16.結婚





 結婚は人生の墓場だと、誰かが言っていた。

 本当にその通りだ。





 目の前の醜い生き物が、自分の妻だとは考えたくない。

 炬燵の中に入り込んでテレビを見ている彼女は、CMに入ると私の方をちらりと見た。


「ねえ。喉が渇いた。」


 それだけ言うと、またテレビに視線を戻す。

 私が絶対に取りに行くという事を前提とした態度。

 文句が無いわけでは無かったが、言い争うのも面倒だと何も言わずに冷蔵庫に行く。


 開ければ糖分過多な飲み物の数々。

 その中から、最近好きだと言っているジュースを取り出し彼女に持って行った。


「はい。」


 返事は無い。

 お礼を言わなくなったのは、いつ頃だっただろうか。


 それに比例して、彼女の名前である美早子と私も呼ばなくなった。

 気づいていない彼女は、私の事をきっと金を運んでくる召使いだと思っているのだろう。


 なんで私はそれを受け入れているのか、時々分からなくなってしまう。



 好きになった時のような美しさも、私の後ろについてくるおしとやかさも無くなった。

 彼女に尽くすメリットが、私には全く無い。



 その時お笑い番組を見ながら、ゲップをする下品な行動をした。

 気持ち悪さに私は顔をしかめる。





 何か刺激が欲しい。

 ストレスだらけの生活に、少しでも良いから潤いを。


 会社帰りにふらふらと歩きながら、私は家に帰りたくないと考えていた。

 帰ったら専業主婦である妻は、絶対に家にいる。


 そうしたらいい様に使われて、さらに疲労をためる羽目になってしまう。


「あー。帰りたくないな。」


 切実な呟き。

 そういった所で、いつかは家に帰らなくてはならない。

 ただ言わなくては、やっていられないのだ。


 自嘲気味に笑って、さて家に帰るかと方向を変えようとした。

 しかし、目の前に誰かが立ちふさがる。


「こんばんは。」


 それは中学生ぐらいの女の子だった。

 セーラー服を着て、こちらを見上げている。


 こんな夜中に、1人で一体何をしているのか。

 誰かに今見られたら、ものすごく誤解をされてしまいそうだ。



 通報だけは勘弁してもらいたいと、私は無視をしようとした。


「おじさんの望み。私なら叶えてあげられるよ?」


 しかし彼女が言った言葉に、自然と足が止まる。

 顔を見ればしてやったりの表情を浮かべていて、私は苦虫を噛み潰したような気分になった。


「何を言っているんだ。さっさと家に帰った方がいいぞ。」


 顔を手で覆いため息をつくと、彼女に帰宅を促す。

 そんな優しさは全く通じなかったみたいで、話を変えられた。


「家に帰りたくないんでしょ?帰れないように私なら出来るよ!」


 キラキラとした純粋な目。

 向けられた私はたまったものじゃない。


 この子の目的はなんだ?

 金か?それとも人を冤罪で破滅させる事に喜びを感じるのか?


 分からないからこそ怖い。

 だから返事をせず、逃げる機会をうかがっていたのだが。


「良いの?今この機会を逃したら、一生こき使われて飼い殺される羽目になるよ?」


「それは、一体どういう事だ。」


 さすがにその言葉には、反応を返すこと以外に出来なかった。

 彼女が本気で言っているのだとしたら、私にとっては願ってもいない話だ。


 もし出来るのだとしたらの話だが。


「信じてくれるかは分からないけど、試してみる価値はあるでしょ?どうかな?」


 彼女の言う通り、試してみる価値はあるのかもしれない。

 駄目で元々だし成功したら、私は自由になる。


 気が付けば私は頷いていた。

 彼女はとても嬉しそうにすると、私に手を向けてしばらくブツブツと何かを言う。


 その様子を見つめながら、本当に大丈夫かなと心配になるがされるがまま立ち続ける。



「はいおわり!これで家に帰れなくなったよ!良かったね!」


 終わりと言われたが何かが変わった感じもなく、私は戸惑ってしまう。

 しかし話しかける前に、彼女は立ち去っていた。

 文句も何も言えないまま、私はため息をつく。


 やはりただ騙されていただけか。

 そろそろ連絡が来る頃だろうから、怒られる前に帰ろう。


 何だか疲れてしまった。

 とぼとぼと私は、家へと帰る道を歩き出す。





 しかし彼女の言う通り、結局私は家に帰れなかった。

 帰ろうとしているつもりだったのだが、何故か家に辿り着かない。


 しかもいつもだったら連絡が来るはずの妻が、連絡をしてこないのだ。


 あの少女の言った事は本当だったのか。

 しかたなく近所のビジネスホテルに泊まった私は、久しぶりの清々しい目覚めを体験した。

 妻と顔を合わせない生活が、こんなにも良いものだったとは。


 今日は仕事もいつもより元気にやって、同僚を驚かせてしまったほどだった。


「今日は飲みに付き合いますよ。」


「本当ですか?如月さんが付き合ってくれるの、久しぶりじゃないですか!みんなー。今日は如月さんも来るってよ!」


 飲みに付き合うのは何年ぶりだろうか。

 今は門限など全く無いので、飲み会に付き合う旨を言えばものすごく喜ばれてしまった。


 付き合いというのは大事なんだな、としみじみと思う。




 飲み会は本当に楽しかった。

 久しぶりのアルコールは気分をいいものにしてくれたし、会社の人との会話はとても幸せに思えた。


「じゃあ如月さん!気を付けて帰ってくださいね。」


「ああ。今日はありがとう。」


 店の前で別れると、私はスキップをする勢いで陽気に昨日泊まったホテルへと向かう。

 今日も恐らく家には帰れないはずだ。

 それは嬉しい事だし、帰りたいとも思わない。


 私は気分がとても良かった。





 家に帰れないのが、こんなにも辛くなるとは思わなかった。

 あれから一週間が経った私は、明らかに疲労を感じていた。


 ホテル住まいも長くなると、金も使うし気も使う。

 住み慣れた場所じゃないから、勝手が違い生活が上手くいかない。



 家に帰りたい。

 少し前とは違った思いを抱きながら、私は生活をしている。


 そう思ってからは、何度か家に帰ろうとした。

 しかし何があっても辿り着く事が出来ない。



 久しぶりに妻に電話もした。

 しかし通じる事なく、どうしようもなかった。


 前に少女にあった道を、私はふらふらとさまよっていた。

 そんな私を誰もが避ける。

 私が同じ立場だとしても、そういった行動をすると思うので何も言わないが、精神的にどんどん追い詰められていく。


「ああ。帰りたい。」


 この前とは正反対の呟き。

 しかし今の私にとっては、これこそが本当の気持ちだった。


「あはは。おじさん、この前と全く違うこと言ってる!」


 その時、今度は後ろから待ち望んでいた声がした。

 私は藁にもすがる気持ちで振り返る。

 そこには前と同じ、セーラー服を着ている女の子が立っていた。


 私は掴みかかるぐらいの勢いで、彼女に詰め寄る。


「た、頼む!家に帰してくれ!」


 本気で言ったのだが、返ってきたのはクスクスと馬鹿にした笑い声だけ。

 戸惑い私は掴む力を弱めてしまう。


 少女は掴んだ手を外すと、少し距離を置いてきた。


「別にいいけどさ。でもそれをやったら、これからは絶対に家に帰らなきゃいけなくなるよ?」


 私は一瞬迷ってしまう。

 絶対に家に帰らなくてはならない。それはこれから一生、妻の奴隷としての生活を続けるという事。

 しかしすぐに決心した。


「帰らせてくれ。お願いだ。」


 私は振り絞るように懇願する。

 そうすれば少女は無邪気に笑った。


「しょうがないな!今回は特別だよ!」


 この前と同じように、顔の前に手を出される。

 されるがまま待っていれば、そう時間の経たない内に終わった。


「じゃあもう会うことはないだろうけど、バイバーイ!美早子さんと仲良くねー!」


 そして嵐のように去っていく彼女の後ろ姿を見送った私は、少し時間を置いてから歩き出す。





「ただいま。」


 今までが嘘のように、すんなりと家に帰ってきた私は玄関で恐る恐る声をかけた。

 すぐに人が動く音が聞こえてきて、妻が驚く事に迎えに来てくれる。


「おかえりなさい。ご飯は食べてきた?作ってあるわよ。」


 いつもと違った温かみのある言葉に、私は何だか涙が出そうになった。

 それを何とか抑え込んで、もう一度声をかけた。


「ただいま。美早子。」


 私は心の底から、その言葉を言った。















 美早子は夫が寝たのを確認すると、とある人物に電話をかける。


「もしもし。満足する結果だったは、報酬はちゃんとお支払いします。」


 その顔はとても満足そうで、寝ている夫を見に行く。


「ええ。これで一生、彼は私から離れられないでしょう。楽して生活できるわ。」


 一方的に言った彼女は、電話を切るとベッドに近づく。

 そして静かに寝息を立てている夫に、そっと囁いた。



「もう馬鹿な事を考えるのは、止めなさいね。」



 寝ている彼には届かない言葉。

 しかしその方が、きっと幸せなのだろう。





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