや若さが珍しがる。
「あのメッセージのことなんだけど」社長のコーネリウス・ラウェンブルクは言った。懐から出したUSPをテーブルの上に置いて手の動きを止める。
「壁画の?」ワイアームは肩にかけたPP-19のストラップを片手で手繰る。社長の行動を見てマガジンを嵌め直しておこうとしていたのだ。
「うん。あれ、もしかしてアルバニア語じゃないかな」社長はワイアームの顔を見上げ、「なんてね」と言って苦笑した。ワイアームがあまりにきょとんとした顔を見せていたからだ。
「なんでそんなことを思いついたんです?」ワイアームは自分の醜態に多少憤りながら訊き返す。
「いや、根拠なんて無くてね、勘だよ。ヘレンが居ないのは知ってるよな」
「はい。ホテルのロビィで頼まれましたよ」
今朝下りて行ったら彼女は待ち構えていて、失笑してしまうくらい真面目な顔して頭を下げ、お辞儀が終わると何か堪えるような微笑で見つめてきた。あんなふうにされたら断れるわけがない。もちろん、社長に言われただけだったとしても快く引き受けただろうけど。
「ん?」コーネリウスは訝るように喉を鳴らした。気付くと彼のことを凝視してしまっていたのだ。
「いえ」すぐに目を逸らす。いかにも彼とヘレンとの関係を勘ぐっているみたいではないか。「その、暗号とヘレンに何か?」
「いいや、それは無いと思う。だから勘なんだけど」社長はさっぱりと言って、先程給仕に用意させたグラスの茶をくいっと煽った。「ところで、ザシャ」
「はい?」
そうそう、社長は名前で呼ぶのだった。他の輩は誰もがワイアームと呼ぶから、自分で称しておいて皮肉なものだけれど、自分の本名に不慣れになってしまっていた。
「君はジルのことをどう思う?」
ワイアームは首を傾げた。
「慕っているだろう?」
「もちろん」
「ジルの記憶で一番古いのは何歳くらいの時かな」
兄もワイアームの名では呼ばない。血縁者なのだから当然ではある。
「記憶?」
自分の名前など今は話題ではない。とにかく何かしら答えを引き出さなければと思って記憶をかき混ぜる。どうやら一番古いものは兄におんぶされているものだ。だが、もっと鮮明に憶えているのは階段の中段で振り返っている兄の姿だった。
「そうは言っても、自分の歳なんか憶えていないものかな」
「四五歳くらいなら、まあまあありますけど」
「すると、ジルはもう今の君くらいだな」コーネリウスは左手首のこてこてした腕時計を見やり、こっちに向かって手つかずのグラスを滑らせた。その中で驚いた夜光虫みたいに茶がきらきら光った。リラックスしている。これから人に会おうという雰囲気ではない。待ち合わせ時間を過ぎてからの会合相手が絶対に来ない時間帯というのがあるのかもしれない。
「その時からの彼に対する認識は、今と変わらないか」社長はワイアームを見つめる。強い眼力に眼球の裏がざわついた。「つまり、その時から、彼が自分の兄であるという認識は変わらないものかな」
「……たぶん。だって俺は、兄貴しか知らないんです。兄とはこういう存在だって概念は、全部兄貴の影響でできてるんですから」
社長はぷっと吹き出し、「それはそうだな」と破顔。
「この質問は?」
「親にはならないかと思ってね」
「誰がです?」
「うん、そうだなぁ、…君の兄、と言ったら失礼か」
「失礼って、兄を親と思うことが?」ワイアームは怪訝になった。失礼だと思っていないのは言葉通りだ。なぜ失礼なのか、という疑問だった。「もしかして孤児の話?」
社長は曖昧に首を傾げて一度グラスを煽った後、USPを懐に戻して入り口のドアを一瞥すると、それ以降はじっと時計を見つめて動かなかった。
会合の相手は二分としないうちにやってきた。
社長は立ち上がって一通りの社交辞令を並べた。相手はロシア海軍のエーリン少将という七十くらいのいかつい老人だ。それに護衛の男が一人。ホルスタは腰に一つ、こちらのような重武装ではない。もちろんアーマーを着ているだけで替え弾倉も持っていないのでこちらだって重武装ではないのだが。
ワイアームはコーネリウスのソファの後ろに立って状況を眺めた。話は仕事の契約に関するもので、これから受注するところらしい。本当のことなら次の派遣地はアフリカになりそうだ。南の方ならいいなと思った。砂漠は口の中がじゃりじゃりするし、ジャングルは汗が蒸発しない。
ワイアームが護衛として部屋全体に神経を張るのと同様に、エーリンの後ろに立った男もじっと社長を眺めていた。その視線、睨んでいるのではない、観察しているのだとすぐにわかる。恰好は素人だが、彼もまた戦場に立つ人間なのだ。それは簡単に察せられた。視線で自分の感情を明かすようなことはしない。ただ感受に努めるのが観察の目だ。
話が途切れて社長はグラスの紅茶を飲み、エーリンは懐から出した煙草に火をつけた。護衛の男がロシア語で何か訊いていた。油断していたので意味は取れなかった。意識して耳を傾けていた今までの会話は、そういえばロシア語だった。今日の悪しき制服組たちは税金を溜めこんで実務に還元しようとしない。軍のためを思って献金的なシステムでこれをどうにか動かしているが、効率化のためには投資先としての軍をより魅力的なものにしなければならない、という相手の男の主張に対し、社長が相槌を打ちながらいくつか提案をやった。大金をせしめる手段というよりは出資家の網を広げるための手段について言及しているようだった。
「ザシャ、空けてもらってもいいか」話が一段落したところで社長は腰を捻って訊いた。
つまり、ここからは聞かれない方が良い会話なのだ。ワイアームは肯いてドアに向かって歩いた。向こうの護衛の男も同じだった。
社員にはできるだけ隠し事をしたくないというのが社長の信念らしい。その根底には普通の軍隊の指揮系統への不満があるらしい。例えば、テロリストのアジトに襲撃するにあたって、そこで確保するターゲットがBC兵器であることを実行する隊員に事前通達しておかないとか、そのテロリストの目的が軍部の汚職事件の公表であるとか、そういった普通の軍隊ではなかなか末端の兵士まで知らされない真相を、社長はむしろ社員たちに議論させようとしていた。
戦争はやりにくくなるけど、それが戦争というもので、ごもっともだと思う。
護衛の男も廊下に出ると煙草を吸った。今にでも敵に変身するかもしれない相手の部下に対して随分と優雅な態度だな、と思いつつ横目で見ていると、彼はそのケースを振って差し出した。上手に一本だけ飛び出している。けれどそれがどうもババヌキの心理戦に似ているように思えたのでワイアームはかぶりを振った。
男は驚いたように数度瞬きした。
もしかして、喫煙年齢に達していないと思われたのだろうか。ヨーロッパじゃあどこの国でもまず十八になれば公に吸うことができる。それも十六に設定している国の方が多いくらいだ。
まただ。ちょっと心外。
あるいは、友好の印だったのかもしれない。なんにせよ、仕事中に煙草を吸うつもりはなかった。だってプライヴェートでも吸ったことがないのだから。
ストイックな兄は酒も煙草もやらない。少なからずその影響を受けている。ルサンチマンの蛇口を緩める日常の慰めの無いことが、時々敵と向き合う時の厳格な態度に貢献しているのだろう。それが兄の強さなら、自分も見習わねばならないと心に決めていた。
「空から爆弾を落としても、地上から血飛沫や悲鳴が昇ってくることはない」と兄は言う。地上で敵と面を突き合わせるおまえは、俺とは違うのだ、おまえの方が苦しい道を選択しているはずだ、と。
選択。もう一度ヘレンのことを思い返した。
確かに自分は兄に戦士として育てられたかもしれない。
けれど、本当に戦士だったわけではない。
「ワイアーム」社長がドアから顔を出して呼んだ。
渾名だった。
社長は焦らない。人の呼び方には往々に理由があるものだ。
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