第7節 イスタンブール新市街
「付き合え、大尉」ホテルのエントランスを抜け、奥行きのある四五段の浅い階段を下りながら熟年の女はハスキィな声で言った。
「どこへ」シードルは彼女の無駄のない細身の背中を追って訊く。
「昼食に決まっているだろう。空腹には耐えられん」
実際のところ痺れを切らしているのは空腹だけではなく、会議のまどろっこしさにも辟易としていたのだと思う。真後ろに居たからよくわかったが、しょっちゅう脚を組み替え、首をぐるりと回すと時折ばきっと骨の嵌る音がしていた。
これは刺激しない方が良いだろうと弁えて、シードルは何も言わずにゲートへ向かうウィン・ノーリッシュに付いて行く。彼女がタクシーを止めるために路肩に立ち止まると、あからさまに待ち構えていたヨーロッパ最果てのイエローキャブがすかさず滑り込んできた。ウィンは乗り込むなり慣れた英語で行先を告げ、脚を組んで一見意味も無く満足げな表情を見せた。あんな議場に比べればずっと気持ちを落ち着けるのに適した空間である、ということだろう。
それを見届けたシードルは右手のドアに寄ってウィンドウに顔を近づけ、空を見上げた。通りに面した高い建物が意地悪く日陰を作っているせいで、白い雲が一層眩しく見える。瞳孔が絞られたせいで今度は地上の景色が真っ暗になった。
「少尉はどうか」
「どうって、何がです」人が喋り出す時特有の空気の潮のようなものが感じられなかったので、そんな気などなかったシードルは文字通り上の空のままで訊き返した。
「体調を訊いている」ウィンは上官らしい落ち着きで首を傾ける。
シードルも車内を見る目に戻して瞬きし、目の下を中指で掻く。タクシーの中はどことなくオリエンタルだった。前の席のシートには織物のカバーが被せられていて、濃淡の茶色でチェス盤を真似た模様だ。ヘッドレストには数珠の簾が下がっていてカーブの度に揺れる。
「それなら朝しか会っていません。青い顔で、夜までには起きますって。夜行性らしい」
「なんだ、そんなに飲んだのか、昨日は」
「俺は見ていませんよ。少尉の飲むところは」
「一緒じゃなかったのか」ウィンはドアに刺さっている窓開閉用ハンドルの遊びを指先で動かしながら顔を向けずに眉を顰める。
「女たちに飲まされていたと思われますが、プライバシーほかを気にするならばこれ以上立ち入らない方が無難と思います」
「うむ。少し気になって訊いてみただけだ」
「それは、心配ではなくて?」
シードルは顎の下の無精髭を気にしているのにも疲れて、右の肘をアームレストに置く。モスクワでエーリンに乗せられた車のものはもっと幅があって肘が載せやすかった。それを云うなら、この車全体の快適さに対する配慮が足りていないのだ。サスペンションだってマシュマロみたいにふわふわしていて、酷いローリングだ。けれど、ものの乗り心地なんて戦闘機乗りが憂いることではない。コクピットは狭いし、頭上からは直射日光が降り注ぐのだから。
「そう、心配だ。上官が部下を思いやらなくてはな」
「ん」シードルは少し唸って訊き返す。
「何か?」
「今のあなたに指揮系統は無いのでは、と思っただけです」
ウィンは艦隊の司令官補佐で、アドバイザーだ。必要とあれば本職から代理を任されることはあろうが、ここが陸の上であるというのはまだしも、彼女はまだ正式に着任はしていないはずだった。
「割に細かいことを言うものだな」
「なんとなくじゃやっていけない職業ですよ。それじゃあ飛行機は飛ばない。穴探しの思考回路を組むのも訓練の一環だ」
「指揮官は大雑把だと?」
「いいえ、別に」
やがてタクシーはウィンの指定した路肩に停まった。降りたところがカフェテラスである。深緑色の庇に印字されたはずの店名はすっかり剥げ落ちて解読不能だが、名より実。席の使用率は六,七割。例によって財布を持ち歩かない癖のせいでトルコ通貨リマによるファスト・フード式の会計をウィンに任せ、先に外で席取りの役を果たした。
ウィンはシードルより年上であるが、既婚者に特有の、次の世代の面倒を見るだとか、年寄り相応の物腰だとか云ったぐずぐずしたところがなく、あえて若作りして見せなくても若く見える、小ざっぱりした感じであり、こちらとしても複雑に気を遣うこともなく、ただ「歳上の女」という認識をしていた。あるいはもっと俗な方向性であれば、「アメリカ女」もありだろう。とにかく彼女が特殊なのは、ロシアの軍服を身につけた純血のアメリカ人であるということだった。
「今日の会議はつまりませんでしたか」これからの九時間、いわゆる後ろの半日のために与えられた一杯のコーヒーの、その最初の一口を含み、シードルは訊いた。
「いや、十分有意義だったではないか。どうだ、おまえは眠らなかったか」
「おそらく」
「どういう意味だ?」
「眠っていたら意識と記憶が飛んでいて、さっぱり思い出せないでしょ」
シードルがカップに立ち上る煙を見下ろしながら冷ますつもりで息を吹きかけると、ウィンはくっと喉を鳴らして「なるほどな」と言い、右手でカップを、左手でソーサをくっつけたまま持ち上げた。武官エレガンス・コンテストがあれば間違いなく一等賞の優雅さだった。
シードルはその動作に妙な魅力を感じたが、どうせ自分では無理だろうから真似はするまいと思いながらコーヒーを飲んだ。舌がイソギンチャクみたいに引っ込むくらい熱かった。それから道の方へ少し椅子をずらし、庇の陰から空の様子を窺った。向かいの建物も高いので随分狭い空になっていた。
「しかし、不可解だ」シードルは呟く。
「不可解? 何の話だ」
「昔の軍と、今の軍と、かなり性格が変わっているように思えます」シードルはコーヒーを諦めてハムサンドを取る。紙ナプキンの上に置かれたクラフト紙の包みには店のロゴが大きく印刷されている。
「性格、というと」
「情報公開ですよ。あれ、ルーラーの話を聞いてて思ったのは、軍事機密と弱みと、こんなに簡単に曝け出してよく平気でいられるなってことでしたから」
「曝けたが、簡単にではないよ」
「じゃあ、変わっていない?」
「いや、そんな長年の動きは肌に感じたことが無いがな、あの場でルーラーの脅威を包み隠さず公表したのには、ちゃんと意味がある」
シードルはウィンが話している間にハムサンドにかぶりつく。ライ麦の穀物感とレタスの繊維感があって、ソースの味が続く。いろいろ味がしたが、まとめると、しょっぱい食べ物だった。「なんです?」とあらかた口が空いてから訊く。
「航空艦隊を出すんだ。あの、タルトゥスに差し向けるにもスケジュールに四苦八苦していた艦隊を、だ。それだけ大きな事件なのだということはそれ単体でもわかるが、何の布石無しに実行できることでもあるまいよ」ウィンはちらと上目を向けてからガムシロップ・ポーションを開けてカップに垂らし、プラスティックの細いマドラーを突っ込んで手早く二周ほど混ぜ合せた。
「それで、今回の会議然り、カフカスの檻然りだと?」
「うん。ただ性格は異なるがな。ルーラーの被害に遭う可能性のある国に対してアピール力があったのはむしろカフカスの方だ。これだけの戦力で対抗したという基準になる。この会議では、ある程度国際的な問題としてスキームを組むべき問題として提起したのだろう。マスコミも入っているしな、一般への膾炙を期待しているのだ」
ピクニック気分で空を見上げながら食事するシードルに釣られ、ウィンもコーヒーを飲んで一息ついてからハムサンドを手に取った。注文を彼女に任せたので同じメニューだった。
「マスコミったってせいぜい二三でしょう」シードルは会場を思い出したが、傍聴席からのフラッシュが眩しいばかりだなんて妄想はおおよそできなかった。
「だから、膾炙を期待している、と言ったろう。期待しているだけで見込みがあるわけではないんだ。ルーラーは軍の敵だが市民の敵ではないからな」ウィンはシードルが話に食いついてくるかどうかを見る時間を設けるためにハムサンドを豪快に齧り、反応が無いことを察すると、ぐいと喉を通して話を続ける。「ルーラーのターゲットは給油機のみ。進路上の住民の生活を荒らすこともない。したがって市民がこれの無視を決め込むことは容易い。当事者第三者間の認識格差が大きい案件なんだ。軍にとってはルーラーそのものも厄介だが、下手に大きく動けないのも厄介。そう考えると、カフカスの要撃作戦は健闘だったと言えよう」
シードルは曖昧に肯いて「それはわかるんですがね」と言ってコーヒーを啜る。「なにせ、陸でしょう。それに国土防衛だ。空母を出すというのはまるっきり意味が違う。ルーラーを追って、他国の活動圏に入ることになる。西欧に空軍の部隊を出すのは難しいだろうが、かといって空母を出すほどの相手でしょうかね。案外、翻弄されるだけかもしれない」
「それはな、確かにそうだ。それだけならな」
シードルは片目を細めてウィンに答えを催促する。
「アメリカも空母を出してくる可能性があるからだ」とウィン。
「空母戦闘群?」
「今は空母打撃群と言うんだがな、ロシアに上手く誑かされた形だろう。どこの国の軍隊も獲物を探しているんだ。たっぷり膠の乗った牙を剥いてな。なんとか戦い続けんと、国内の産業が一つ丸々潰れることになる。抱えている公務員の数も多い」
「しかし、ルーラーが相手で採算が取れるとも思えない」
「さあな。だが戦場をつくらない分、都合はいい。いくら戦っても難民は出ないし、地上施設や地形の破壊もない。対空兵器は基本的に高価だから、銃と人手があれば何とかなって、その方が効率的な対ゲリラ戦よりずっと割がいい。結果論的に解釈するならそうなる。高級兵器でオーバーキルすることなく、戦線を泥沼化させることなく継続できる、無敵の敵というのが理想像なんだ。あとは世論か。爆発的な感情を起こさせることなく、細々と対処の必要性を認めさせて、なかなか解決しなくても咎められないくらい影が薄ければ、それが至上だ」
「だが、だったら、釣られたのはロシアの方じゃないのか。アメリカの空母運用に対してロシアの運用は相対的にコスト高なんでしょう、どうせ」
「確かにアメリカ海軍に比べればロシア海軍の規模はずっと小さいからな、同じ空母一隻でも、アメリカじゃあ保有数の十数分の一だが、ロシアだと一分の一だ。が、だからこそ少将はな、これを国威発揚と考えておられるよ。艦隊を活発にしたいのだ」ウィンは静かにカップを持ち上げながら言った。
「それで宣伝のつもりなら高くつきそうだ」
「そうだな、そうと言ってもよいが、海軍航空隊の拡張は彼の望みでもあろう。抑止力としての必要性さえ認められれば軍部は潤うさ」
彼の望み、と言ったところが面白かった。存外ロマンチストなのだろうか。
「妙に湿っぽいですね」
「なんだ、男女関係のことか」
何の前触れもなくとんでもないことを言われ、シードルは思わずハムサンドを喉に詰まらせた。本当に予期していなかったし、身構えていてもイメージに合わないような発言だった。胸骨のてっぺんを叩きながらコーヒーに手を伸ばし、ぐいと煽ってどうにか流し込む。結局その一口でコーヒーを飲み切ってしまった。
「悪いな」ウィンは特に狼狽えた様子もなく言う。武官エレガンス・コンテスト一位は伊達ではない。
彼女は制服の内側のポケットから煙草を取り出した。ハムサンドは既に姿を消して、畳まれた包み紙が時折風に震えるばかりであった。捨てるものを畳むとは、存外几帳面な性格らしい。
「なんです、その煙草」
見たことのないパッケージだった。濃紺に金縁、真ん中に白い羽根。複雑な文字が書いてあるが読めない。
「吸うか。中国のだ」
中国? と眉間に皺を寄せてみせると、ウィンが人を見透かしたような不敵な表情をしたので「はい、ひとつ」とシードルは答えた。見逃しておくわけにはいかない。
シードルが顔の横に手を挙げると、ウィンは箱からもう一本取り出して渡し、自分の煙草に着火してから、その銀色のスティックライタも貸し出した。横向きに突き出たスイッチを押し下げる着火方法だが、こういったタイプのライタを使うのは初めてだった。
「好事家らしいな。勧めてもいかがわしいからと言って避ける輩が多いのだが」
「そうです。俺は吸えれば構わない」
そう言ってから味を確かめてみるが、確かに今までにない異形の感触だった。実際吸ってみて思ったが、実はこの銘柄は有名なのではないか。ウィンの言う輩は味を知っていて遠慮したのだ。つまり、不味い。
「口に合わんか」
「いえ、不思議な味がするだけですよ」なんだか見透かされた気がしてシードルはがっかりする。「それはそうと」
「なんだ」木椅子の背に凭れ、片手で煙草を支える。コーヒーの時と姿勢は似ているが、もっとビターな軍人っぽさを醸してこちらを正面に見据えていた。
「空母を動かすのはどうのって話の時に、アメリカとロシアと、そこに挟まれているあなたの役割を訊かなかった」
「挟まれている、か」ウィンはそう言って自嘲気味に笑い、煙を吐く。「私自身は前々から進言していたんだがね、ほとんどは少将のお力だ」
この女はエーリンのことを随分と尊敬しているのだな、とシードルは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます