第9節 オルタキョイの小屋
あの感触には心当たりがあった、とヘレンは思う。だからブルーノ・メアッツァに頼んで調べてもらった。それから書類の散乱したホテルの個室で情報課の事務作業に従事して三時間半、ようやくリストアップが済んだ。この近辺で仕事を待っている傭兵どもの履歴書の束を捲る。機密書類だから、見終わったらシュレッダで八つ裂きにするなり、キャンプ・ファイアの薪炭にするなり、水に溶かすなり、復元不可能な状態で他人の手に渡るようにしなければならない。エルフリンクの仕事は往々にして綱渡りだった。
履歴書には、顔写真の貼り付け欄と、名前、年齢、性別、出身、宗教宗派、住所、電話番号、戦歴の書き込み欄があった。手当たり次第にやるなら出身と戦歴の欄を見るだろう。ただ、今度ばかりは意識せずとも顔写真を注視された。
あった。
部屋には昨日の任務地から戻ってきたオリバーが居たが、彼が隊長という管理職であるのは好都合だった。
「任務をください」ヘレンは言った。妙に手が震えていた。
「メアッツァ、場所を調べてやれ」
「了解」ブルーノは応じてアップルPCの画面に別のブラウザを立ち上げた。「オルタキョイだ。かなり西に行ったところで、穀倉地帯だね。こっからなら高速一本、バスを使って一時間で行ける。ここのインターチェンジで乗り換えればいい」画面上の地図に引かれた線を指で辿って説明する。
ヘレンはその間にジャケットの内側にショルダーホルスタを装着した。エレベータでエントランスに下り、外で門番をしている仲間に声をかけて通りに出た。ホテルの近くには背の高い椰子の並木があって今日の陽気にぴったりだった。旧市街といっても歴史地区らしい閑静さは無く、人々の行く方向に潮流は無いのでとても雑然として見える。道路にしろ、運送業者のトラック、各々の荷物を一杯に積んだバイク、リアカーも居れば、乗り合いタクシーに乗用車も溢れている。自分の存在が希薄されるのを感じながらブルーノに言われた通り進み、高速バスのターミナルに行き着いた。窓口でトルコ語のメモを見せ、往復のチケットを買う。大型バスは西欧でも見る比較的新しいモデルだったが、乗り込んだところで外のむさ苦しいほどの空気が遮断されるわけではなかった。他の乗客の話し声を盗聴している気分にもなれなかったので、ショルダーバッグからウォークマンを取り出す。去年の十月に買ってもらったばかりのNW-S203Fで、黒いスティックの形にはなかなか品があって気に入っている。ところがこの手の製品は回転が速く、先月にはカラー液晶付きのモデルが登場したというから驚きだった。ヘッドホンは付属のカナル型をそのまま使っている。環境音のせいで音が掠れるほかはまずまず及第点だろう。スタジオで使っているMDR-CD900STに影響されて同じ系列のヘッドホンも持っているのだけど、出先に持っていくには大荷物だった。
今度の席は通路沿いだったので、頭を少しそちらの方へ傾けて前方を眺めることにした。隣の見知らぬ人越しに頑なに流れゆく景色を眺めるのも気が引けたし、幸い前から四五番目の席で視界は良かった。道の先に消失点があってそこから世界がどんどん湧いて出ているみたいで、見ていると気分はいくらか和らいだ。
私は生まれた時から銃を握っていたのかもしれない、と思う。子供の頃は今とはまるで世界が違った。生き物としての人間と、そうでなくなった人間が全てであり、その狭間に銃とナイフや煤汚れ、血の匂いが、つまり、戦場があって、そこだけが私たちの生きる場所だった。だから私は「平和」の中で上手に生きる術を知らなかった。いわば、生き方そのものを知らなかった。「平和」の内側から見る戦場なんて、異世界に他ならないのだから。
人の死の価値を、命の重さを、私は他人と同じように捉えることができない。人間としての土壌を別の倫理で固められてしまったから。白紙たる子供は、どんな生き物にでもなることができる。そうした可能性を大人になる過程で固定されていくから、人として育てられた人が人として大人の時を生きている。けれど、人は狼にもなれる。人は人にもなれる。ドイツ人にもなれば、フランス人にもなれる。人が誰になるのかは、子供の生きる環境にある親としての他者がいかなる生活様式を繰り広げているかに左右される。民族という文化であり、国というイデオロギーであり、宗教という信念であり、言語という思考である。
リガは子供を究極の兵士と称した。他人の死に抵抗なく触れ、関わり、上官と認めたものには絶対的に従い、命を顧みず、傷つくこと死ぬことを恐れる生理を抑圧し、捩じ曲げる。それらを「平和」の中に置き換えるなら、火器の扱い方、命の奪い方の学習は学校教育に等しく、死への認識の矯正は高所恐怖症の克服と大差がなかった。軍隊でも兵士に同じことをする。けれど、至って非効率だ。大人は既に固まってしまっている。大人がカルシウムイオンだとすれば、子供はカルシウム単体。将来、酸化カルシウムに落ち着くのか、フローライトに結晶するのかは決まっていない。
今、過去として考えるから本当のことがわかる。子供の自分には、現在としてのその世界が当たり前だったのだ。だから今でも戦うことがつらいことだとは思っていない。むしろつらいと思えないことの異常性に引け目を感じる。
危なっかしくって白兵から退かされてるんだろ、とワイアームは言った。
けれど、傷付かないでいるより、与えられた役目をこなしたいのだ。
そんなふうに泥濘に片手を突っ込んでいる間、聴く曲は落ち着けるものを選んでランダムにかけていたけれど、エンヤの「クライング・ウルフ」に当たったところでその一曲をじっくりと鑑賞した。そして再生を止めてイヤホンを外す。それから十分も経たないうちにバスは目的の駅に到着した。結構長く聴いていたのだ
ヘレンはバスを降りて路傍で大きく息を吸った。とても心地の良い空気だ。見渡す限りに金色の冬小麦の穂で作った生の絨毯が広がり、ところどころに広葉樹が丸い頭を出して農家の家を囲んでいる。空にはバニラアイスみたいな雲が群を成していて、春のまっすぐな日差しを浴びて今にも溶け出しそうだった。指定された住所はそこから農道を六百メートルほど歩いたところ。麦の穂がそよぐのを間近で見ながら歩き、トラクタの轍を辿った。ウステアの家は小屋と云ってよい小さな一軒家で、屋根は青く壁は白くペンキで塗られていた。隣にでんと据わった大きな四角い建屋は、シャッターが下ろしてあって中は窺えないが、農業機械を仕舞うためのガレージだろう、小屋とは対照的に無機質な雰囲気を帯びていた。
家の前の空き地に足を踏み入れ、玄関のドアまで二十メートルのところで立ち止まった。ここに来て不安が込み上げてきた。本当にウステアなのか、私のことがわかるだろうか、どんな顔をして何と開口すればよいのか、いきなり銃を向けられるようなことはないだろうか。例えば昨日のように。
そうこうしているうちに向こうから妙に軽い感触でそのドアが開き、いよいよ心臓の凍る思いをした。
ウステアはドアを開けたところで立ち止まった。ジーンズに色褪せた赤いギンガムチェックのシャツというラフな服装で、記憶より面長になって顎のラインがしっかりした顔を静かな驚きに染めていた。やはりわかったのだ。
「イージ」ウステアは言った。
そう、そういえばそんな名前で呼ばれていたかもしれない。昔の私は、ヘレンではなかった。
ヘレンが笑みを返すとウステアはゆっくり歩いてきて顔を覗き込み「やっぱり、イージだ」と言った。癖の強い英語だった。
「ウステア」とヘレンはその顔を見る。視線は上に向いた。
「憶えているものだね」儚げに笑み、体を横に向けて「入りなよ」と言った。
玄関をくぐる時に最大の警戒心を放出したけれど、家の中に他に人の気配は無かった。彼一人らしい。木造の家は簡素なもので、大きくリビングが一部屋あり、西の壁際にキッチンがあり、小さなダイニングセットが一つ。冷蔵庫と食器棚が壁に並んでおり、その横の廊下の奥は浴室だろう。南側に簡素なベッドと、カラーボックスを組んだ本棚が壁と角を這っている。壁と天井を這う照明の配線や、剥き出しの梁などからは郷愁が漂う。人間が手に鋸や金槌を持って作った空間だった。
「座って」とウステアは手前の椅子を引いて言い、冷蔵庫を開いてプラスチック製の透明なポットを取り出した。椅子の座面には手縫いのカバーに入ったクッションが敷かれていた。模様は白斑のポトスだ。
「麦茶でいい?」棚の最上段からグラスを下ろしながら訊く。
「ええ、ありがとう」擦れて丸くなり光沢すら出てきた縁の机に腕を載せる。もう一度部屋を見回してみる。窓の桟もガラスを嵌め込んだ十字型の枠も木製だった。その手前のわずかなスペースや、机の一角にも数冊の本が積まれていた。
「読書が好き?」
「え、ああ。好きだよ。家に居る時は本を読むことくらいしかすることがないから」
ウステアは逆ベル型のグラスをテーブルに置いてそこに麦茶を注ぐ。
「私も、本を読むのは好き」
読書は知思の象徴である。子供の時に与えられなかったものを成長してから取り戻そうとする。知識と思考への渇欲というのは人の本能なのかもしれない。「平和」の中にあっては学習教育のために半ばそれを実感できないまま育ってしまう。あんまり真面目くさくならないようにそんなようなことを呟いている間、ウステアは黙って時々首を頷かせた。そうすることでお互いに自分と相手との距離を正確に測ろうとしていたのかもしれない。
「これ、おいしい」鼻の下で軽くグラスを回してみて訊く。「自家製?」
「そう。買うより作る方が安いんだ」ウステアはヘレンの正面の椅子に掛けて麦茶を飲む。「ところで、どうしてこんなところに」
「仕事で寄ったの」
別に用意して挑みかかったわけではないけれど、訊かれた時に答えることは決まっていた。
「仕事? どんな仕事をしているんだい」ニヒルに構えたウステアの鳶色の瞳が見つめる。その光はヘレンの瞳へと吸い込まれる。
「軍事企業なの。エルフリンクという。今はね、黒海会議の警備をやっているの」
ヘレンがそう言った時、後ろから物音がした。口を閉じて静かにすると、ガラスを引っ掻く音だとわかった。ウステアはヘレンが事情を察するより先に立ち上がって窓を開けてやると、細い黒猫が窓枠からぴょんと跳ねて家に入ってきた。
「ちょっと待ってろよ」と言って冷蔵庫に向かうウステアの脚に黒猫は纏わりついて離れない。彼は小鍋にミルクを注いで火にかけ、適度に温めてから平皿に注いで床に置く。しゃがんだ彼の膝に黒猫は二三度額を擦り付けてからミルクを舐めにかかった。
「ねえ、食事中に触っても怒らない?」
「大丈夫だと思うよ」
今度はヘレンが黒猫の前にしゃがんで、そっとその耳の後ろを撫でる。とてもふわふわとしていた。猫じゃらしみたいだ。初めてではないけれど猫に触るのはとても久しぶりだった。思い出せるところでは、ベルリン大学の中庭に居た茶色い縞のやつがいた。しゃがんだ人の周りを尻尾を立て体を擦りつけながら回るのが好きな猫だった。コーネリウスのことを待ちながらよく遊んでもらったものだ。今の黒猫の方はきゅっと目を細めてみるだけで(それが喜びの反応なのかも)、積極的に構ってこようとはしないので撫で放題だった。
「可愛いの」ヘレンはうっとりして呟いた。
「黒猫が目の前を歩いたら不幸が起こるって話も聞くけどね」ウステアは椅子の位置をずらし、妙に畏まった体勢で黒猫の様子を眺める。
「迷信だと思う」
「そうだろうね。不幸を齎されるのは僕の敵かもしれないし。神様ならもっときちんとした法則を作るはずだ」
「そうね、私の敵かもしれない」ヘレンはウステアの表情を窺い、俯いて微笑する。「この猫、あなたが飼っているの?」
「どうだろう。飼っているつもりはないのだけどね、ご飯は毎日あげているよ。隣も遠いし、他の家で貰っているような気配もない。けど、この辺なら鼠も多いだろうし、食べ物には苦労していないと思う」
「そう」野生なのね、と小声で黒猫の方に尋ねてみるが、返事は無い。
「同じだ」ウステアは出し抜けに言った。
「え?」
「君も黒い服を着ている」ヘレンと黒猫、二者を交互に指差す。「黒猫と同じ意味を込めているのかなと思ったんだけど」
「違うわ。そうじゃない」それはさすがに見当違いだな、とウステアに向けていた顔に苦笑を浮かべる。
彼は「そう、違うんだ」と言ってから目を背け、居心地なさげに組んだ手の親指をぐるりと数回回した。それから「君もまだ戦っているんだね」とむしろ打ち明けるように言った。
「ううん。私は、一度抜けたの。だから、まだ、じゃない」
「まだ、ね。そうか」ウステアは目を瞑って、喉に詰まっていた毛玉を吐くみたいに溜息をついた。「じゃあ、もうイージという渾名では呼ばれていないのかな。新しい名前があるの?」
「うん。ヘレンって」ヘレンは言外に強く訴えかけるウステアの目をしっかり見返して答えた。「あなたは?」
ウステアはかぶりを振った。「戸籍上は与えられているよ。でも、僕が昔の僕のままだ。何も変わっちゃいない。そういう便宜上の名前は偽名なんだ」
ウステアはとても悲しい顔をした。ヘレンもとても悲しい気分になった。
「少し外に出ようか」細めた目で猫の舌の動きを見つめながら彼は言った。
彼が黒猫を抱き、その横にヘレンが並んで、まっすぐな畦道を歩いた。
「ここでは農業を?」
「うん。毎年、小麦を植えて、水や農薬を撒いて、収穫する。たまには空豆も植える。僕は機械の管理を任されているだけでね、時期になると人が集まるんだ。ほら、あそこにサイロが見えるだろう? 集積するのはあそこ」
ウステアが顎で差した方角には、銀色の円筒形が三つ並んでいた。混合農業は地域協力というけど、あんなところまで一区画なんて果てしないな。
「すごいなあ。農業するのには何か動機があるの」
「動機? そんなことは訊かれたことがなかったけど」ウステアは空を見上げ、その手は黒猫の額をくすぐる。彼の腕の上の長い尻尾が複雑な曲線を描いて揺れる。「強いて言うなら、植物の成長を見届けるのがなんだか愛おしいからかな」
「そう」ヘレンが閉塞的に言うとしばらくの間沈黙が流れた。その沈黙は植物の匂いがした。小麦粉でもロールパンでもなく、それは生の生体としての小麦の匂いなのだった。
「ヘレン」ウステアが振り返り、足を止めていたヘレンを呼んだ。
間もなく、自分が呼ばれているのだという実感がむくむくと湧き上がった。過去でなく、今にある私が、ここに居るのだ。確かに、ウステアが過去から続く自分に縛り付けられている一方で、私は一度飛翔し、過去を切り離すことができた。でも、だからといって、ウステアとの時刻がずれているわけではない。
「はい」とヘレンは応える。
ウステアは麦畑の方を向いてしゃがみこみ、そこで黒猫を横に降ろすと、躊躇いながらも言った。「麦は痛みを感じると思う?」
「麦?」ヘレンは辺りを見渡す。
「そう」
「感じないと思う」
「僕が鎌で麦を刈るのと銃で人の命を抉るのと、同じ原理だと思うんだ。もしかしたら、そうじゃないのが常識なのかもしれない。でも、麦を刈るのに躊躇いが無いのは僕が麦の痛みを感じてやることができないからだし、想像してやることができないからだ。僕はやっぱり人の痛みも感じてやれないし、想像もしてやれない。どうしようもなく同じなんだ。これを不条理だという人も居るみたいだけれど、お互い仕方ないことだと思うんだ。だって、僕は、こいつの痛みなら少しはわかる気がするから」
ウステアは黒猫を撫でながら、もう一方の手で麦の穂を数本一緒に掴んで力任せに千切り、それを畑の方へ放った。
頭を撥ねられた麦はしばらく空気抵抗に揉まれ、何も気にしていないようで、どこか自分の存在意義の消失を惜しんでいるように見えた。
黒猫は離されたウステアの手を追って更なる愛撫を求めることに没頭していた。
「君は何のためにここへ来たんだろう」ウステアは独り言のように言った。けれどそれは猫に訊いたのでも神に訊いたのでもない。
「私はあなたに会うために来たの」ヘレンは中身のない毅然さを保つことにした。
「そう、それは僕も嬉しい。話せて楽しかった。でも、もう帰ってもらわなきゃいけない時刻になってしまった」ウステアは鳶色の瞳を向け、精一杯の演技をした兵士の声で言った。右手の上に重ねられた左手が理性と礼儀の最後の一皮に見えた。
「ええ、ごめんなさい」
ウステアの俯いた姿を最後にヘレンは踵を返し帰路につく。背中に殺気が刺さればすぐにでもバックショットをする用意をしていたけれど、拳銃の有効射程を出るまでにその兆候が表れることはなかった。
彼のベッドの下にギターケースがあったけれど、たぶん、ギターは入っていない。もしウステアがまだ使っているのだとしたら、あの中には分解されたドラグノフ狙撃銃が収められているに違いない。そうでなければ彼は私を追い出したりしなかったし、あんなに自分から喋ることもなかったはずだ。十年ぶりに、全く縁の無い地で、何のアポイントメントも無しに再会する。こんな奇跡的な状況なんて他にないはずなのに、お互いあんまり気分が高揚しなかったのは、二人ともどこかでそうなることを予期していたからなのだろうし、今日の午後が初めての再会でないことにも薄々気付いていたからなのだろう。
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