第10節 黒海会議・晩餐

 午後六時を回ってホテルのレストランに続々と人が集まってくる。整列するテーブルに白いクロスが掛けられ、その上のトレイにはもはや芸術品然としたディッシュが並んでいる。人数が多いので席は設けられていない。ビュッフェ形式である。

 シードルはユーリに絡まれながらウィンがエーリンを連れてくるのを待っていた。姿は見えるのだが、他の連中と話し込んでいてしばらくは向かってくる気配がない。人混みを掻き分けて文句を言いに行くほどの積極性をシードルは持ち合わせていなかった。歩いて行くには長すぎる距離だ。飛んでいくには短すぎるし。

「シードルさん、食べないんですか。ケバブおいしいですよ。見た目は硬いんですけどね、食べてみるとそうでもないです。ジューシーですし」調理した肉片にかぶりつきながら親戚の叔父にでも話しかけるような調子でユーリは言った。

「次へたり込んでも肩は貸してやらないからな」シードルはわざと厳めしい顔をしてシャンパンに口を付ける。夜に大食いするタチではないし、朝昼にしても他人より多く食べることはなかった。

「大丈夫ですよ」ケバブの串を右手に咀嚼しながら上機嫌な顔を向ける。昨日の一件に懲りて酒は控えるだろうと思っていたのが、彼の性格に関する思い違いは案外大きいかもしれない。

「初対面で声が裏返ってたのが懐かしいね」

「はい?」

「いいから、もっとしゃきっとしてろ」

「はい、ユーリ・フィリシン、しゃきっとします」

 ユーリの目の前に居るのは、たぶん俺ではないのだ。麗らかな日差しに干されたふかふかの布団だとか、そういった柔らかくて許容力の大きいものが、彼がいつ倒れ込んでもいいように待ち構えているに違いない。そういうわけで彼の酩酊に関する干渉はやめることにして、努めて上品に小皿のトマトをフォークで刺して口に運んだ。

「あ、シードルさん」ユーリは格好の話題を見つけたらしい。

「おまえは黙って食えないのか」

「いやあ、このホテルの警備、PMCがやってるって知ってました?」

 会話が噛み合っていない。

「軍事企業が? そりゃあ、珍しいかもしれないが、悪いことか?」

 ユーリはテーブルを時計回りに回って、飾り台の陰から新しい皿を取ってくる。フライドチキン、また肉だ。

「悪くないですよ。頼もしいじゃないですか。それに、そうです、珍しいんです。ほら、ベストの背中に妖精のマークがあるでしょう。エルフリンクですよ」ユーリはシードルに顔を近づけて部屋の奥を指差す。およそ国家軍隊の装備にはない、黒の戦闘服を着崩した一団が見えた。

「そうか? 妖精というかただの羽じゃないか」

「羽より妖精の方がいいでしょ、エルフリンクなんだし。それにですよ、あそこ、ブロンドの娘が居ますでしょ。ヘレンですよ」

「ヘレン? 有名人か?」

「ええ? 知らないんですか。リリースは少ないしポップスかクラシックかはっきりしないところはあるんですけどね、なんだかいいんですよね。魔力的な感じがあって。なんでですかね、可愛いからかな」

 ユーリは恍惚を呈して気色の悪い笑みをだだ漏らしにする。

「いいですね、シューベルトのアヴェ・マリア。でも、なんだろうな、ちょっと引っ掛かるな、脇腹でも痛いのかな」

 ところがユーリは「あっ」と声を漏らすなり氷水でも浴びたみたいに強張った顔に切り替え、背筋をぴんと伸ばした。その警戒の視線を追った先にウィン・ノーリッシュが居た。

「フィリシン少尉、体調はどうか」ウィンは軽く答礼しつつ訊く。

「は、もう大丈夫です」ユーリは硬い口調で答える。

「そうか。無茶はするな」

「はい」

 ウィンはそれから皿を取って料理を選びに行く。じっくりと品定めをしながら「またどういう風の吹き回しだ」なんてぼやく。「普段はボロの兵舎で我慢している連中が集まってこの大盤振る舞いとは」

「スポンサーでもついているのではないでしょうか」とユーリ。

「誰が誰に何のために?」

「それは、ええと……」

「まあ軍の敵といったら市民とマスコミだからな、邪魔者を締め出した身内だけなら普段の鬱憤晴らしにも興じられるというわけだ。さしずめ冷戦再開直前の記念パーティかな」

「冷戦?」

「ロシアが動けばアメリカが動く。アメリカがロシアを待っていたのさ」

 ユーリは返事をせずにまた硬くなった。今度はエーリンだ。

「揃い踏みだな」後ろに手を組み、黒幕マフィアのボスの声でエーリンは言った。

「待ってましたよ」シードルも軽く挨拶する。

「大佐、いかがかね。海軍のエースになり得るエレメントだ」とエーリン。

「期待していますよ。是非とも早いうちに実戦想定の訓練を始めたいものです」とウィンは至って真面目に返答した。

 シードルはユーリがエースと呼ばれるのにたっぷり違和感を覚えた。

「そうだな。スホーイ33の連中に勝てねば話にならん。ルーラーのためのミグだ」

 エーリンは食べる気も無いだろうにテーブルの周囲を歩いて料理を物色する。

「ルーラーのための」ユーリが訊いた。

「ルーラーのレーダーロックは今まですべて警告目的だ。奴がWVRでしか仕掛けてこないとなれば、マニューバで勝るのはミグの方だ」

 WVRとは視認距離射程、つまり敵同士が肉眼で相手を追って飛行機を操縦するような近接した間合のことだが、個人的にはその間合での空対空戦闘こそが空戦だった。もっと遠距離の視認外距離射程(BVR)で敵のミサイルに墜とされるつもりはないし、そうでなくとも、遠距離から遠慮なしにぶっ放すなんてことはこのご時世ではありえない。今の戦闘機に求められるのは、広範囲の敵を捉える目の良さと、併走状態から直ちに相手の背後へ回れる運動性能だ。

「たかだか二機でしたがね」

「その事情を話すのか。二度目になるぞ?」

「ああ、聞かせてもらえませんか」ウィンが言った。

 シードルとユーリの乗るMiG-29Kはもともと空母ヴィクラマーディティヤの搭載機としてインド海軍へ納入するためにルホヴィツィで組み立てられていたうちの二機だ。それを横取りする形でインド側に頼んで先に回してもらえたのがぎりぎりの二機だったというわけだった。一機では編隊が組めないから戦闘単位としてはほとんど無価値である。

 それでもエーリンはMiG-29を空母に載せようとしたのだから、ミグ一筋の自分を優遇してルーラーを倒そうとする意気には感服だとシードルは思う。

「なにより、大佐の手腕には期待している」

「光栄です。ここを発つのはいよいよ明後日ですか」

「ああ」エーリンは右の首の弛んだ皮に皺を寄せてシードルを見る。「シードル、おまえの相方が居たぞ」

「相方?」シードルは訊き返す。なんだか引っ掛かるものがあったのだ。「エデュアルド・エイゼンシュテイン」

「ああ、そんな名前だったか」

「なぜこんなところに居るんです。あれだって軍を抜けたんでしょう。それくらいは聞いていますが」

「軍ではない。軍事会社だ」エーリンは痙攣かと疑うくらい一瞬だけ唇を吊り上げ、部屋の奥を顎で差した。

 エーリンの時には乗り気でなかった足がどうして軽かった。

 エルフリンクの一団を前にしてまさかと思った矢先、後ろから声がかかった。癖だろう、一歩ずらしながら振り向くと、懐かしい昔なじみの男が立っていた。革の細いズボンに品のいいカットソー、プレートのネックレス、相変わらず気障な野郎だ。

「なんだ、来てたのか」エデュアルドはグラスを持っていない方の手の親指をズボンのポケットに引っ掛けて言う。頬がやつれたな、というのが最初の印象。

「おまえが、民間に?」

 エデュアルドは味気なく肯く。シードルがいることなんて初めから知っていたような態度だ。「おまえは軍だな。海軍か」

 シードルは肯く。「じゃあ、あの白い30はお前のか。官用機じゃなかったから、気になってたんだ」

 イスタンブールに到着したのは昨日だった。空港のエプロンにスホーイが駐機してあって、しかもロシア軍機の証である赤星が尾翼に描かれていないのでかなり不審には思っていたのだけれど、そういうわけだったか。

「白い? あれはどう見てもライトグレイだろう。厳密に言えば紫だが」

「夕方だったんだ。細かい色はわからない」

 エデュアルドは昔から拘りの多い奴だった。「そっちは、あのミグか。海軍がミグ?」

「部外秘だ」

 エデュアルドは首筋に力を入れて舌打ちし、「なら、どうだ、酒でも飲んで腹を割って話そうじゃないか」

「もう飲んでる」

「レトリックだよ。誘ってるんだ。この後でもいいが、できれば仕切り直したい。ここにはいつまで居る? 明日は無理か」

「明日の夜ならいいだろう」

 会議は二日間、明日いっぱいある。シードルはもう一晩泊って次の朝一で出発する予定だった。南下して空母アドミラル・クズネツォフを中核とする艦隊に合流する。

「ここのロビーにしよう。二十時」

「了解」シードルは癖で、額の横に指先を当てるジェスチャをするが、エデュアルドは応じない。すれ違いざまに肩を叩きあってから、二人は今のそれぞれの居場所へ戻った。

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