第7話


 新快速電車三四三九Mは、なおも山科駅の通過線に取り残されたままだった。車両故障を併発して、発車すら出来なくなってしまった。車掌と運転士の判断で、やむを得ず乗客を線路に降ろしたのは二十分前のこと。全員が駅のホームに上がったのを確認し、車掌は電車に戻って一息ついていた。椅子に座り、運転台に肘をつく。

 ふと、彼は遠くで何かが光ったように思った。疲れのあまり幻覚まで見えるようになったかと、彼は目をこすった。しかし、あれは間違いなく列車の前照灯だ。はるか後方に輝く小さな光。そのとき、ホームに自動放送が流れた。

『まもなく、一番のりばを列車が通過します。黄色い線までお下がり下さい』

 彼は驚いてホームに目をやる。溢れんばかりの鉄道マニアが一斉にカメラを構えていた。彼は不思議に思った。全ての列車が停車しているはずだったからだ。


 やがて、甲高い汽笛が近づいてくる。

 颯爽と現れたのは、貫禄に満ちた蒼い列車だった。それを牽引する小豆色の電気機関車には、『日本海』と書かれたヘッドマークが誇らしげに掲げられている。

 車掌は思わず脱帽して、立ち上がった。

 日本の一時代を築いた英雄は、堂々と鉄路を走り抜ける。窓ガラスが太陽の光を反射し、きらきらと輝いて見えた。

 別れを告げる長い汽笛。停車していた電車たちが次々と、ひとりでに警笛を返していった。まるで偉大な先輩に別れの挨拶をするかのように。


  *

 指令員が声を上げる。

「『日本海』か、そうだ、『日本海』だ!」

 彼はコンピュータの画面を指令長たちに見せた。画面上のダイヤグラムに引かれた一本の線には『九〇〇二レ』と併記されていた。つまり、その線は寝台特急『日本海』の運転時分を表している。彼は『日本海』のダイヤを少しだけ変更したものを、そこに入力した。アイトラスは変更を受理し、変更が画面上に反映される。

「ほら、『日本海』のダイヤ変更だけは操作を受け付けるんですよ」

 指令長の一人が尋ねる。

「『日本海』が通過後のダイヤを弄ればどうなる? たとえば、山科駅の通過線に停車中の新快速三四三九Mだ。山科駅を臨時通過させるダイヤに変更できる?」

「やってみます」

 アイトラスは変更を受理した。画面上のダイヤグラムに線が一本追加される。そして、山科駅の京都側の分岐器が動き、出発信号が青に変わった。

「では、東海道本線全線で上り列車を動かすダイヤはどう?」

「だめです」

 総括指令長が会話に割り込む。

「東海道本線以外のダイヤはどうだ? たとえば、嵯峨野線あたりが手頃だろう。あそこは回送以外は本線に直通しないからな」

「受理されました」

 彼らは臨時ダイヤの入力作業を繰り返す。そして、今後『日本海』が通過する路線と、その周辺ではダイヤの変更を受け付けないという一定の規則が浮き彫りになり始めた。

「……まるで、交渉をしているみたいだ」

 と、総括指令長は呟く。

 指令長の一人が手を叩いた。

「そうだ、交渉なら我々がダイヤを元通りに戻したいことをアイトラスに伝えればいいんじゃないでしょうか? 君、『日本海』通過後の区間に平常通りのダイヤをそのまま入力してみてくれ」

 指令員がキーボードを叩くと、アイトラスはそれを受理した。

 そして、アイトラスは再び新しいダイヤを画面に提示する。それは、受理したダイヤに修正を加えたものだった。『日本海』が通過するまでは、『日本海』を除く全列車が停車し続け、通過後は、できるだけ早く平常ダイヤに戻すための臨時ダイヤだった。アイトラスは指令長の意図をくみ取ったようだ。

そして、アイトラスは再びダイヤを提示する。『日本海』の列車番号が臨時列車を表す『九〇〇二レ』から、『四〇〇二レ』に変わった。これは、定期列車としての列車番号である。

 総括指令長は技術者を見た。

「なるほど……これは人工知能の暴走だって言ったな?」

 技術者は頷く。

「……はい」 

 それは、総括指令長には信じがたいことだった。だが、アイトラスが提示した回復ダイヤは、まさに完璧なダイヤだった。見事なまでの車両のやりくりと、ダイヤの間引き。これは職人技に他ならない。サボタージュを考えるようなど素人に、作れるはずがないのだ。

「もしそうなら、これは『日本海』の送別会、ということか。ブルートレインへの最敬礼なんだな」

 これで全ての筋が通る。アイトラスは、全列車を停車させ、『日本海』のための花道[#「花道」に傍点]を作ろうとしているのだ。無人電車は、通り道を確保するための先導列車だったのだろう。

 さらに決定的なのは列車番号と、警笛だ。無線の報告によれば、『日本海』が通過すると停車中の列車が独りでに警笛を鳴らすのだという。これもアイトラスが『日本海』に贈る別れの挨拶であるに違いない。それ以外に目的があるだろうか。

 そう、全ては『日本海』のためだったのである。

 彼は笑う。

「やってくれたもんだ。全く、大迷惑じゃないか。鉄道員としては半人前にもほどがある」

 彼は、指令室の全員の視線が集まっていることに気がついた。

 彼は真剣な表情を浮かべると、手を叩く。

「よし、『日本海』を最優先で運行するぞ! 私が指令を出そう」

 総括指令長は、無線のマイクを握り、『日本海』の運転士を呼び出した。

「こちら新大阪輸送指令、九〇〇二レ運転士応答願います。どうぞ?」

『こちら、九〇〇二レ運転士です。どうぞ?』

「十一時四十五分、指令者森山をもって、寝台特急『日本海』は、列車番号を九〇〇二レから四〇〇二レに変更し、終点の大阪まで最優先で運行します」

 列車番号の変更は形だけであれ、『日本海』が臨時列車ではなく、本来の寝台特急『日本海』に戻ることを意味していた。

『え、はい。列車番号を九〇〇二レから四〇〇二レに変更、大阪まで最優先ですね。了解しました』

 そして、彼は『日本海』の車掌を呼び出す。

「つづいて、四〇〇二レ車掌、応答願います。どうぞ?」

『こちら四〇〇二レ車掌です。どうぞ?』

「乗務お疲れ様です。四〇〇二レは終点の大阪まで先着します。日本海の通過後、順次運転再開の予定ですが、振り替え輸送、払い戻しに関しては旅客指令に携帯電話で連絡を取ってください」

『了解しました』

「それでは、新大阪輸送指令より線内各乗務員に情報です。四〇〇二レ、寝台特急『日本海』は最優先で運行します。四〇〇二レ通過後、順次運転再開の予定です。発着番線ならびに停車駅の変更はアイトラス端末にて通告します。繰り返します、四〇〇二レ、寝台特急『日本海』は最優先で運行します――」


  *


 寝台特急『日本海』は、警笛の大合唱に見送られながら京都駅を発車する。駅員や作業員、運転士や車掌は蒼い列車に振り返ると、微笑んで見送った。沿線や通過駅では幼い子供から、白髪の老人に至るまで、数え切れないほどの人々が手を振っている。ちょうど昼時だからだろう、会社員とおぼしき男性までもが見物していた。

 蒼い列車は向日町操車場を通過する。線路脇で待機していた作業員たちが、白い旗を大きく振っていた。操車場に停車していた列車たちが、一斉に警笛を鳴らして蒼い列車に別れを告げる。

 『日本海』は茨木駅を通過した。内側線に停車していた新快速が警笛で列車を見送った。

 やがて、列車は新大阪駅に到着する。いよいよ次は終点の大阪だ。ドアを閉め、車掌の小野田は無線を手に取った。運転士に送る最後の発車合図である。

「こちら四〇〇二列車車掌、運転士さんどうぞ?」

『こちら四〇〇二列車運転士、どうぞ?』

 老車掌は深く息を吸った。

「四〇〇二列車発車!」

『四〇〇二列車発車!』

 力強い汽笛が駅構内に轟く。それは指令室にまで届くほどだった。

 周囲の電車の警笛や、「ありがとう」という歓声が飛び交う中、蒼い列車は終点の大阪駅をめざし、ゆっくりと加速しはじめた。

 車窓はすっかり都会の風景となった。終点まであと僅かだ。老車掌は流れゆく車窓を見つめながら、目に涙を浮かべた。彼は車内放送マイクのスイッチを入れ、オルゴール・チャイムを鳴らす。これが、最後の放送である。

「本日は――」

 そのとき、オルゴール・チャイムが車掌の言葉を阻んだ。電子オルゴールが止まらずに、再び流れたのである。『ハイケンスのセレナーデ』の爽やかなワンフレーズが、何度も何度も繰り返される。それはアイトラスとは無関係の故障だったが、まるで列車が最後の放送を拒んでいるかのようだった。

 車掌は心の中で『お客様にさよならを言わないと』と列車に語りかける。彼がもう一度オルゴール・チャイムを操作すると、オルゴールは渋々と鳴り止んだ。彼は再び口を開く。

「本日は寝台特急『日本海』号をご利用いただきましてありがとうございました。あと十分ほどで、え、終点の大阪に到着いたします。お忘れ物のないよう、ご支度ください。本日は湖西線、強風の影響と、信号機トラブルの影響によりまして列車は大幅に遅れております。お客様には大変ご迷惑をおかけしましたことを重ねてお詫びいたします」

 彼はメモに目を落として、深く息を吸う。

「寝台特急『日本海』の起源は、大正十三年に登場いたしました、神戸と青森を結ぶ急行列車にまで遡ります。その後、運転区間を大阪から青森までと改めまして運行されましたが、戦時中には一旦姿を消すこととなりました。戦後、昭和二十二年には復活し、その三年後の昭和二十五年十一月八日に『日本海』と命名されました。昭和四十三年十月一日、ダイヤ改正により寝台特急となって以来、寝台特急『日本海』として半世紀にわたり運行されて参りました」

 彼はメモを折りたたんで、ポケットにしまった。

「私事ではございますが、私が当時の国鉄に就職いたしましたのも、ひとえに、寝台列車への憧れからであったと記憶しております。三十年間にわたり、この『日本海』に乗務して参りましたが……とても語り尽くせないほどの想い出がございます。本日、皆様と共にブルートレインの最後を見守ることができたことを大変嬉しく思っております。心より感謝いたします」

 彼は言葉を詰まらせた。

「……皆様の夢を運び続けて参りました寝台特急『日本海』も、本日をもって運転を終了いたします。え……しかし、皆様の夢の中では、いつまでも……いつまでも……走り続けることと思います。長年の……ご愛顧賜りまして誠にありがとうございました。これにて……お別れとさせていただきます」

 彼の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「まもなく……終点の大阪、大阪です」

 オルゴール・チャイムが車内に寂しく鳴り響いた。乗客の大きな拍手が沸き起こる。

 やがて静まりかえった車内。レールの音、車体の軋む音が哀しく響く。旅の終わりである。


 蒼い列車は長い長い警笛を鳴らし――。

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AI-TRAS 2030 寝台特急ラストラン 井二かける @k_ibuta

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