第11節 コーネリウスの部屋

 ヘレンは駆け足で部屋の前に戻り、両手が塞がっていてどうしようもないのでちょっと迷ってから額でドアをノックした。コーネリウスが内側から開く。

 頼まれていたものをテーブルに置いて、はあと息をつく。

「もう少し溶けてきてますよ」

「食べ頃じゃないか」

 シャツの襟を開いたコーネリウスは携帯電話をポケットに仕舞い、アームチェアに腰を下ろして隣にヘレンを招く。グラスにウィスキーを注ぐ。ホテルの二人部屋で、運営側は一番安い部屋で申し訳ないと遜ったらしいが、実際入ってみるとその言葉はビジネスホテルへのあてつけのように思えた。

「まずはお疲れ様」

 二人で乾杯を交わし、続いて今しがた手に入れてきたばかりのトルコアイスにスプーンを差し込む。そのまま持ち上げると三十センチくらいは伸びた。味も面白い。そうしてヘレンが楽しんでいるのを見てコーネリウスは後ろめたさ三割といった感じの微笑をする。これがゼロになれば私も役目を全うしていることになるのだろうけれど、とヘレンは思う。

「ねえ、これってトルコの外だからトルコアイスって呼ぶんじゃありませんか? 今はトルコの中だから普通にアイス?」

「うん」コーネリウスは伸びたトルコアイスをスパゲッティ式にスプーンに巻きつける実験をしていた。「こっちではドンドゥルマだね」

 相手の言葉をじっくり吟味してから返事をするのが彼の話し方だった。待っている方もそれですっかり気分が落ち着いてしまう。

「材料は全く別物だけど、トルコ語では凍らせたものという意味で、区別しない。ハーゲンダッツのバニラアイスもドンドゥルマ、いや、ハーゲンダッツか」

「ハーゲンダッツもありましたよ」とヘレンは答える。ちょっと可笑しかった。このトルコアイスもパーティ会場から余りを貰ってきたものだ。品揃えは豊富だった。

 二人でのんびりできる夜というのはいつもこんな感じだった。こちらが始めに景気付けをして彼を和ませ、彼はその流れで薀蓄話を披露して、こっちは頷いたり笑ったりする。酔いが回ってくると言葉のやり取りは緩慢になって、どちらからとなくベッドに潜る。まるで古城の閉ざされた楼閣のようにひっそりした時間だった。

「トゥラン氏と話してね、報酬はきっちりせしめたんだけど」ベッドに横になって向き合っている時にコーネリウスは言った。

 ヘレンの脇の下に彼の腕があり、背中を回って項に掌が触れていた。ヘレンが起き上ろうとすると彼はその手に少し力を入れて制止した。その目は場違いな話を申し訳なく思っているように見えた。

「始末した人数を見て事態にケリがついたと言い張った。以降会議の警備に政府は介入しないって意思表示だ。どうしてテロリストのグループ規模が知れているのかは怪しいけどね、もしかしたら、これで終わりなのかもしれないし、まだ続きがあるのかもしれない。ヘレンはどちらだと思う」

 丸一日費やしても昨日の作戦の敵について詳しいことは何もわからない。トルコ出入国だけで日に数万人という単位なのだから、どこの国の何というテロ指導者、あるいはどの企業の戦闘指導員がこの付近に潜伏しているのか探し出すのは困難だし、政府が公開した昨日のテロリストのリストにも決定的な共通点は見つからなかった。

「私は後者だと思います」コーネリウスの瞳を見上げる。「ウステア、私の会いに行った彼は、やはり敵です」

「どうだった?」コーネリウスは事務的な口調になった。ヘレンがおおよその出来事を話すと、さらに「何か重要なことは聞いたか?」と重ねた。彼の心がその問題で満たされていることは目を見ればわかった。黒猫の話には興味が無いみたいだった。それは残念だったけれど、ヘレンはむしろ自分のことを恨んだ。ウステアの懐かしさや黒猫の可愛さに眩まされて本来の目的を果たせなかったのは自分なのだ。ウステアがどこの誰に雇われているのか、何をするつもりなのか、脅してでも聞き出さなければならなかったのに。

「明日の朝はワイアームに代わってもらえばいい」コーネリウスは優しく少し高めの声で言った。彼のそういった喋り方は涙が出そうなくらい嫌いだったけれど、彼は業務的な受け答えを待っているのだ。そう割り切ってできるだけ早く顔を上げた。

「はい。ヘレンは明朝、もう一度彼に会ってきます」

 空調コンソール一体型のチェストがベッドの横に置かれていたが、彼はその上に備え付けられたライトの温もりを眩しそうに見つめていた。顔の半分が光に照らされ、もう半分が暗い陰になっていた。

 ヘレンはその暗い方に手を伸ばした。底無しの洞察力を持っている彼は他人の思念を吸いすぎてしまう。よき理解者として最善を尽くしたい。

 そして彼もまたそれを求めていた。彼も私も今はただエルフリンクのための機関オルガンだった。


 黄昏の中を歩いていた。爪先に黒くて長い影を伸ばし、その下でくすんだ赤色のレンガを踏んでいく。車道とを隔てるツツジの生垣は金色に染まっていた。鋳物の街灯を見上げるとその高さに目が眩んだ。白地に黒と灰の二色でレースの模様を描いたワンピースの私は食材でいっぱいになったのトートバッグを持っている。バッグの側面にはアスナロのイラストが描いてあった。

 Y字路の二本に分かれた道の細い方へ折れると、緩やかな坂道は頂まで見渡せるほどまっすぐだった。斜面に石垣の礎を積んだアパートメントハウスが列をなしている。そうした建物の隙間から差し込んだ太陽が地面に赤い筋を走らせる。私はそれを踏まずに跨いで歩く。

 白壁に緑の蔦を這わせた四階建ての、その一番見晴らしの良い部屋から、車や、烏や、ノイズの遠く去った静寂の中に、拡散方程式に則ってトロイメライが染み出していく。乾きたての毛布に撫でつけられるような素晴らしい気持ちで足早に階段を上がり、神様に頼んで音を立たないように鍵を回し、そっと部屋の中に入る。ピアノの音が心臓を震わせるくらい近づく。弾いている人を驚かせないように、そのまま弾き続けてくれるように慎ましく壁の陰から顔を出す。


 翌早朝に起きると、ヘレンは白いシーツに包まれた掛布団を抱いていた。コーネリウスはもう部屋に居ない。けれど、彼の体温や甘い匂いはまだ近くにあった。

 背中に触れていた彼の手の感触をじっくりと思い出し、それから彼の胸に自分の額や頬を擦りつけるところを想像した。

 やめよう。それは夢想だ。

 枕を引き寄せて両腕を回して顔をうずめ、体の前に持ってきて膝の間に挟む。

 夢想は人の性だ。未来の予測も、過去の再現も、非現実への飛躍。肯定的であれ否定的であれ、自分の中から現在を棄却する――。

 そして、夢とはなんと儚いものなのだろう。最後眠りについてから見た夢の内容さえもう思い出すことができない。

 全身で呼吸をして胸の拍動を鎮める。今になって撃たれた痣が疼いた。あるいはその痛みは戒めかもしれないのだけれど。

 自分の空虚さを恨みながら布団を肩に纏って立ち上がり、窓辺に寄ってカーテンを開く。朝の光を浴びる。地上二十階超、加えて台地立地の眺め。日の出前なのだろう、変に赤く染まった雲の底や空の帳がそこはかとなく陰惨な気持ちを与えた。地上の街は既に活発な息をして巨大な時計のように細部まで緻密に動いていた。赤い屋根の古い街。私はこの全てを殺すことも、救うこともできない。相手が大きすぎるから、私には。

 布団をベッドに返して浴室へ。鏡に向き合う青い目の女。筋肉質のくせに嫌に細い骨格は兵士であるという自覚を奪い、コーネリウスの人形なのだという思いをふと湧き立たせる。そんな幻想は打ち砕かなければならない。左腕を擡げて鏡に触れる。それは呪縛だった。指先から肩口まで、十年前の火傷の跡が残っている。専門的には肥厚性浮腫というらしい。他人にはこの肌は見せない。

 シャワーを浴びて着替えた。ズボンを穿く。戦闘服のズボンだ。戦う時にしかその手の服は着ない。今日は戦いなのだ。

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