第十七小節 新たなる邂逅 花の香が浮かぶ冬空の向こう側

 エルスが叫ぶと同時、乗り物で丘を乗り越えたときのような、ふわりとした浮遊感がティアを包んだ。直後、押し潰されそうな圧力がティアの身体を襲う。

 そうして、二人の身体は、地上寸前でぴたりと静止した。

 が、勢いを完全に相殺することはできなかったらしい。がくん、と、いきなり重力に引かれ、二人は一緒に雪原に沈んだ。ぼふ、と粉雪が舞い上がる。

 しばらくして。


「……つめたっ」


 がばっと、身を起こしたのはエルスだった。抱きかかえたティアごと起き上がり、雪まみれの衣服を片っ端からはたいていく。しかし途中、腕の中で身じろぎ一つしないティアを不審に思ったのか、顔を覗き込んできた。


「……ティア? 大丈夫か?」

「……め……なさい」


 小さな声が辺りを震わす。

 エルスが、薄っすらと瞳を見開くのがわかった。


「……わたし、……のせいで、こんな……」


 自分でも聞こえないほど小さな声が口から落ちる。ティアは身体を縮め、だが、泣くのだけは必死に耐える。


「……ごめんなさ…い」


 か細い声で。

 不安で不安でたまらない心地になりながら。

 泣きたくなるのを押し殺し、それでも、ティアは涙一つ零さず謝った。慰めてもらいたいわけではないのだから、ここで泣くのはずるいと思った。だって、こうなったのはティアの責任なのだから。

 対し、エルスはどんな反応を返せばいいのか、わからなかったらしい。とっさに言葉が出てこないのか、考えあぐねたようだった。


「いや、まあ、なんていうか、あー……、うーん」


 言って、エルスが片手を持ち上げた。その気配を察し、ティアは反射的にびくんと身をすくませる。身体に緊張が走る。

 だが、エルスは持ち上げた手を、頭の上に添えただけだった。


「……違うよ」


 落ちてきたのは、どこか、ほろりとした声だった。聞いたことのない、少年の優しい声に、ふいに涙が滲む。細くもしっかりとした指が金色の髪を通り、頭をゆるりと撫でた。壊れ物でも扱うように、やさしく。懐古にしては淡く、まだ形のないそれは、指先の温度だけをティアに拾わせる。

 そうして、静かに、音もなく、撫でられているうちに心がほどけていって、あとは、氷解するだけだった。小さな嗚咽を漏らす。こぼれて、うまくとめることができない。

 声もなく泣きはじめたティアに、エルスはなにも言わなかった。ふっと、静かに水を注ぐような声で語りかけてくる。


「全部が全部、ティアだけの責任っていうことは、ないんだから」


 それは、けっして、やさしさからではないけれど。

 瞬きすら残さず消えた少年の声は、遠い憧憬のようで。

 淡く、とても淡いそれは、ついぞ言葉として発せられることはなかった。ティアの耳には届かない。だから、少女は手を伸ばした。


「でも……」

「──ああ、確かに塔から脱走したり、俺の腕を傷つけたのは間違いなくティアだが」


 泣き出しそうに震え歪んだティアの声を遮って、乾いた声が虚ろに響く。

 瞬間、ひやり、と氷水を当てられた心地になり、体温が急激に下がる。そうだ。自分はこの少年を傷つけて、血を──眼の前が暗くなる。忘れていた寒さが押し寄せ、エルスの服を握りしめた手が微かに震え出す。それでも掴んだ指は、外すことができなかった。


「……責任の一端は、俺にもある」


 呟くような声は、不意打ちのように鼓膜を打った。


「前にも言ったが、俺は俺の目的があってお前に接触している」

「それは、〈ラティメリア第一計画〉について知るため、ですか……?」

「それもある」


 エルスは自身の肩に戻ってきているフェイを一瞥した。


「ティアをかくまっていれば、そのうちお尋ね者になることぐらいわかっていた。それを承知の上で、俺は帝都カレヴァラに連絡を取らなかった。だから、もしお前が俺を巻き込んだとか、そういう風に思ってるんなら、それは違う。むしろ……」


 言って、エルスは繊細な手つきでティアの頭を最後に一回撫で、立ち上がった。なにかの区切りをつけるように、そっと手を離す。


「そういった意味では、帝都カレヴァラと俺は同類さ。俺はお前を利用するために、お前の傍にいる」

「そんなことを言ったら私だって……」

「違う」


 追いかけるように立ち上がれば、いつもとは異なるエルスの強い声。


「お前が今、俺に向けているものが『利用する』というくくりに入るとしても、お前が俺を利用するのと、俺がお前を利用するのとじゃ、質がまったく違う」


 ティアが息を飲む。


「ティアが、俺が探している存在じゃないんだったら、それでいい。けれど、もし――」


 言葉を切って、エルスはティアを見つめてきた。

 躊躇いとも似て非なる空白。整理したのか思案したのか。エルスは言葉を探すような間のあと、結局はっきり言うことにしたのか、おもむろに口を開いてきた。しっかりと目線を合わせ、正面から端然と告げてくる。


「もし、そうだったのなら、俺はお前の敵となりお前を殺す」


 ティアは、大きな目を零れんばかりに見開いた。ひゅっと急所を押さえられた心地。迂闊に踏み込めば、斬り殺されてしまいそうな眼差しに、息が詰まり、身を固くなる。震えそうになる喉を動かして、ティアは慎重に聞き返した。


「……それはどういう意味ですか?」

「そのままの意味だ」


 そのエルスの平坦な声に、嘘や冗談を言っているわけではないことは、ティアにもわかった。

 恐らくでもなんでもなく、そのときが来たら、エルスはあっさりティアを殺せるのだろう。真顔のまま、平然と。

 今更ながら、エルスがとてつもなく恐ろしい存在に思えて、内心、震え上がる。蒼い瞳から目を逸らすことができない。底が見えないほど透き通った蒼──鳥の飛べない蒼。生き物が死に絶える、蒼。得体のしれない〝なにか〟と目があって、ティアは、とっさ身じろぎした。

 全てを削ぎ落とした無表情から鋭い視線が返る──かと思いきや、意外にも、そこにあったのは、曖昧な表情だった。鋭さや攻撃的なものはなく、むしろ、どこか言い訳めいた口調で付け加えてくる。


「言っといて、こういうのも何だが、別に今すぐどうこうっていうつもりはないんだ。どういうわけか〈質量欠損〉が起きてないみたいなのと、あと、お前が本当に〈不協和音〉という確信も正直ないというか。違うような、そうなような……」


 あやふやな口調は、どうにも歯切れが悪い。エルス本人が一番よくわかっていないのか、なんとも言えない複雑な顔で、ティアの最奥を探るように見つめている。


「そういえば、初めて出会ったときにも言ってましたけど、〈不協和音〉ってなんなんですか……?」

『世界を壊すもの』

「世界を?」

『らしいよ。エルスいわく』

「らしいって、フェイ、お前──」


 エルスがフェイを睨む。


『ティアには、ぼくが喋れるってこと、もうバラしてあるから。そんな神経立てなくていいよ』

「いつの間に……」

『だって、ティアってドジでのろいんだもん。それこそ見た目は人間だけど、中身は亀なのってなぐらいの鈍臭さでさ。少しはエルスの機敏さを見習ってほしいね。あ、我が道を地で行く傍若無人さは真似しないでね。本当にはた迷惑だから』


 ティアだけに毒舌なのかと思いきや、フェイはエルスにもこの調子らしい。


「はいはい」


 おまけに、エルスは気にしてないらしい。適当に聞き流している。


『ま、基本的にぼくは必要以上に君らに干渉するつもりはないからさ。〈ラティメリア第一計画〉の情報が手に入ったら教えてよ。そういうことで、おやすみー』


 フェイはそう言ってエルスの上着のポケットにするりと入り込むと、寝息を立て始めた。

 どちらからともなく、二人の視線が合う。

 先に視線を切ったのはエルスだった。


「……さーて、どうしようか」


 独り言のように呟き、腕を頭の後ろで組むと空を仰いだ。蒼穹。雪はいつの間にかやんでいた。寄り添うだけの二人の上、透き通った蒼空が広がっている。

 ふとエルスは気楽な調子で、ティアに尋ねてきた。ともすると蒼い空に溶け込んでしまう青色が、ティアに向けられる。


「お前はどこに行きたい?」

「え……?」


 瞬きひとつ。不意を突かれ、ティアは聞き返していた。


「だから、これからどこに行きたいかって話」


 そう聞かれたところで、今のティアには何も答えようがなかった。

 どこに、いきたいのだろう。心の声がぽっかりと浮かび、浅く項垂れたままティアは立ち尽くした。自分がどこにも行きたいところが見つからないことに気づいて、途方に暮れる。自分がただ、ここに立って息をしているだけの曖昧な存在のように思えてきて、なんだか心許なくなる。

 すると、エルスが問いかけてきた。先ほどと変わらない調子で。


「じゃ、戻るか?」


 冗談とも本気とも取れる軽い質問に、ティアはふるりと首を横に振った。

 そっか、と、エルスはあっさりと頷いたあと。


「じゃ、行くか」


 手を差し出してきた。指先のない手袋の先、細くもしっかりした指先が、ティアに向けられる。


「……え?」


 ごく当たり前のように差し出されたエルスの手を、ティアはしばし眺めた。


「え、なんで『え』?」

「……一緒に来て、くれるんですか?」

「来ちゃまずいのか?」


 エルスは聞き返してから、少しだけ思い直したようだった。まあ、堂々と利用するって言ったしな、などと、のんきに言っている。


「いえ、そうじゃなくて……」


 意外だったのだ。ついて来てくれるのが。

 そう口にしようとして、きょとんとした顔の少年に気づく。じっとこちらの答えを待つ少年の顔は思いのほかあどけなく、年相応のあけすけな表情に、そういえば、自分より一つ年下だったんだっけ、などと急に思い出す。なんだか幼くて可愛い、とまでは言わないものの、思わず小さく笑みを零し、ティアはそっと口元を緩めた。少年の手のひらに、自身の手を重ね合わせる。


「ううん……。ありがとう」


 それから大切そうに、かけがえのないもののようにゆっくりと、その手を握り締めた。



 ──これが、始まり。少女と少年が築き上げていく小さくも深い絆の。



 微笑んでいるティアを、エルスは物珍しいものでも見るような目で見ている。


「本当によく笑う」

「そうですか?」

「ついでに言えばよく泣くし」

「そうかもしれませんね」


 苦笑すれば、エルスがおどけたような調子で、


「ま、ひとまずはよろしく?」


 追い風が、吹いた。風に煽られる金の髪を押さえ、ティアは心から笑った。


「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますね」


 そう、挨拶を交わしたときだった。

 ぽんぽん、と布を叩いたようにくぐもった、だが、軽やかな拍手が響き渡る。

 白銀の雪と黒の木々の奥、ふと振り返れば、視界がにわかに華やいだような錯覚。


「はぁい。こんにちは」


 女性だった。艶やかな銀の髪を緩くウェーブさせ、瞳は南国の海を思わせるエメラルドグリーン色。淡い花色の唇に人好きそうな笑みを乗せ、童女のように手を合わせてくる。


「ごめんなさいね。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、なかなかタイミングが計れなくて。でも、とても感動的だったわよ」


 女性がすっと一歩前に出てくる。すらりとしたシルエットは、深紅の外套に包まれていた。

 エルスは、しれっと口を開いた。


「ああ、オズウェルの足元に閃光弾を投げた人ですか」

「閃光弾?」


 ティアが怪訝に首を傾げれば、女性は口元を甘やかに持ち上げた。


「ええ、おかげで助かったでしょう?」

「そーですね。助かりました」

「そこは、素直にありがとうございます、と言ってもらえると嬉しいわね」

「ありがとーございます」

「可愛げがないわねぇ」


 呆れたように微笑む女性。一筋縄ではいかないエルスの態度に憤るでもなく、むしろ楽しげに眺めている。


「あ、あのー……」


 思わずティアは外から手を上げていた。つい先刻、エルスがオズウェルたちと初めて対峙したときのような、既視感のある光景と不穏な空気。

 が。


「なに」

「なぁに?」


 くるりと、二人が一緒にティアに顔を向けてきた。片方は無愛想、片方は愛想よく。

 なんだか言い逆らってはいけないような気がして、ティアは大人しく引き下がる。


「な、なんでもないです……」

「あら、なんでもなくないでしょう? お尋ね者のお嬢さん」


 その呼び方に、ティアの顔がさっと曇る。不吉な予感に身体を強張らせていれば、女性は失言を察したか、慌てたように両手を振ってきた。


「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの。私は別にあなたたちを捕まえようなんて思ってないわ」

「そうなん…です?」


 興味を引かれたティアが心持ち身を前に出せば、手首を引っ張る布地の感触。エルスだった。軽くティアを背後に押しやり、警戒の色を強めながら女性を睨みつける。


「まず、聞きたい……んですが、あなたは誰ですか?」

「そういえば、自己紹介がまだだったわね」


 女性は華やかにウェーブした銀髪を払い、優雅に胸に手を当てた。


「私はルーシー・ウィシャート。あなたたちの味方よ」


 ルーシーは片目をつむりながら、茶目っ気たっぷりに付け加えてきた。

 言葉遣いは丁寧語じゃなくて結構よ、と。

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