第13節 カフカスの檻
煙は空気ではないのだろうか。煙草の先を飛び立つ時には細かい粒子だったものが、やがて空の青に吸い込まれて見えなくなる。見えなくても、そこに粒子があるのだとすれば、地上付近の空気はやはり粒子に満たされている。見えない煙でできているのだ。いくらフィルタから口を離して息しても、吸い込まれるのは煙でしかなくて、煙を吸って煙を吐いていることになる。そう思ってみるとだんだん息苦しくなってきて、何度か空咳を吐いてしまった。
歳上の男の無様な姿をエーリンの秘書官が冷めた横目で見ていた。頑固な感じの奴で、壁鏡の前の椅子に掛けてカウンタに腕を置き、おまえが居ると作業が捗らないのだ、といったふうである。
やがてエーリン本人がトイレから出てくると、シードルは窓の外に煙を吐き出してしまって、吸い殻を灰皿に押し付けてくの字に曲げた。
「聞き飽きたか」とエーリン。
「何のことですか」シードルは訊いた。カウンタの上のオーディオがフルートとピアノの音を奏でていた。ラフマニノフのヴォカリーズのナントカだ。エーリンの「聞き飽きた」と言うのがそれのことなのか、それとも彼の話のことなのか見当がつかなかったから、とぼけたわけではなかった。
「三十四の十四」エーリンはオーディオの前に立ち止まって答えた。
「はい?」
「冗談、俺の話だ。この曲はまだ始まったばかりじゃないかね」
「俺の話」の本題というのはつまりこうだ。ベッドの上から掛布団、枕の類が退け払われ、まっさらな兵棋盤に化けている。シードルがエーリンにカフカスの檻作戦の概要を話してくれと頼んだのだが、口を動かすのを面倒がったエーリンが考えたのがこれだった。
およそだが、黒海とカスピ海の間の陸地、カフカス山脈より北を写した縮尺である。ロストフの地上管制室がアルミ製灰皿で、ベッドの左上、部屋の入り口方向に置かれている。そこから500㎞南東に位置する早期警戒管制機A-50一機はソーサーで模して枕の位置より少し左。エーリンのMP445に装填されていた.40S&W弾で模したMiG-31がそれを半径百㎞の円で囲んで、直径を結ぶ位置に二個フライト。さらに、それより一回り小さいシードルのマカロフ弾で模したSu-27が三個フライト、空域を覆うように配置されている。地上に展開されたS-300PMU2対空ミサイル陣地は四ヵ所、ロストフ南、クラスノダール東、プロレタリスク東、アルマヴィル北。およそ百五十~二百㎞の間隔で配置。これはシードルの安煙草、ロシアンスタイルで再現している。ウクライナはカフカスの檻の作戦行為を認めていたが、むしろ厄介なのは連邦内の現地国・自治区やグルジア、アゼルバイジャンで、彼らは軍事の一言に限っては相当な聴覚過敏だった。配置が西に寄っているのはそれに配慮したからだ。そもそも、ルーラーは東から来て西へ抜けるのだろうから、この配置で十分に誘き寄せて仕留められるだろうという思考もあった。
そして、問題の給油機、ガムシロのポーションで模されたIl-78Mが二機、その防空圏の南寄りに居て、Su-27同様マカロフ弾で模された護衛のMiG-29各一フライトを従えて給油訓練を行っている振りをする(主目的は別でも訓練ができるのだから、平時から飛行時間の足りない地方管制区とっては福音だったろう)。
Su-27はクリムスクから第3戦闘機連隊、MiG-29はミレロボから第19戦闘機連隊、MiG-31に至っては隣のヴォルガ・ウラル管制区も遥々ペルミから第764戦闘機連隊が戦力を出した。一フライト四機の構成だから、戦闘機は総勢二十八機。単一の対空目標に対して馬鹿ではないかという数字だ。これだけ居ては接敵できなくて無駄になる戦力(というか燃料)の方が多いのではないか。
何はともあれ、そんな布陣で空軍はルーラーを誘い込んだ。
「ルーラーが侵入してきたのはそのあたりだ」エーリンはベッド横に移動させた椅子に腰かけて南東端を指差す。
シードルは部屋に備え付けの金庫の鍵を持って「この辺りですか」と訊き、エーリンが肯くのを見る。「この距離では位置は推定でしょう。誰が最初に発見したんですか」
戦闘哨戒のSu-27が最も近く、マカロフ弾通りなら機首もルーラーの方へ向いていて主レーダーの捜査方角にも入るが、それでも百キロメートル以上は離れている。F-15が相手なら捉えられても、ルーラーが相手では絶望的な距離だということは、瞼の裏のあの滑らかな形状、それに会議で話に上がった電波隠蔽性からしても明らかだ。相対距離は倍近いものの、北に位置する皿回し・A-50の方が期待できそうだ。A-50が背中に載せているのはただの皿ではない。中にレーダー素子を詰め込んだ、世界で何番目かに高価な皿である。これを含めたレーダーシステム、シュメーリで、空中目標なら戦闘機サイズの標的でも五百キロメートルの距離で捉える。アメリカの早期警戒機E-3と同じ五百キロのスペックでも捕捉する相手のF-15がSu-27より小さいのだからA-50が勝っている、というのは誰のジョークだったか。
「ミグ31だ」
「ここの?」とシードルは戦闘機の性能に感心しつつ、.40S&W弾を指す。
「そうだ。二機編隊に分かれて、片方が千五百メートルまで降下、ルックアップで捕捉、上昇。ミグ31に戦わせるつもりはなかったからな」
電波は地形に乱反射するから、反射波の位相で距離を割り出すレーダーは目標が自分より下に居ると感度が悪くなる。パルス射出方式の導入でこのルックダウン性能も全体的に改善してきたが、ルックアップと同等というレベルにはまだ達さない。空戦を考慮すれば相手の下を取ることは位置エネルギー的には不利になるが、メリットがないわけではない。あるいは、レーダー波は雲にも発散されるから、彼我の間に厚い雲が無かったという幸運な状況だったのかもしれない。
「だからスホーイ35を出せと中央にも文句を言ったんだがな」エーリンは膝に手を突いて立ち上がり、締まらない唸りを引き摺りながらベッドの北側に立って.40S&W弾に手を伸ばす。
「35って試験中の機体でしょう。見ましたよ。あの、エアブレーキの無い」
通称Su-35BMとか云ったか。九〇年代に試作されたSu-37の贋作とは全くの別物らしい。シードルがMiG-29Kの機種転換訓練を受けたのはモスクワ南東郊外のジューコフスキー。その試作機も同じ場所で試験飛行のための離着陸をやっていたのだ。
「あれのイルビスはザスロンにも比肩しうる。機動性も申し分ない」
イルビスとかザスロンとかいうのは飛行機が搭載しているレーダーの名前だ。
エーリンは鍵を北上させて、一度そちらに向けた.40S&W弾を軌道に戻す。ほとんどすれ違う位置だが、ルーラーは既にMiG-31を背後にやり過ごしている。MiG-31が胴体下に埋め込む長距離用のR-33ミサイルは機動性からしてまず役に立たないとして、この時のMiG-31は滞空時間延長のために増槽を吊るしていただろうから、空いたパイロンは一対。ここにR-77を吊るしていれば攻撃の機会はあったろうが、おそらく自衛用のR-73しか積んでいなかったのだろう。追撃ではミサイルが飛んでいる間にターゲットも逃げるから、最大射程が十キロあっても五キロ離れられれば命中は望めない。
エーリンが次に動かしたのは、鍵の西にあるマカロフ弾。手を突いて体重をかけたシーツの面が撓んでMiG-31が転がった。
「管制機の一報を受けてここのスホーイが急行したが、レーダーロスト」
「低空に逃げたのか」
「おそらくそうだろう。このフライトは予想進路を追って、東のこのイリューシン78に接近した」
「が、ルーラーが狙ったのは西の一機だった」シードルは俺がルーラーでもそうするだろうと思いついて言った。口調まで皮肉っぽくなってしまった。
「虚を突かれたな」とエーリン。
だが敵の心理がわかるのは悪いことではない。敵がどう動くのかという未来を把握していれば、勝てなくても負けることはまずなくなるだろう。
「このミグのベリョーザが反応したのは、こっちのスホーイが到達してレーダー照射をする直前のことだった。OEPSでは捉えていたがな、警告には使えん」
「は? 赤外線で捉えられたのに、撃たなかったのか」
「既に味方機が射線に入っていたとの判断だろう」
シードルは呆れた。いくらルーラーが未知数の相手だからって、それはさすがに組織的な判断ミスだ。味方が居るから戦えない典型例だ。自分は攻撃するだけ、味方は回避するだけでよい。まさかこの期に及んでルーラーがただの領空侵犯機としての丁寧な扱いを受けていたということもあるまい。
ベリョーザ・レーダー警告システムは、パイロットの立場からすればなかなか特徴的な指示器だ。コクピットのコンソールの一角にMiG-21っぽいシンボルが描かれていて、それを放射状に囲んでランプがついている。自機がレーダー照射を受けるとこれが反応して点灯し、相手のレーダー種、相手が自機の上からか下からかも簡潔に表示され、ロックオンされると赤の警告灯が点滅して警告音を大にする。
OEPS-27はSu-27系に搭載されている赤外線追跡装置で、ターゲットの放射する赤外線を捉えてサイトに受像する。IFFトランスポンダと連動していないので敵味方の識別はつかないが、これを使えば相手のレーダー警告システムを作動させずにロックオン、同じく赤外線シーカーを使用するミサイルで狙うことができるという代物だ。それぞれOEPS-29、TP-8と型式は違うが、MiG-29とMiG-31にも同様の装備がある。
探知距離は良くて五十キロ前後だから、ジューク・レーダーの百キロ超には大きく劣っているが、電波をことごとく雲散させるルーラーもエンジン排気からの赤外線放射だけは隠しようがなかった。
「結局、まんまと燃料を食わせてしまったというわけですか」
「いくら手数があっても状況は変わらん」
一通り駒を動かし終えててエーリンは椅子に戻る。これだけの戦力を動かしておいて成果を上げられなかった落とし前をどうつけるのか気を揉んでいるとか、ルーラーに引っ掻き回されて憤慨しているだとか、そういった様子ではない。ベッドの上の小物が実際の戦場をありありと映しているなんてとても言えないが、実は指揮官が戦闘指揮所でやることも概念的には差異がない。エーリンのような高官ににとって、実際の戦場というのは極限まで希釈され抽象された情報の総体でしかないのだ。この男にとって戦場の出来事は自分の身に降りかかるものではなかった。
「あとはどうなったんです。地上からも撃ったんでしょう」シードルはドライな気分で訊いた。
「ロストフから一斉射二発、クラスノダールから二斉射四発。護衛と哨戒からもR-77が飛んだが、どれも当らなかった。R-27ETでもだめだ」
「十発は下らないでしょう。そんなもの、どうやって避けたんだ」
自分だったら避けられるだろうか。
「さあな。パイロットは揃いも揃ってマニューバで避けたと言っているが、ECMの類かもしれん。イリューシン20でも連れておくべきだったか」
Il-20は電子偵察機だ。これに探りを入れられると、無線の会話内容はもちろん、あらゆる電波発信機の波長を解析されて、目標機は電子的に丸裸になる。
「少将、時間ですが」と例の秘書官。
エーリンは相変わらずの仏頂面だったが、シードルは自分のブライトリングを覗いて少し驚いた。会合の予定時刻まで五分とない。ベッドに転がった戦闘機たちを手早く回収していく。
相手が一機や二機ではない。普通は数で負けていればまず逃げることを考える。ルーラーは違う。墜とさないと言っておきながら明らかに好戦的な態度。そしてべらぼうに強い。こいつは大物だ。こんな鳥、今までに出会ったことがない。是が非でも手合わせしたいものだとシードルは思った。
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