第12節 ネヴィム・スピーネ相談室
仕事がら人差し指の爪が欠けやすい。現地のGMTプラス・マイナスに合わせて腕時計の竜頭を頻繁に抓むせいだ。ヨーロッパは東欧北欧とイギリスポルトガルを除けばおおよそGMTプラス1時間であり、ハンブルクの現時刻は五時二十分。もう陽は上っているはずだったけれど、辺りはまだ薄暗い。ビル群のてっぺんが光の三角錐に切り取られているのを見上げてようやく日の出が近いのを実感する。
ヴィリー・プラント通りに面する一棟のマンションの拡張高いエントランスに入る。天井に嵌め込まれた照明の下でセキュリティ・コンソールのテンキーを叩き、エンターに代わる呼出ボタンで締める。テンキーの上にはマイクとカメラが並べて埋められていて、赤い作動ランプが灯ってカメラがこちらに焦点を合わせた。それから二十秒ほどして「……はい」と寝言みたいなロゼの声がマイクを覆うメッシュをわずかに震わせた。
「私」
「…また詐欺?」
「顔が見えないの?」ブリュンヒルトは目の横に手をやるが、サングラスはトレンチコートの胸ポケットに掛かったままだった。そういえば外はまだ暗かった。
「…見える」そのセリフを合図にマイクの奥で何かしら物音がしてロゼの気配が消え、ほとんど同時にエントランスの内ドアが開いた。
大丈夫かしら。若干の心配を胸に内ドアをくぐり、エレベータに乗る。内ドアというのはいわゆるセキュリティ・ドアだけれど、全面ガラス張りでセキュリティとはなかなか殊勝なことである。あの猜疑心の塊のようなロゼもどういうわけか危機感を抱いていないようで、前に一度指摘した時もロクな反応が得られなかった。結局設備もそのままだ。
十四階奥の部屋のチャイムを改めて鳴らすと、だいたい予想通りの待ち時間でドアが開いた。ロゼは片足にスリッパをつっかけ、前屈みになってドアを支える。ラフな部屋着姿で、ゆったりとしたTシャツの弛みがエロティックだった。彼女は胸が大きい。
「お帰り」ロゼの視線がブリュンヒルトの爪先から次第に登ってくる。
さりげなく「ただいま」と返したけれど、彼女の第一声が「お帰り」であって「いらっしゃい」でなかったのが少し意外だった。
「早いんだ」ブリュンヒルトが中に入ってドアを支えると、ロゼは半分しか開いていない目を擦って欠伸をした。もちろん化粧もしていない。
「メールしたでしょう? 空港からだって」
「うーん、見たような気もする」ロゼは不機嫌そうに言ってよろよろダイニングに入っていき、上ってくる間に淹れたらしいコーヒーの入ったマグカップを持ち上げると、重たい瞼を下ろしてそれに口をつけた。
「インスタント?」
「そう。飲みたかったらご自由に」
「そうするわ」ブリュンヒルトはコートとパンツスーツのジャケットを脱いで旅行鞄の上に被せる。キッチンの物の配置は前に来た時と変わっていない。カップを片手に戻るとロゼは頭の後ろに細い腕を回してストレッチをしていた。自分の空間では彼女は薄着を好む。クレオパトラみたいな装飾品もつけない。上は半袖で、下は七分丈の麻のズボンを穿いていた。ひとしきり体をほぐすと、リビングを出て寝室から眼鏡を掛けて戻ってきた。
「あのさあ」ドアの横に立ってロゼは言った。眠気は消えていたが、それに倦怠感が取って代わっている感じだ。ブリュンヒルトがソファに座って話を始めようとした矢先だった。
「そう、その件。ルーラーの件なんだけどさ、ちゃんと調べたんだよ、でもさ、昨日の会議でほとんどロシアに喋られちゃったんだよね」とロゼは言う。
「え?」
「黒海会議。あれね、使う部屋ごとにカメラがあって、それを見られるようになってるの。で、本会議の時に議題でロシアが喋ったわけ。もうさ、なんていうの、洗いざらい、って感じだよね。アメリカとかイギリスの被害とかには触れてなかったけどさ。まあ、ちゃんと録画してあるからあとで見てよ」
「ロシアが?」
「そう。外相がべらべらとね。べらべらっていっても流暢ではなかったけどさ」ロゼは歩いてきてダイニングに背を向けた方のソファに座る。ブリュンヒルトの座っている方は壁に接していて、一組でL字を成している。
「…ふーん、なるほどね」ブリュンヒルトは言った。
「なに?」ロゼは眉間に皺を寄せる。
「その骨折りがタダ働きになってもいいなら教えてあげる」
ブリュンヒルトとロゼは仕事上互いを補完する協力関係にあるが、同じ会社で働いている自覚はなかった。だから情報の交換は商売だ。物々交換でやることがほとんどだけれど、情報には値段をつけて考える。それが暗黙の了解だった。
「えー、やだなあ。…会議の映像さ、見られるって言ったけど、ブリュンヒルトのパソコンじゃ見られないからね」
「非公開なの?」
「そうなの非公開なの」ロゼは一度膝を引いて勢いをつけてから立ち上がる。結局見せてくれるようだ。
「今から?」
「今日は朝っ腹から会議室の使用予定があるみたいだからさ」ロゼは背中で言って、頭の横で手招きをする。
「わかったわよ」ブリュンヒルトはローテーブルの上に出しておいた手帳を拾って彼女の後を追った。
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