第四小節 胎児の産声

 ティアの手を引くエルスは、街のはずれへ向かっているようだった。進むにつれ、木組みの家々の影が遠のき、ちらほらとあった人の姿もほとんど見当たらなくなくなる。


 外、厚い暗雲に覆われた空からは、白い花弁にも似た雪が舞っていた。淡く、とても淡いそれはティアの頬に落ちると、名残惜しそうな冷たさだけを残して、すぐ解けて消えてしまった。春の兆しは遠く、空は途方もなく暗い。


 どこへ行くのだろう、とティアは考えかけ、億劫になって、やめた。


 だって、今は何も考えたくないのだ。イリーナが死んだとか、フィディールが殺したとか、そういうの、ぜんぶ、全て忘れてしまいたい。何もかもなかったことにして、元通り塔で不満を言いながら暮らしていたころに戻れたら、どれほど幸せだっただろう。


 途中、ティアが雪に足を取られて躓く。

 既に町からほど離れた街道。雪は深い。馬車も通らないのか、馬の蹄鉄や糞の跡もない。

 ティアは立ち上がって前に踏み出そうとし、失敗した。顔面から降ったばかりの雪に突っ込こみ、派手に転んだ。惨めな格好になる。


「……ぅ」


 両手を前へついて身体を起こせば、エルスが無言で手を差し出していた。いつかのイリーナのように。


 ──もう、しょうがないわねぇ。


 鳥の飛べない蒼の先、雲間から冬晴れの麗らかなひかり。銀色の三つ編みを肩から下げた白衣の女性が、エメラルド色の瞳を細めて呆れたように苦笑している。光が見せた幻。


「……イリ…な」


 イリーナさん。

 名を呼ぶ。

 もどりたい。

 フィディールがいて、何よりもイリーナがいる。

 あの頃の生活に戻りたい。


「……、ーナ、さ……」


 繰り返し、亡い人を呼ぶ声は虚ろだった。心がぷっつりと途絶えて、涙も何も出ない。もう一歩も歩けなかった。

 エルスが膝を折った。座り込んだまま立ち上がろうとしないティアを横に抱きかかえ、立ち上がる。ティアはされるままだった。


風月フロレアルの舞い」


 唱え、音もなく空を飛翔する。何もないはずの虚空を何度か踏み台に、高く──空高く舞い上がる。地の果ての白い峰々を目指して。







「……ティア、起きてるか?」


 到着したらしい。軽やかな着地の靴音。黒い革底が雪に沈む。

 エルスはティアを雪の上に下ろすと、頬を緩く叩いた。あっち、と後ろを指さされる。

 ティアは言われたとおりに背後を振り返った。どこか虚ろだった瞳に、薄っすらと光が戻る。

 切り立った崖の先、世界の果てのような景色が広がっていた。

 ふと、崖下を覗けば、宙に浮かぶ島が見えた。見ごたえのある大きさの島が、なにかに吊るされるでも支えられるでもなく、空を浮遊している。

 そこでティアは、ここが白い塔と周囲に浮かぶいくつもの島で成り立っているのを思い出した。 今までに見たことのない突飛な光景に、思わず魅入ってしまう。


「ここは……?」


 島の下に見える地表は赤茶けていた。川らしい川もない荒涼な大地に白はない。顔を上げて遠くを見れば、地平の途中から境界線を引いたように、雪が咲いた白い森が広がっている。


「人工大陸の端。本来は外周は立ち入り出来ないよう封鎖されてるんだが、まあそのあたりはいいだろ。……そろそろ時間だな」

「じかん……?」


 おうむ返しにつぶやき。


 ──目を、奪われた。


 光り輝く銀色の雪のかけらが、見渡す限りの空を埋め尽くした。

 舞い上がった雪が、冬の風に運ばれて空を踊る。

 ふわり、と妖精のように、白い花弁がティアの下に降りてくる。それをそっと握りしめ、気づいた。


「雪……じゃ、ない?」


 ティアは手のひらの白い結晶をまじまじと見つめた。手にある結晶は、解けていなかった。どころか冷たさすら感じない。


「〈氷晶華ひょうしょうかの踊り子〉」


 エルスが答えてくる。


「本当は〈氷幻鏡ひょうげんきょうの迷宮〉とか古都トレーネの方でしか見られないものなんだが、コゼットの森でたまに発生する特殊な上昇気流のせいで、帝都カレヴァラの低い位置でも見られるんだ。……花のダイヤモンドダスト。そんな風にも呼ばれてる」

「これ……雪じゃなくて、なんなんですか?」

「花だよ。単なる花びら。氷晶華っていう花の」

「はな……」


 ティアは踊り子のように舞う氷晶華の花弁を、目で無意識に追いかける。

 やがて、ティアの手の平の上にあった氷晶華の花びらも、風に吹かれて飛んでいってしまった。空へ舞い上がり、遥か遠く、手の届かない場所へ消え去ってしまう。


「あ……」


 ふいに、胸の奥を突いたのは、悲しいまでの懐古だった。

 ティアの唇から細い喘ぎ声が漏れた。それをかみ殺そうと何度か飲み込むも、一度喉元からあふれ出た嗚咽はなかなか奥に引っ込まない。そうしているうちに段々目の奥が熱くなってくる。


「……っ」


 とっさ、こわばっていた喉がひくっと大きく震えた。

 すると、エルスが口を開いた。氷晶華の花が舞う遠い景色を眺めながら。


「……泣きたいなら泣けばいい」


 その声は、いつも通り淡々としていて。


「ここには君を責める人は、誰もいないんだから」


 ともすれば、見逃してしまいそうなほどの、優しさに。


「あ……あ…あぁ……」


 ティアは決壊した。

 そうなると後は止まらなかった。くるおしいほどの衝動が喉をせり上がる。表情が歪んだように崩れ、ティアは声を上げて泣き出した。とめどなく流れる涙を流し続け、ついには座り込み、それでも収まらない衝動のまま泣いた。


 生まれたての赤子か何かのように、わぁわぁ泣くティアの隣に、エルスがしゃがみこんでくる。ティアより一回り大きく、だが少年らしい手のひらが、ティアの頭にそっと置かれた。

 その手は包み込むようにひどく優しくて、イリーナに頭を撫でられた時のように優しくて、優しすぎて、それがなぜかとても切なくて、訳が分からないまま、ただ瞳の奥がもっと熱くなる。


 二度、三度、エルスに撫ぜられているうちに感情がぐずぐずに崩れ落ちて、どうしたらいいのかわからなくなって、ティアは無我夢中でエルスの胸に縋りついた。泣き声がますます高まる。イリーナさんイリーナさんイリーナさん──一心に名を呼ぶ。届かない名前を何度も、何度も何度も呼び続ける。


 だけど、もうとっくの昔にわかっていた。


 何度呼んでも叫んでも請うても願っても、あの優しい人が、自分を叱ってくれることも、自分に微笑みかけてくれることも、ないんだということを。


 もうどこにもいないなんて嘘だ。いなくなってしまったなんて、そんなの嘘だ。


 白く散りゆく氷晶華の花が、光をためて眩しく輝く。

 くるしくて、せつなくて、息ができないほどの色が肺腑を満たした。







 エルスと訪れたそこは、霜枯れめいた庭のようだった。

 枝ぶりの悪い貧相な立木の間を歩いていると、白く積まれた雪を突き破る石や杭が見える。


 ネイリー、ロダン、ジョゼット……


 人の名前だろう。杭や石には、ひっかき傷に似た文字が刻まれていた。なかには、安らかに、といった文言も。名前の代わりだろうか。この町に流れついて、親しい人に看取られずに亡くなった人もいるのかもしれない。なんとなく、打ち捨てられたものを見るような物寂しい気持ちで、墓石を見送る。


 ふと、ある一文が目に入った。


 ──もう、誰もこの子に与えることも、この子から奪うこともできない。


 雪を踏む音が止まる。


「このあたりで、どうだ?」


 目の前、空き地の端で、エルスが立ち止まっていた。


「あ、はい」


 ティアは抱えた血まみれの服を落とさないよう気をつけながら、その場にしゃがみ込んだ。


 ──この服、埋めていいですか。


 寝ていた部屋に戻ってくるなり、ティアはそう切り出した。

 意図がわからなかったらしい。エルスの返答が滞る。

 ティアは血がしみ込んだ自分の服をきゅっと抱きしめた。


 ──イリーナさんの代わりに埋めたいんです。だめでしょうか。

 ──わかった。公共墓地を探そう。


 そうして、埋葬は静かに行われた。


「……芽月ジェルミナルの慶び」


 エルスが唱えた瞬間、雪の一箇所がぽっかりと解けた。意図的にそこだけを解かしたかのように、湿った土が顔を出す。

 魔法。夢の中に出てきた言葉が思い返される。だが、ティアはそのことを問うでもなく、手を動かした。穴を掘り、血で濡れた服に土をかぶせ、丸石を乗せる。夢と同じように。

 そうしてイリーナの墓は完成した。


 ティアは両手を組んだ。目を閉じる。意味は知らない。だが、夢の中でブランシュがと呼んだ女性の仕草を考えると、亡くなった人を想う行為なのだろう。


 こうして、出来上がった小さな墓を前にしても、イリーナが死んだという実感がわくことはなかった。今でもイリーナが死んだなんて信じられない。全ては嘘で、茶番で、フィディールとイリーナが打ったお芝居で、実はイリーナはどこかでひっそりと生きていて、ティアだけがそれを知らないだけなのでは。そんな気さえしてくる。空虚な感情が満たした。


 エルスは口をつぐんでいたが、やがて問いかけてきた。


「聞いていいか?」

「……はい」

「君とイリーナという人物は、どういう関係だったんだ」

「イリーナさんは、ずっと、私の世話をしてくれてた人だったんです」

「世話?」

「はい」


 ティアは花を探した。墓穴を作ったときに解けた雪の下、赤い実がついた草花を見つけ、摘み取る。


「家族とかじゃなく?」

「たぶん、違うと思いますけど、今はもうわからないです。それに……」


 家族というのなら、フィディールの方がよほど──。墓前に赤い実を捧げるティアの手が、ふと止まる。

 エルスが促してきた。


「それに?」

「……それに、昔のことをよく覚えていなくて。気が付いたらあの塔で暮らしていて、どうしてあそこで暮らしていたのか。いつからそこにいたのか。どうしてあそこから出てはいけなかったのか。本当は何も知らないんです」

「聞いたりとかしなかったのか?」

「会えた人に聞いてはみたんですけど、教えてもらえなくて。みんながみんな何も教えてくれなかったわけじゃないですけど……」


 そう言ってから、口調が弱くなる。


「あと、約束もあって……。でももう破っちゃったな」

「約束? 誰との?」

「フィディールとの」


 ──この部屋から、出ないように。


 ティアは目を閉じた。視界が暗くなる。

 暗闇の中には誰の姿もない。前はその台詞を言うフィディールの姿を思い浮かべたとき、束ねた長い金髪を背中に流すフィディールの後ろ姿が想像できたのに。


「あっ、フィディールっていうのは、ええと……」


 とっさ、ティアは言いかけ、ゆっくりと唇を横に結んだ。

 自分がフィディールのことを何も知らないことに気づいたからだ。気づき、気持ちが沈んでいく。


 聞いても教えてもらえなかった。


 でも、ティアもフィディールを強く問い詰めるようなこともしなかった。


 それなら、しょうがないか、と諦めにも似た、やる瀬ない溜め息がこぼれ落ちる。

 すると、エルスから見当違いの、だが、今のティアにとっては気を紛らわすにはちょうどいい答えが返される。


「フィディール・アファナシエフについてなら軽く知っている」

「……どうして?」

「オスティナート大陸では有名だからな。色々と」


 丁寧な無関心のあと、含みとは異なる何か。


「色々と……?」

「それは追々。一応聞くが、フィディール・アファナシエフと血縁関係者っていうわけじゃあ、ないんだよな?」

「けつえん?」

「親兄弟みたいに血がつながってるのか、っていう意味だ」

「兄妹じゃないって昔、言われましたけど……。でも、フィディールの双子のお姉さんと私は同じだって言ってました」

「同じ?」

「でも、今は違うって」

「同じで、今は違う……か」

「意味、わかります?」

「さて、な」


 今度は曖昧な返事。

 風みたいな少年だ。ティアはそう思った。追い風のように背を押すかと思ったら、さらうようにティアの手を引き、掴めそうと思えば、その手をすり抜けていく。いつも届きそうで届かない。こんなにも近くにいるのに。

 ティアは、所在なく赤い実を摘んでは、墓の前に並べた。ぽつぽつと話し始める。


「……みんながみんな何も教えてくれなかったわけじゃないですけど、それでも、あそこで暮らしていた時、私にいろんなことを教えてくれたのはイリーナさんと――」


 そこで、隣に立っている、自分とさほど背丈の変わらない少年を見上げた。万感の思いを込める。


「エルス、あなたで二人目です」

「なるほどな」


 うなずくエルスは、やはり、感情を揺らさない。

 ティアは立ち上がった。足元、寒々しい見栄えだったイリーナの墓は、もう、たくさんの赤い実であふれている。


「手伝ってくれて、ありがとうございました」


 そう言って頭を下げ。

 くきゅるるるるー、と動物めいた鳴き声が、お互いのお腹から響いてきた。

 なんだか急に恥ずかしくなって、ティアはお腹を両手で押さえた。そういえば、目が覚めてからご飯を一度も食べていない。

 見れば、エルスも似たような格好をしている。その腹は、ティアの腹以上に、ぐーぐー鳴いていた。


「……そういや、朝から何も食べてなかったな」


 すっかり忘れてた、とでも言いたげに腹を押さえるエルスは、相変わらずの無表情だ。おどけた風にも見える彼に、ティアは、くすり、と唇から微笑みを漏らした。


 自分が笑ったのが、なんだか久しぶりのことのように思えた。

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