第十四小節 狙撃手との追走劇

 その数秒にも満たない時間に、一体何が起こったのか。

 力の爆心地にいたティアでさえ、状況を把握することができなかった。突然、感じた外気の冷たさに、ふるりと身震いする。


 知らないうちに外にいたらしい。そっと瞼を開けば、半分ほど開かれた瞼の先で白い花が舞った。雪だ。鉛色の空から雪が降っている。何もかもを埋め尽くしてしまいそうな、白い雪。見上げた先には、それしかなかった。他にはなにもない。天井すらも。


 ティアはゆっくりと視線を下ろし──ざっと血の気を引かせていた。


 あたりの景色は一変していた。

 爆発でも起きたように、壊れた家具がそこら中に散乱していた。天井も床も抜けている。ひしゃげてひっくり返った寝台や、落ちた天井の梁の瓦礫の下からは、血で濡れた人の手足などがのぞいていた。くぐもったうめき声も聞こえてくる。

 はらはらと雪が舞う極寒のさなか、ただ一人、ティアだけが、倒壊した建物の真ん中で、無傷で立っていた。

 とっさ、悲鳴が喉のところまでせりあがり、目の前で膝をついた黒髪の少年に気づく。ぱっと見、無事な様子に、わずかばかり胸を撫で下ろした。


「エル……」


 エルス、と名前を呼ぼうとして、ティアは今度こそ完全に血の気を引かせていた。血液が逆流する音が耳の奥で聞こえる。

 エルスは、指が食い込むほど右腕を押さえながら、声をかみ殺していた。五指の間、爛れたように引き裂かれた肉塊から、赤黒い血がだらだらと流れている。

 その怪我を負わせたのが誰なのか――それがわからないティアではない。

 ぼだぼだと生々しく滴り落ちる血が、床板を侵食していく。血を吸い込んで赤く染まる床とエルスの姿が、記憶の端っこをひっかき、血の海の真ん中で横たわったまま動かなくなったイリーナと重なる。それに引きずられるように恐怖を煽られ、地に足がついていない、不安定な場所に立っている心地になる。足ががくがくと揺れ始めた。


「……っ、ティ、ア」


 エルスが顔を上げた。表情こそ、平時の落ち着いたそれだが、頬は微かに強張っている。かすれがちの息を、ぜい、と漏らしながら、彼は血を失った唇を動かす。


「ティア……。いいから…、落ち着け」


 ティアは小さく首を振った。我知らず一歩後ろへ下がる。


「い、や……」


 死んでしまうと思った。このままでは、イリーナと同じように、エルスも死んでしまう。ティアのせいで、傷ついて、血を流して、動かなくなって――

 想像が引き金となり、恐怖が臨界点に達する。


 ――死んで、しまう。


 瞬間、眼の前の光景から逃げるように、ティアはか細い悲鳴を上げながら走り出した。







 凍りつくように暗い道を、逃げるように走った。

 立ち止まってしまったら、後ろから追いかけてくる怖い何かに捕まってしまうと思ったから。


 ──逃げなきゃ。

 自分でもよくわからない衝動のまま、ティアは走り抜けていた。雪で湿る石畳の街路を蹴り、騒ぎを聞きつけた人々の間を抜け、遠く。とにかく、もっと遠くへ。

 もはやティア自身、どうして自分が逃げているのか、わかっていなかった。ただ、逃げなきゃ、という強迫観念に突き動かされ、息を切らしながら走る。

 そうして、細い路地や坂道を縫い、何度目かわからない建物の角を曲がったときだった。つるりと足元を滑らせる。


「……い、っ」


 膝頭に硬い氷を打ち付けたような痛み。人影のない往来、防寒具を泥で汚しながら前から倒れ伏す。それでも、立ち上がろうと膝を立てるも、疲労しきった両足は自分のものではないようにがくがくと笑うばかり。

 なんとか力を振り絞り、近くの壁を支えに立ち上がったところで。


「――っ!?」


 背後から音もなく口をふさがれた。ぞっと凍えるほどに、体温が下がる。


「……んーっ! んんー……っ!」


 とっさ、力の限り暴れるも、相手はそれ以上の力で無理やり押さえ込んでくる。

 必死に抵抗しているのに、それがまるで意味を成していないことがティアには怖くて仕方がない。まるで自分がなにをしようが、すべては無駄なのだと言われているようで泣きたくなってくる。

 そう無我夢中でもがき続けたティアの耳に。


「……っ、頼む…から……っ、大人しくしてくれ――」


 瞬間、ぴたりとティアが大人しくなった。聞き覚えのある少年の声。

 すると、背後でティアを押さえ込んでいた人物も、ゆっくりとティアの口から手を退けた。ティアの腰を抱えていた腕をほどく。

 ティアはぼろぼろと涙を流しながら振り返った。


「エル……ス……」


 黒い髪、紺色の外套、鳥の飛べない蒼。

 エルスが、いつも通りの無表情で立っていた。脂汗こそかいているようだが、様子は普段とまるで変わらない。あえて言うなら、どうしたもんかね、と、珍しくやや困った風な気配を見せていることぐらいか。


「……っふ」


 安堵感と同時にどうしようもない切なさが一緒にこみ上げてきて、目の奥が熱くなる。だが、ここで泣いてはいけない。そう思って、涙がにじむ目をごしごしとこすっていたら、ばさっと、視界が暗く覆われた。上から厚手の外套を落とされたらしい。


「わわっ」

「とりあえず、それ着て。で、いったん町の外に出るぞ。話はそれからだ」

「はい……」


 襟に顔を寄せ、すん、と鼻を鳴らす。言われた通り袖を通し、途中、見えたものに、ぎくりとした。あまりにも鮮烈なその色に目を奪われる。

 エルスの腕に巻かれた包帯は赤黒く染まっていた。包帯から滴る血は石畳に落ち、ぴちゃりと小さな水溜りを作り始める。 


「あ……」


 再び、暗い恐怖がせり上がってくる。明かりも何もない真っ暗な穴に投げ込まれたような心地でいれば、エルスは動きを止めたティアの視線に気づいたのか、自らの腕を見下ろした。


「ああ、これなら大丈夫だ」


 痛みを感じていないのか、エルスは事もなげに言ってくる。

 しかし、裂けた布地を濡らす出血量は尋常ではなく、とてもではないが、ティアには大丈夫なようには見えない。包帯は既に役に立たないぐらいびちゃびちゃとなり、今にもずるりと音を立てて外れそうだった。その下の怪我は直視できたものではない。


「……ないで」

「え?」


 震え歪んだ声で、ティアはエルスの胸にすがり付いていた。


「……死な…ないで……お願い、……し……ないで――っ!」


 口から掠れた嗚咽が、こぼれるように落ちていく。次第にそれは泣き叫ぶ声に変わった。


「……ごめ……さいっ……ごめんなさい……っ!」


 気が狂いそうな心地で、ティアは何度もごめんなさいと謝り続ける。

 謝りながら彼に縋っているのか、泣きながら彼に懇願しているのか、もうわからない。そもそもエルスを傷つけたのは自分なのに。子どもが親にすがるみたいな声で泣きじゃくることをやめられない。

 ティアは泣きながら懇願した。死なないで。血で服が汚れるのも構わず、ただ、そう祈る。

 その祈りが通じたのかどうかはわからない。しかし、またしてもティアの体の奥から暖かな光があふれだし、彼女を淡く彩る燐光が虚空を舞う。それは一つ、また一つとエルスの腕に集まり、包み込んだ。

 そうして、光が消え去った頃には、エルスの腕には傷一つ残っていなかった。


「まさか、治癒の力……?」


 つぶやくエルスは驚いているようだが、反応は乏しい。薄っすらとだけ見開かれた瞳が、少年らしい細さの腕を映す。それから、彼は面を上げ、涙を流すことさえ忘れたティアを見た。


「ティア、君は――」


 が、すぐさま、その瞳が眇められた。

 直後、聞こえてきたのは青年の声だった。


「彼女は魔法が使える」


 顔を上げれば、オズウェルとアメーリエが、路地の入口を塞いでいた。

 忍び寄る二人の気配を察していたのだろう。エルスは驚きもせず静かに踵を返した。街灯もない細い道の下、ほんの少し表情を厳しくしたオズウェルと、その背後、何を考えているのかわからない柔和な顔のアメーリエを見て、淡々とつぶやく。


「世のため人のため誰かのためならば、奇跡さえ起こす万能の秘術――か」


 ──すなわち、魔法。


 エルスは端的に問うた。


「それをどうしてティアは使える?」


 問いに、オズウェルは、きっと口元を引き締めた。言いたくないことを、あるいは認めたくないことを、認めようとするかのように苦々しい顔の後、それでも、彼は視線を外さず、低い声で答えてきた。


「……人間ではないからだ」


 涙に濡れたティアの瞳がさっと曇る。

 しかし、エルスの返答はひどく落ち着いたものだった。


「なら、オルドヌング族とでもいうつもりか? 彼らは魔法を使っていたからな」

「いいや。彼女はオルドヌング族でもない」

「なら、ティアは何者だ」

「それは答えられないと、さっき言ったはずだよ」

「それもそう──」


 うなずきかけたエルスが、突然、ティアの頭を抱えてその場に押し倒した。小さな破片がチッと弾け飛ぶ。見れば、半瞬前、ティアが立っていた石畳の上に、ひび割れと鋭く抉られた銃弾の痕が残っていた。

 なっ、と驚いたのはオズウェルだった。全員、残された銃痕に注目する。

 エルスは、ゆっくりと身体を起こすとティアの腕を取って立ち上がらせた。露骨に冷ややかな視線をオズウェルに差し向ける。


「……どうやら交渉は決裂のようだな」

「ち、違う! これは──僕らじゃない! 僕は、そんなつもりは──」


 二発。オズウェルの必死な声に被さるようにして、ティアの足元を銃弾が穿つ。

 エルスはすかさずティアの手を握ると声を張り上げた。


「走れ!」


 オズウェルたちがいる方向とは逆へ走り出す。


「く…っ」


 オズウェルは一瞬たじろぎ、しかし、すぐさまアメーリエを振り仰いだ。


「アメーリエ追うぞ!」

「は、はいぃ~!」


 枯れた寒風が吹き抜ける路地の上、慌ただしい足音が舞い上がった。







 白い息が、二人分あがっていた。

 空を覆う暗雲からは、相変わらず雪がちらついていたが、走っているうちに、セーターの内側が汗で湿り気を帯びてきた。

 どのぐらい走ったのだろう。

 エルスに手を引かれて狭い小路を走ってきたが、迷路のような石畳はどこもかしこも殺風景で同じ景色に見えるため、どこをどう走ってきたのか、経過した時間もわからない。

 しかし、エルスは自分のいる位置がわかっているのか、走り方にまるで迷いがない。

 ティアの手を引いて走り出してからこれまでの間、袋小路に辿り着いたり、道を引き返したりするのはおろか、誰かをすれ違うことさえ、一度もしていない。

 後ろから響いていた足音が、徐々に、だが確かに遠のいているのがわかる。

 追ってきているオズウェルとアメーリエから離れていっているのだろう。

 そこでふと、オズウェルの顔が思い浮かび。


 ──人間ではないからだ。


 ひやりと冷たいものが走った。忘れていたはずの寒さがざわざわと、身体の芯に押し寄せ、内心、恐ろしくなる。我知らず、声が震えるのを感じながら、ティアはそれでも口を開いた。


「エルス、わた、わたし……」


 オズウェルは、ティアのことを人間でもオルドヌング族でもないと言った。

 それなら、自分は一体なんだというのだろう。エルスに握りしめられたニンゲンの手が目に入り、口をつぐんでしまう。この姿は間違いなく〈ヒト〉であるのに、本当は得体の知れない何かだとしたら――おぞましい考えが脳裏によぎった 瞬間、足元からすべてが瓦解していくような恐怖に襲われる。


「わたし…、ニンゲン…じゃ、」

「今はぜんぶ後回しだ」


 不安に駆られた言葉を、淡々とした声が引き戻す。

 ティアの不安を見越したように、エルスが握り締めた手に力を込めてきた。その平時と変わらない口調が今は逆に頼もしい。力強く握り締められた手を、ティアはぎゅっ…と握り返した。

 それに、とエルスは口走った。不意に空気がざわつく気配。


「のんびりと話させてくれるような、余裕もくれないようだから──な!」

「わわ!?」


 声とともに、ぐんっと引き寄せられる。世界が動く。視界が動く。その途中、視界の端っこに、蜂蜜色の壁に直立した配管を貫くのが見えた。

 続いて二度、三度、エルスの髪の毛やティアの服の裾をかすらせて、幾つかの矢が通り過ぎる。


「……ただの、矢じゃないな」

「え?」


 背後から、矢が一本、二人を追いかけていた。その矢は不思議なことに、エルスたちを追い越さず、ぴたりと付け狙うように疾駆している。


「先に行け!」


 エルスがティアの手を引いて前に押し出す。直後、彼は片足に重心をかけて反転すると、振り向きざまに迫る矢を短剣で打ち払った。耳障りな金属音の後、矢が虚空へ弾かれる──が。


「え!」


 信じられないことに、エルスを迂回してティアの正面から襲いかかってきた。反射的に驚いて立ちすくむ。

 刺さる。はっきりと矢の姿を見たティアは目を強く閉じた。痛みを覚悟し。


 ――刹那、立て続けの轟音が市街を震わせた。


 予想した痛みはこなかった。そのことを怪訝に思い、ティアは恐る恐る目を開く。硝煙の匂い。銃口から立ち上る細い煙。エルスが、いつ抜いたのかわからない白銀の拳銃を両手で構えていた。

 矢はティアに刺さる瀬戸際、中空で凍りついたように静止していた。一拍遅れて亀裂が入り、陶器のように粉々に砕け散る。


「追撃式──よりにもよって〈天羽々矢アーク・アークス〉か!」


 エルスはそう吐き捨てると、拳銃を右手に持ち直した。拳銃の輪郭が光り、短剣へと姿を変える。再びティアの手を取って走り出した。

 休む暇もなく襲撃。次々と背後から襲いかかってくる複数の光の矢を、エルスが短剣で払い落とす。光の矢が激しい金属音と共に次々と砕かれる。

 エルスは短剣を振るいながら、左手を後ろに向けた。


「葡萄月の宴」


 エルスの手から放たれた光の奔流が、小路の両壁ごと吹き飛ばす──が。

 矢は、光の壁を突き抜けてきた。エルスが短剣でことごとく打ち払うも、短剣一本で全てをさばききれるはずもない。二人の肩や腕が浅く斬り開かれ、鮮血が飛び散る。


「いたっ!」


 鋭い痛みにティアの足がもつれかける。

 じりじりと経過する時間と、いよいよ苛烈さを増す矢の襲撃。


「――こ、んのっ」


 エルスは外套の裾に手を入れると、シルバー色の小さな杭を二本、背後に放った。路地の両端に一本ずつ突き刺さったそれは、輝く一枚の壁となり、矢をせき止める。

 その隙に、二人は薄暗い裏路地から明るい通りへ飛び出した。

 ティアが荒くなった息を整えていれば、大きな四輪馬車が、ぱっかぱかと軽快な音を立てて通り過ぎていった。深呼吸して顔を上げる。


「ここは……」

「モンレーヴ新市街だ」


 ティアの手をほどいて、エルスが進む。買い物かごをぶらさげた婦人とすれ違い、ティアも人の流れに乗って歩き出す。それとなく、周囲を見やるも、路地から出てきたティアたちを気にしている者はいない。

 人で賑わうストリートは、チョコレート店をはじめ、宝石店や眼鏡屋、薬局など、たくさんの店が肩を寄せ合っていた。

 街を行く人達の服装は華やかで、陰鬱な気配もない。別の町に来たみたいだ。何十もの店と大勢の人の間を歩きながら、街の景観をあちこち眺める。


「とりあえず、これだけ人が多ければ、あんな物騒なものは使えない――」


 ガンっ! と。


 硬質な金属音。

 ティアとエルスは同時に立ち止まっていた。思わず、一緒に音がした方向を見やる。

 正面、道の脇に、自動四輪車が停車していた。後ろのタンクに小さな穴が開いている。見れば、陥没した銃穴から、鼻をつくような臭いの液体がだくだくと流れ出ていた。


「え?」


 ティアがまつ毛をぱちくりとさせ、エルスが半眼になる。周囲の雑踏から、なあに、今の音?などと、小さくささやきあう声が聞こえる。

 次の瞬間──

 大地を打ち砕くほどの激しい爆音と共に、自動四輪車が炎に包まれた。着弾を引き金に燃料ガソリンに引火したのだろう。巨大な炎は近くの木箱をあっという間に飲み込んで膨れ上がる。


「き──」


 一人の甲高い女性の悲鳴が上がった。

 それを合図に、あたりに爆発的な混乱が広がる。

 のほほんとした平和的なストリートに、恐慌が襲い掛かる。父親は子供を慌てて抱きかかえ、商人は荷を投げ捨て、誰も彼もが悲鳴を上げながら一目散に走り出した。

 また、エルスも。


「俺らも逃げるぞ!」

「え、エルス! でも──」

「文句はあとで聞く!」

「って、言っても、逃げた後、どうするんで──わぷぅ!?」


 エルスの外套に、ティアは鼻から激突していた。何事かと、痛む鼻を擦りながら一歩下がる。エルスの裾の脇から顔を出し、急に立ち止まった彼の視線を追う。硬直した。隣のエルスが面白くなさそうに口を開いてくる。


指名手配犯にんきものは大変らしい」


 銃器を抱えた兵士らが集まっていた。今も逃げ惑う人々をかき分け、上官の指揮の下、ざっと機械的に整列する。黒い銃口がティアたちに狙いを定めた。


「待っ……」


 ぞっと血の気を引かせたティアは、視線を周囲に走らせた。背後には、旅行鞄を抱えた若い男や、転んだのか起き上がろうとしている老婆など、まだ逃げ切れていない人が大勢いる。今、彼らが引き金を引いたらどうなるか──まさか、このまま無関係な人まで巻き込むつもりか。


「駄目え──っ!」

「ティア!?」


 ティアは自分の置かれた状況も忘れ、がむしゃらに走り出した。銃器を構える兵士らに手を広げる。とたん、全ての銃口が、ティアに向けられた。

 先頭にいる上官の男が、白い手袋を挙げる。


「撃」


 撃て、という声の直前。


花月フロレアルの舞い!」


 ふわり、と羽のような浮遊感がティアの身体を襲った。先ほどまで立っていたはずの石畳が一気に遠ざかる。エルスが、飛び出したティアの身体を後ろから抱きかかえ、虚空へ身を躍らせていた。

 ストリートに落ちた二人分の影を見上げ、愕然と空を仰ぐ兵士ら。

 エルスは手近な屋根に着地すると、左腕を振り上げた。

 兵士たちが、一斉に銃器を構える。


風月ヴァントゥーズの囁き!」


 空を裂く暴風が、凄まじい衝撃となって兵士の群れを吹き飛ばす。

 直後、目を刺すような鮮烈な光が、遠くの鐘楼付近で閃き──

 エルスはティアを抱えたまま、鋭く叫んだ。


花月フロレアルの舞い!」


 視界が残像に覆われた。瞬きもしないうちに元通りになる。しかし、景色は前と違っていた。水の流れる運河の上、滑らかな曲線の橋にエルスはティアを抱えて立っていた。再び、残像。ぱっと景色が変わる。床が傾き、屋根が落ち込んだ廃屋の中。きゃあっ、と布で身を覆った女が叫んだ。驚いている暇もなく、残像。

 エルスが唱えるたび、辺りの景色が次々と変わっていく。視界が歪む。ぶれる。景色が変わる。

 そうやって、何度も何度も景色が移り変わるなか、ティアはエルスの身体に必死にしがみついていた。

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