僕と太鼓と悪魔

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 ボンババ・ボンババ・太鼓を叩く。

 小さい掌で叩いた皮がくぐもった音を立てる時、その時だけ僕の気は晴れた。

 僕は背丈も小さくて、足も遅いし頭も悪い。だから皆に笑われる。皆が僕を下に見る。僕は喧嘩も弱いから、学校ではいつも下を向いていた。

 僕の気晴らしは太鼓だった。押入れの隅に仕舞われた、眼鏡みたいな形の太鼓。アフリカに行った爺ちゃんが土産に買って来たとかで、僕が生まれるずっと前から仕舞いっぱなしになってた太鼓。

 嫌な出来事があった日は、僕は決まって太鼓を叩く。暗い押し入れを閉め切って、だあれもいない家の中、ボンババ・ボンババ・太鼓を叩く。父さんも母さんも夜遅くまで仕事だから僕はいつでも一人だった。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 その日の僕はとびっきり沈んだ気分で帰宅した。素敵なあの子に笑われた。苦手な算数で当てられた。嫌いな給食いっぱいだった。そんなやなことが重なって、僕の気持ちはどん底だった。

 そんな気持ちを払おうと、僕は太鼓を叩いていたのだ。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 普段のリズムじゃ物足りなくて、僕は突飛に叩いてみせた。

 ボン・ボン・ボボバン・ボンバババンボン。

 ボン・ボババン・ボン・ボバンボボバン。

 すると突然太鼓が光る……僕はもちろん目を疑った。だって太鼓が光ったんだよ? 光はみるみる強まって、僕は思わず目を閉じた。

 少しだけ待って、目を開けた。押入れの景色は変わってなくて、ただ一つだけ違うのは、僕の目の前に何かが居たんだ。

「やい小僧。俺を呼び出して何の用だ」

 金切り声でそいつは言った。僕の手よりも小さいそいつは全身真っ赤で角があり、ミツマタの槍を持っていた。

「何の用って何のことさ。僕はお前を呼んでない」

「いや違う。お前は確かに俺を呼んだ。その手に持った悪魔の太鼓で、悪魔を呼び出すリズムを叩けば、俺様悪魔の呼び出しサインだ」

 そいつは威張ってそう言った。悪魔の太鼓に悪魔のリズム? 僕は到底信じられない。けれど確かにそいつは現れ、僕に向かって笑ってみせた。

「まぁいいさ。お前にその気が無くっても、俺は確かにここに来た。お前に呼ばれた俺様がお前の望みを叶えてやろう。それがこの俺の義務なのだ」

 望み、とそいつは確かに言った。望み、望み、望みだって?

 目を丸くした僕を見て、そいつはますます喜んだ。

「欲しい物でもやりたいことでも、やってほしいことも何でもいい。お前が望めば俺が叶える。そういう定めになっている」

「それじゃあ、僕はお金がほしい」

 僕の言葉が消えるより先にそいつは五百円玉を取り出した。

「そらよ、とっとと受け取りな」

 僕がお金をつまみ上げると、小さい悪魔は腕組みをした。

「お前が太鼓を叩いたら俺はその場に現れる。お前の望みを叶えてやろう」

 言うが早いか悪魔は消えた。僕は不思議な夢見た心地、だけど硬貨は本物で、その日はアイスを買ったのだった。


 その後も僕は太鼓を叩いた。嫌な出来事があった日は、僕は決まって太鼓を叩く。悪魔のリズムを繰り返す。

 ボン・ボン・ボボバン・ボンバババンボン。

 ボン・ボババン・ボン・ボバンボボバン。

 悪魔はその度現れて、僕の願いを叶えていった。おやつにゲーム、宿題代行、嫌なあいつを懲らしめるのだって悪魔に頼めば一瞬だった。僕は毎日太鼓を叩き、悪魔に願いを叶えてもらった。

 その頃の僕は幸福だった。願えば何でも叶うもの。だけど不思議と苛立ちは増えて、素敵なあの子と話したあいつ、僕だけちょっぴり少ない配膳、帰ってくるとき吠えた犬、少しの不愉快が耐えられなかった。

 ボン・ボン・ボボバン・ボンバババンボン。

 僕の太鼓は激しさを増す。

 ボン・ボババン・ボン・ボバンボボバン。

 悪魔はその度現れた。悪魔はその度叶えていった。


 あるとき、僕が目覚めると、あたり一面海原だった。びっくり仰天した僕は、太鼓を叩いて悪魔を呼んだ。

 ボン・ボン・ボボバン・ボンバババンボン。

 ボン・ボババン・ボン・ボバンボボバン。

 悪魔はやっぱり現れて、僕に向かってにやりと笑った。

「おいおい、お前は本当に欲深欲張り業突く張りだ。これほど大きな願いが叶い、まだまだ何かを望むのか」

「何のことだよ、悪魔くん。一体これはどういうことか、僕に事情を教えてくれよ」

「どうやらお前は寝ぼけているな。忘れているなら教えよう。お前はいつもの乱暴者に殴られ蹴られ脅されて、そして俺様に言ったのだ。『あいつも、あの子も、パパママも、全てまとめて消してくれ』。だから俺様やったのさ。地上を洗う大洪水。ノア以来だぞ、満足か?」

 悪魔が言った説明で僕の記憶が蘇る。そうだ、僕が願ったのだ。いじめ、からかい、しがらみ全部無くしてしまった新世界。嫌なことなど何もない、清々しいこの水の国。

 だけれど僕の心の中は頭上みたいに曇り空。流れる水を見ていた僕は、悪魔に向かってこう言った。

「ねぇ、悪魔くん、お願いだ。この洪水を消してくれ。世界をもとに戻すんだ」

 悪魔は渋い顔をして、僕への返事を吐き捨てる。

「ああ、いいだろう。お安い御用。この洪水を巻き戻し、全てを直してしんぜよう。人間ってのはほんとに馬鹿だ。そうするだろうと思っていたぜ」

「あともう一つお願いだ。僕が太鼓を叩いても、お前は二度と出ないでおくれ。ただ僕からは見えない場所で僕の太鼓を聞いてくれ」

「それは重畳、嬉しいね。こんな労役もうごめん。お前の下手な太鼓を聞いて長い余生としゃれこもう」

 それから悪魔は槍を持ち、僕のお尻をちくりと刺した。

 気付けばそこは押し入れで、世界は何も変わりなかった。乱暴者に殴られた左の頬も痛いまま。僕は涙を滲ませながら、そっと太鼓を叩いたのだ。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン。

 ボンババ・ボンババ・ボバンボボバン――



――――――――

(2018年4月10日)

(お題:「太鼓」「洪水」「悪魔」)

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