第5節 バスの中・仕事前の会話

 ヘレンは他の社員らより一足早くバスに乗り込んだ。全座席前向き、間隔は狭く、荷物は床下のトランクに預ける。いわゆる高速バスで、昨日の急な任務を(少なくとも形式的には)申し訳なく思っていたはずのトルコ政府が特別に手配してくれたものの内の一つだった。他には、飛行課セラフの往路の燃料代と帰路の燃料補給、飛行場の宿泊施設の提供などがあって、使用する弾薬費はもちろんのこと、前後契約金は言うまでもない。

 コーネリウスはずっと前の方の席に居て、運転手となんでもない世間話をしている。彼は語学が堪能でちょっと瞬時には数え切れないくらいの言葉を使い分けるが、今は英語らしい。政府の人選も全く無能ではないということだろうか、それとも、外国からの観光客が多いこの地のバスドライバとしてのステータスということだろうか。

 車内の空気は垂れ流されるトルコ国営放送のラジオ番組で小さく震えていたけれど、中身がトルコ語なので何かしらの背景音楽にしか聞こえない。薄い窓を隔てて広がるオレンジ屋根のある景色も実に背景っぽい。これがトルコ人の目や耳にはきちんと意味のある日常として捉えられているのだろうと想像してみると、やはり自分は異邦人なのだ、そんな実感がひしひしと湧いてきた。

 人脈づくりや情報収集といった少なくとも目的のあるコーネリウスの行為よりはるかに無意味な物思いをしつつ紙パックのいちごオレをちびちびと啜っていると、ワイアームが通路を歩いてきて左隣の席に座った。小さめの三角リュックを膝の間に降ろすと、それに付いたごつい金具が重たい音を立てる。なぜこの空いている中でわざわざ隣かというと、会場の警備任務ではこの二人でペアを組んでいるからだった。

「機嫌悪いの」

「あんだけ晒し者にされりゃあね、むしゃくしゃもする」ワイアームはぶっきらぼうに答える。

 ヘレンは紙パックを前の座席の後ろに取り付けられたスイング式のラックに避難させ、右手を額の前に掲げる。親指が額側。

「何?」とワイアームはリュックからPSPを取り出しかけた手を止める。

「サンドバッグ」答えつつ宙に手招きのようなパンチを数回素早く繰り出して見せる。頭の高さに取り付けられていて、殴るとすごい弾性で跳ね返ってくる小さくて軽いやつだ。

「ああ、こうか」ワイアームは笑って、拳を受け止める形に戻ったヘレンの掌に手招きをぶつけ、それを六秒ほど続けると「もう十分だよ」と言ってシートに浅く座り直した。

「じゃあ、これ飲む?」

「いいよ、気ぃ使うなよ」

「違うの。あんまり美味しくなかったから。いちご牛乳が飲みたかったからね、パックの色だけじゃなくてちゃんと英語で書いてあるやつを選んでボタン押したのに、これほんとにいちご牛乳ですか、って感じの味」

「それを俺に押し付けようってわけ」と言いつつ、俄然興味深げにパックを受け取る。

「成分表示をそのまま商品名にした方がいいと思うんだ」

 ワイアームは愛想笑いして早速ストローを咥え、横から注がれるヘレンの視線に耐えつつひとしきり啜って「いや、俺は嫌いじゃないけどな。そっちの舌が肥えすぎてんだ」と意外そうに言った。

 ヘレンは「そうかしら」と適当に返事して、先ほどからじわじわとチャックを下ろしてきたブーツをついに脱ぎ捨ててシートの上に足を載せた。その上に顎を置いて窓越しに外を見る。これだけ体を小さくしてみせるのは防御姿勢なのだろうと自分でも思うけれど、周りの話が耳に合わないときに感じる居心地の悪さではなかった。そんな雰囲気の緩和を望みに、「昨日は大変だったね」と訊いてみる。

 窓ガラスにほんのり映ったワイアームの影が緩慢な動きを見せる。「ああ。死人が――身内に死人が出なかったから笑ってられっけどな。俺も破片に首切られるところだった」彼は気丈に音程を上げた声で言った。「そういえばさ、ヘレンが遭った敵って、さっきの話題に上がらなかったけど」

「そうね、グルだとしたらエルフリンクが狙い説は固くなるだろうけど、単独というのはちょっと筋の通らないシナリオよね」窓にうっすらと車内の様子が映っている。外がもっと暗かったら鏡越しに話ができるのだけれど、と思いながらワイアームに顔を見せる。「随分腕のいいスナイパーでね、暗視装置砕かれちゃった」

「ああ、あれだろ、回収に行った時に見たよ。そらもう、木端微塵。あの精度で一キロ超のレンジなんだって? ヤバいじゃん」

「そう。敵からは丸見えだったんだろうね。私が月を背にしていたのが影響大かもしれないけど、今考えてみると狙われていたのかもしれない。あの位置じゃ逆の角の指揮所は狙いえないし」つまり、敵はコーネリウスを狙ったのではない。

「敵は見えなかったのか」

「うん。先手先手を取られて、こう、殺気が来るじゃない? それを避けるのに精いっぱいで、私も頭に血が上ったんだろうね、無茶しちゃったわけだ」

「しかし、魔女さんが屠られるとはね」ワイアームは白々しくも感慨深げに手をぶらぶらさせる。

「いくらむしゃくしゃしてるからって、その呼び方はやめてって」ヘレンは頬を膨らませてわざとらしくワイアームの横顔を睨む。「狙撃は専門外だし」

「危なっかしくって白兵から退かされてるんだろ」

「そうだけどさ」ヘレンは言葉を濁した。彼の言い分は確かに図星で、極限状況における自身の生命管理については自分は分別がないのだ。それは事実だった。

 二人でくだらない会話をしている間にも乗客は増えてきて、足音の占める空間内の音の割合が急増していた。今、八割五分くらいだ。ワイアームは他人の荷物が肩に当たるのを避けるついでに体をこちらに傾けてくる。軽い耳打ち姿勢だ。

「隊長から聞いた話でさ、出所はたぶん副長なんだけど」視線がちらりと背後を振り返った。バスの後ろには、怪我人の護送のために医療課の乗り込むバンが続いて停められている。昨日陸戦課が作戦エリアまで乗っていったのと同じフォルクスワーゲンだ。「別の軍事会社が介入してんじゃないのかって話だ」

 確かに今日のコーネリウスからは嘘の匂いがした。例え相手がコーネリウスでも嘘にはどこかエグみのようなものを感じる。ちょうど、さっきの似非いちご牛乳のような。

 政府とテロリストの間に入っている誰かが居る。あるいはそこで両者の首根っ子を鷲掴みにして操っているのかもしれない。コーネリウスの嘘は、会議でこの可能性を提示しなかったことだ。忠実な部下としては秘匿を守るべきだろうけど、ワイアームに対しては正直に「それはあり得ると思う」と相槌を打っておいた。

「隊長からも社長に話があると思うけど、こっちはこっちな。用意周到な割に実働部隊がいやに弱っちかった。このギャップが一つ理由なんだそうな。それで、どっかのPMCの戦闘指導員が派遣されていないか、武器貿易が近辺であったかってのを洗う考えだそうで」

「それも自力でやるんだ」

「この国で他人は頼れないだろ。それに、洗うったって調べるだけだ」

 あまり勢い良く啜るので、ワイアームが口を離す度にその手に握られたパックがかぽっと音を立てていた。

「大変だね」とヘレンが言うと、今度はそのパックが少し膨らんだ。ワイアームが笑ったのだ。

「自分が思いっきり撃たれてんのに、そりゃあ他人事過ぎるぜ」

「そんなことないよ」

 ヘレンは夜のコーネリウスを想像した。毎晩遅くに部屋に戻ってきてベッドに倒れ込む。自分の傷よりコーネリウス。ヘレンにとってそれは十分に自分の問題だった。

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