第8節 イスタンブール旧市街
黒海沿岸国会議の議場はイスタンブール旧市街のほぼ中心に位置する。西にはヨーロッパ・トルコ全域につながる高速道路が伸びており、市街の西、マルマラ海に面するアタテュルク国際空港へのアクセスも容易である。
イスタンブールは元来ビュザンティオンという地名で、四世紀にローマ帝国が支配下に収めコンスタンティノポリス(またはコンスタンティノープル)と改名すると、名前通り帝国の東端を守る城塞都市として整備され、以後ビザンツ帝国の首都として千年以上に渡って栄えた。ところが建国以来徐々に勢力範囲を拡大していたオスマン帝国による度重なる包囲の末、一四五三年、オスマン帝国はかの有名な艦隊のガラタ山越えによって金閣湾の海上封鎖を破ってついにこの都を陥落させ、この日を境にイスタンブールと名前を定めたのだった。近世より交通の要衝であったこの土地には様々な言語が飛び交い、スラブ語からギリシャ語、ペルシャ語、果てはアラビア語で書かれたものまで、数多の歴史資料が残されているが、それぞれが異なった記述を行っているためにイスタンブールの名称の由来については未だ一定まりになっていない。
イスタンブールの歴史都市としての栄枯盛衰の物語は、ほとんどが現在の旧市街で起こったことである。故に旧市街と呼ぶのであるが、この地区はボスポラス海峡のマルマラ海側の出口の西側に位置し、さらに金角湾によって南北に分断される海峡西岸の南側に当たる。半島の形をしたこの地区に、アヤ・ソフィア、ブルー・モスク、スレイマン・モスクにトプカプ宮殿、ヴァレンス水道橋といった古い建造物が集中していることからも窺えよう。
ワイアームはホテルのエントランスで暇つぶしにでもなればなと期待して取ってきた観光リーフレットを二つ開いて片手に持ち、埃っぽい路地を歩きながら目を通していた。一通り黙読を終えると脳内で大きく相槌をかまして、硬い文章だな、と思った。この情報を元手に隔月誌にコラムでも書いてやろうかなんてことは一ミリも考えていなかったから、きっとこんな知識はひょんなことできれいさっぱり忘れてしまうだろう。例えばプランタの置いてあるあの上の方の窓から、「食べ終わった食器は片づけなさいって!」なんて叱り声が聞こえてくる程度でも十分に違いない。
人通りの無い狭い路地だった。立ち幅跳びで端から端まで飛べそうなくらいだが、やったらやったでビルの壁に頭をぶつけそうだ。そそり立つとはこのことで、薄黄色の石を積み上げたイタリア風の建物が両脇をがっちり固めて壁と化しているのだ。先のT字路の向かいの壁を成すのも同じような建物で、まるで迷路実験に供された虫の気分だが、壁のデザインが凝っているだけ上等だろうか。ワイアームは冷静だった。ふと立ち止まって自分は迷子なのだろうかと考えてみる。いやいや、そんなはずはない。
ホテルで頼まれたのは買い出したっだ。それで、今、目標達成の証である紙袋を左腕に抱えている。釣銭を掏られたわけでも、道草を食って賭け事で摩ってしまったわけでもない。地図付きの観光リーフレットが手元にある以上、帰り道がわからなくなったわけでもない。とすれば、原因はペア行動にあった。ヘレンではない。ミラ・カルヴィだ。海辺まで出ると言うと一緒に行ってもいいかと訊いてきた。写真を撮りたかったらしいが、ファインダを覗いたままふらふらするのがいけなかった。バザールの中というのは本当に人が多いのだ。彼女の方も、それが仕事、つまり撮って編集するのがひとつの仕事だからと主張していたのであまり非難したくもないが。
とにかく歩き出した。石畳の軽い上り坂。ところどころの黒いマンホールの蓋が目立つ地面の色だ。例の迷路の突き当りで、どちらに進んでも行き止まりでないことを確認してから右を選ぶ。長い階段があって、上にモスク併設の公園があるはずだ。
しかし、どうやってミラを探すか。人に訊く? なんと言って説明する? まず、イタリア人の女だ。歳は、確か、二十二? ヘレンより少し上。背は小っちゃくて、眼鏡をかけている。髪の色は黒で、ショート。緩いパーマをかけている。服は、どんなのを着ていた? きちんと思い出せない。古風なイメージだ。色は薄くて、たしか柄物。重ね着していて布に無駄が多い感じ。…いやいや、トルコ語が喋れないというのにいったいどうやって訊くのだ。外国人観光客を探すか? それだけで骨が折れそうじゃないか。
ワイアームは唐突に振り向いた。含みのある視線を感じたからだ。
階段の数段下、ワイアームの素早い動きに、八十歳くらいの老婆が顔を上げて警戒と驚きの混じった目を向けていた。無理もない、心当たりのない眼つきの悪い外人に振り向かれれば怯えもするだろう。自分の良心がどこから分泌されているのか怪しかったけれど、曲がった背中に季節外れのサンタクロース並みのずだ袋担いでいるのを見てしまっては、放っていくわけにもいかなかった。隠すまでもなく大きな溜息を吐いて段を下り、どうせ言葉も通じないんだろうとの想いから簡潔に「ほら」とだけ言って背中を見せ、腰骨の後ろに手を当てて荷物を支えるジェスチャをする。が、物取りとでも思ったらしく、老婆は首を振った。肩越しにそれを見て少し考え、やむを得ず右肩の三角リュックを老婆に預けることにした。担保だ。
方向調整を兼ねた三つの踊り場を含めおよそ九十段に及ぶ上り階段を上り切った。空挺装備並みの重量がある荷物と三角リュックを再び交換すると、老婆はえっちらおっちら歩いていった。良心は目的地まで同行しろと囁いたが、それを押し留めたのは、そんなことをすればどこまで連れて行かれることになるかわからぬと案じた常識心だった。つまり原始的な保身、安全への欲求である。だから「君、偉いね」と声をかけられた時も、もう厄介事に巻き込まれるのは御免だとの思いから、三秒くらいは振り返らなかった。結局振り返ったのはその声が妙に幼かったからだ。相手は子供だった。
「いきなりだな、おまえ」
生意気な口を利くものだと思ったので、とりあえず目の前に仁王立ちしてみたのだが、その子供はすぐにそっぽへ体を向けて空を仰いだ。
「見てみなよ」
その突飛な言に思わず視線を従わせてしまう。
高度を上げた分、高いと思っていたイタリア風のビル群の屋根は眼下に下って視界が開け、濾し取ったような青の空が広がっていた。
「それで何なんだ。何者だ?」
「僕は、僕だよ」彼はワイアームの威嚇にぴくりとも動かず答える。
「は?」
妙に相手にされていないような扱いを受けて憤りを露わにせずにはいられなかったが、相手は澄ました横顔を向けるばかり。その着衣、風に靡く裾の長い黒衣にすら無視されている気がして、急に気持ちが萎えてしまった。自分が小物に思えたのだ。
「あの雲だよ」彼はすっと右手を持ち上げ、目の前の南の空を差す。「頭上にある細いのが巻雲。左に薄く広がっているのが巻層雲。一万メーター離れたところからは中空の積雲。地平線の上に被って見える厚いのは積乱雲だね。どれも素晴らしい形だ。でも、どうして雲に名前なんか付けたんだろう。まるでそれしか雲がないみたいじゃないかな……」言い終わりですっと声を小さくして、雲の名を順に差していった腕をはたりと下ろす。「あの雲の形を、この空模様を、僕は二度と見ることができない。空気が同じ場所に留まることはないから、一秒前の空が消えて、一秒あとの空が生まれる。絶えず死に、絶えず生まれ、決して戻ることはない。大気の秘めたるエネルギーの躍動を、僕はこの美しい光として感じているんだな。光を感じられるのは、僕がそれと同じように逆行しない時間の中に居るからで…」
はっと何かに気が付いたように息を吸ったあと、「こっちだ」と言って彼は歩き出した。まるで幽霊でも憑りついたみたいだった。不可解の一言で満たされたワイアームの頭に、それに抗うという選択肢は浮かばなかった。
彼は青々と山のように茂った月桂樹の覆う公園の緑道を歩き、街路に戻って南に向かう道を進んだ。その背中を追ってワイアームも歩いた。その子供はぎりぎりスキップになっていないくらいの軽い足取りだった。渦を成す弱い風を受ける度に、薄手のカーテンを仕立て直したような法衣型の縫い目のない彼の服が袖や裾を膨らませる。まるで黒い天使だ。
「どこに行くんだ」やはり返事は無いだろうかと諦め半分に声をかけた。
「さあ。ただこっちって気がするだけで」彼は振り返って歩を緩める。空を指差した時とは打って変って自信が感じられない表情だった。唇の端にそれが凝縮しているのだ。
「こっちって、何が」ワイアームは彼の反応にむしろ呆然とした気持ちで訊き返す。彼という未知の砂漠の上に立っているのだ。
「探してるんでしょ」
「あ、わかるのか?」
「何を探しているのかは知らない。君の表情がそんな感じだったってことしかわからない。僕にわかるのは僕のことだけだ」
彼はワイアームが追い付くのを待って、今度は横顔の見える位置で歩幅を合わせて半歩先を行く。見覚えのある顔立ちだなと思うのだけれど、こんな少年の記憶は一片も持ち合わせていないはずだった。
道を下っていくと交通量の多い道に行き当たり、一気に人の匂いが濃くなった。狭い路地に原色のテント屋根を乗っけた屋台が並んでいた。窓枠に鳩が留まって、建物の壁は白い糞で汚れている。イスタンブールは人の多い街だ。左右から来る名も知らない古い車の波の合間を狙って道を渡り、しばらく道沿いに行ってから右へ折れる。両側に屋台店が連なり、耳に慣れない喧噪に飽和した空間を切って進む。
「おまえ、英語喋んのか」
彼は危なっかしいタイミングで振り返って「え?」と訊き返すが、器用に人波を避けて他人に肩をぶち当てるようなことはしない。「これ、英語っていうの」
「はあ?」
やっぱり不可解な奴だなと思った。けれど、あるいは、親の喋る言語を耳から入れて自然に習得したのであれば、それが多言語との相対的な関係の中で何と呼ばれる言語系であるのか知らないということはあり得るのかもしれない。英語にしか触れたことがなければ、そこに違和感を抱くことはないだろうが。
「身の回りにある当たり前のものって、咄嗟には説明できないことがあると思うんだ」
「あ? まあ」ちょうど考えていたことを言われて狼狽する。
彼が何か言ったが雑音で聞き取れない。
「なんて?」右手に大声でフルーツのセールスをやっているおっさんが居て、ちょうどその前を通過したところだったので彼の細い声はほとんど潰されていた。
「君の人生最大の望みって何?」彼は、中年女のグループ、花柄のワンピースの脇を通り抜ける。
「なんでそんなことを訊くんだ」50㏄くらいの原付を押している男を避けながら訊き返す。
「嫌ならいいよ。あんまり重くなるのは僕だって嫌だから」
「嫌っていうかさ、それってなきゃいけないのか、って疑問。別にさ、俺に無いって言ってんじゃないけど」
それは兄のことだろうかとワイアームは考えた。けれど、一生を懸けるべき課題ではない。いつかは兄の基準の外に出なければならないのだ。
「そうじゃなくて、逆なんだけど、……わお、海だ!」彼は叫んで急に走り出すが、人通りは一時よりかなり減っていたので気を使う必要はなかった。歩道橋を渡り白い石の広場を駆け抜け、ちらほら立っている遊具には脇目も振らずに海へ近づく。ワイアームはまたその背中を追った。
「海だよ、海。空と海」彼は岸壁の縁で体を翻して大股を広げ、ワイアームに向かって叫ぶ。
「わかったよ。なんだ、意外と子供っぽいところもあるんだな」ズボンのポケットに右手を突っ込んで苦笑いしてやる。
「だって、子供じゃないか」
ワイアームが彼のところまで行くと、さらに一回転して右に海を見ながら再び歩き出す。岸壁は垂直に水面に没し、護岸のために積まれたテトラポットがそれに沿って陸の方へ弧を張り、波が来ると白く泡立ってその音とともに打ち消す。潮の匂いがした。さざ波の間に水鳥がたくさん浮かんでいて、飛んでいるところを見る限りではそれはカモメだった。自分でも不思議だけれどカモメが水鳥であることを知らなかったので大勢でぷかぷかやっているのを見て少しだけ目を疑った。高いところには鳶が居た。こちらも一羽ではない。
「いいね、空気が濃い。息苦しいくらいだ」子供は両腕を一杯に広げ、靴底一枚分ほど高くなった岸壁の縁を歩く。海側に落ちたらテトラポットの棘に打ち付けられそうなものだが、恐れる様子はない。
「潮の匂いじゃないのか。その位置だと飛沫もかかるだろ」
「海風だね。この辺りは四方から違う風が吹いてくるけれど」
「詳しいのな」
「空のことなら知ってることは多いと思うけど」
さっきわかるのは自分のことだけだって言ったくせにとワイアームは思う。不可解なのは支離滅裂だからか。
「おまえさ、なんで俺に声掛けたの。お人好しだったからってだけじゃないだろ。それに、人探しをしているからでも」
「うーん。理由は無いかな。ちょっと見てただけ。挨拶がてら」
「挨拶って、…まあ、いいよ。いい加減つっこまない」
ワイアームは諦めに似た溜息を海風の中に吐き出し、彼の進む先を見渡す。岸壁のコンクリートは石敷きに替わり、やがて途切れ、城址だろうか、高く築かれた黄土色の石垣の足元に、幅は狭いが純粋な砂浜があった。潮が満ちた時には水没するらしく、岩場には緑の苔が生していた。彼が歩いていくと小さな蟹がさっと水際の方へ逃げた。
「おまえ、なんか食う? リンゴでいいか」
「リンゴ?」
紙袋から出して放った赤い実を、彼はずしりと重たそうに両手で捕まえる。動体を捉える目は優れているようだ。
「齧るの?」
「そうだよ」
彼は両手で包んだそれを訝しげに目の前に持っていき、足を止めて口をつける。広大な海と空をバックにしたその立ち姿と所作は、神話のワンシーンをありのままに描き出したような雰囲気だった。
「かたい」彼はおもむろに酸っぱい顔を向けた。
「そうか? まずかったか」
「甘いことは甘いけど」
彼はこっちに来て右手の前に持っていたリンゴを差し出した。ワイアームは渋々受け取る。ちょうど側面に地球で云うところのオーストラリアくらいの噛み跡があって、白い果肉が露出していた。
「しゃーねえな。捨てるのももったいないから俺が食うけど、それでいいか」
「うん」
お礼と申し訳なさ半々の返事をした彼を連れ、今度はワイアームが先導して歩き出す。砂浜が途切れたところから右手に湾曲した堤防が海側に突き出している。その壇に登って先に向かって歩く。
「かたいけど、おいしかったよ」
「いいよ、気にすんなよ。こっちも気にしてない」
表情を窺うために横を向いてざくっと齧る。これも頼まれて買ったものの一つだったけれど、数は足りている。一つくらいここで食べてしまっても問題無い。放っておけば黄色くなるのだから、一度齧ってしまったものは食べ切ってしまうのがせめてもの手向けというものだ。
「ほんとだよ」彼は意地っぽく言った。
「ああ! おまえ、食べたいのか。そうならそうと素直に言えよ。もう半分も残ってないぞ」ワイアームはいたずらっぽく頭上に食べかけを翳してみる。欠けたシルエットでは太陽を隠せない。
「いいよ、それでも」視線を戻すと、彼は堤防の端に寄って歩き、顔は俯けて水面を眺めていた。相変わらず自分の世界に浸っているのだろうが、拗ねた子供に見えなくもなかった。「真ん中の方が柔らかそうだ」
「わかったよ。今度こそ最後まで食えよ」
「うん」
渡した食べかけとともにリンゴの件はすっかり頭から追い出して、それからはただ海風に当たった。海峡対岸の市街地が見える。狭い海だ。地図上ではそのはずだったが、この細く小さい堤防に立って見てみると、それですら自分には大きすぎるのは明らかだった。海も空も青い。海は水だ。大気は風だ。でも水も風も青くはない。それが一つの感覚の限度というものなのだろう。
「僕はそろそろ行くよ」
ふと我に返ってワイアームは振り向くが、彼の姿は見当たらなかった。
そのまま堤防の先の方を眺めて間もなく、何かに煽られたような強い風が正面から吹いてきて目を細めさせた。
また背後から、今度は名前を呼ぶ声が聞こえた。
けれどこれに焦らされることはない。ゆっくり振り向くとまばらな人影の中に当初探していた人物が駆けてくるのが見えた。服装は薄いグリーンのワンピースで、その上に赤いチェックのコットンシャツを重ねていた。
「ああ、よかった。もう会えないかと思った」ミラはワイアームの前で膝に手を突いて顔を俯ける。
「見つけられたの?」
「え? ええ、そうですよ」ミラは目の下を指で拭って顔を上げ、にっこりと隙っ歯気味の前歯を見せた。昨日の夜遅く頸の包帯を巻き終えた時と同じ笑顔だった。「街中じゃ絶対に無理だと思ったから、あの道路沿いに歩いて、海沿いに居ますようにって祈ってたの。ケータイもつながらないし、本当に、もうだめかと思いました」
「ケータイはここじゃ役に立たないでしょ。それに、ホテルの場所だったら俺だって把握してるのに」
「それは知ってるけど、一人で帰るのは忍びないと思ったので」
「心配しすぎ」あまりに落ち着かないミラの様子を見て、思わず苦笑いが漏れる。「それに、時間も潰し過ぎた」
「ああ、ほんとに」
「急いで帰んないと」
ワイアームは先に歩き出し、少し行ったところで振り返る。ミラの歩調を見るためだった。まだ息が収まっていない。そういえば彼の落ち着きようは見事なものだった。何者かは知らないけれど、リンゴを彼にやってしまったな、と思った。
残さず食べただろうか。それは少しだけ気がかりだった。
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