第6話


 新快速三四三五Mは、茨木駅一番のりばに臨時停車していた。振り替え輸送も開始されたが、他の交通機関まで距離があるためか、まだ車内に残っている乗客もいる。

 運転士は電車の外で大きなあくびをしていた。いつになったら電車は動けるのだろうか。出発信号機の一つは青になっているが、あれは下り内側線への出発信号だ。この電車は下り外側線に出発しなければならないため、どのみち発車することができない。

 ふと、彼は無線の声に気がついた。

『三四……運……せよ! ……五三M……』

 また、どこかの運転士が誘導されているのだろうと思いながら、彼は気に留めなかった。どこかから聞こえる警笛と関係があるのだろうか。

 そのとき、電車のドアが閉まった。運転台から『ブー』というブザーが鳴る。普段は省略される、車掌からの発車合図だ。あえて鳴らすということは、今すぐ発車する必要があるのだろう。運転士は電車に飛んで戻った。だが、外側線への出発信号は赤のままだ。

『ブー、ブ、ブ、ブー』と、車掌からのブザー。通話を求める合図だ。運転士はブザーで合図を返し、受話器を取った。

「どうしたの?」

『はやく発車して! はやく!』

 いつもは氷のような女性車掌が、珍しく取り乱している。何かは分からないが、どうしても発車しなければならない事態が起きたのだろう。彼は高加速スイッチを入れると、マスコンレバーを引き、フルノッチで発車した。

 しかし、一体何が起きたのだろうか。運転台にいては状況が把握できない。

 列車無線からも慌てふためくような声が聞こえてきた。

『三四三五M運転士、応答してください!』

「こちら、三四三五M運転士。どうぞ?」

『後続の電車が追突します!』

 このとき、運転士は事態を把握した。車掌があそこまで慌てていたのは、後続の電車がすぐそこにまで接近していたからなのだ。だが、なぜ後続の電車は停車できないのだろうか。

 受話器から車掌の悲鳴が聞こえる。あの冷静沈着な『氷女』の悲鳴だ。危機的事態であることには間違いない。

運転士の脳裏に最悪の事態がよぎった。もし、このまま追突され死傷者が出れば、間違いなく責任を追及されるだろう。発車を指示した指令、駅で乗客を降ろさずにドアを閉めた車掌、そして運転台から離れていた彼自身。テレビに裁判の被告として映る自分のイラストを想像して、彼は震え上がった。

 しかし、まだ事故は起きていない。彼は車掌に指示を出す。

「お、落ち着いて、お客様を前方に避難させて」

 自分も冷静でないことは分かっている。だが、人的被害だけは最小限に留めなければならないのだ。

 電車は分岐器を通り、内側線に渡る線路へと入り始める。ここで速度を出せば脱線してしまう。彼は脂汗をにじませながら、ノッチを切った。あとは追突も脱線もせずに内側線に逃げ切ることを祈るしかない。

 受話器を通して、車掌の悲痛な声が聞こえる。

『もうぶつかります!』

「運転士は? 寝てるのか?」

『乗ってないんです!』

「乗ってない!?」

 運転士は窓を開け、顔を出して後方を確認した。最後尾の車両が分岐器を通り抜け、外側線から内側線への渡り線に入るところだった。その直後、後続の電車が顔を見せる。彼の心臓は縮れ上がった。最後尾の車両とは、電柱と電柱の距離よりも近い。あそこまで接近していたのか、と運転士は驚いた。ここからでは、後続電車の運転士の有無は確認できないが、乗っていたとして正気の沙汰ではない。

 運転士はマスコンレバーを引き、再び電車を加速させる。あの距離ではいつ追突されてもおかしくないからだ。全身に汗が流れ、彼の心臓は張り裂けそうになっていた。もうだめかもしれない、彼は覚悟した。


 だが、後続の電車は分岐器をこちら側に向かわず、そのまま外側線を走り続けた。

『……あ、離れていきます』

 車掌の安堵のため息が受話器越しに伝わってくる。追突は回避されたのだ。

 しばらくして、無人電車は隣を追い抜いてゆく。運転士は、ほっとしてブレーキレバーに手をかけた。

  *


 無人電車は吹田信号場への連絡線に入り、その動きを止めた。作業員から無人電車のパンタグラフを下ろしたとの連絡が入り、指令員たちは安堵の表情を浮かべた。もうこれで無人電車は暴走できない。人身事故は未然に防げたのだ。

 そのとき、指令員が興奮した様子でスクリーンを指差した。

「今ので、いなくなりました! 下り外側線に列車が……」

 確かに、スクリーンに表示された路線図は、山科駅から大阪駅までの東海道本線、その下り外側線に列車が一本も存在していないことを示していた。

 次の瞬間、東海道本線下り外側線の信号が一斉に青に変わる。そして、アイトラスは同線に対する抑止解除通告を送信しはじめた。

 総括指令長はスクリーンを凝視する。

「一体、何が起こっているんだ……一体、何が目的なんだ」

 

 

 技術者が言う。

「アイトラスからCTCを分離する準備ができま――」

 指令員が彼の言葉を遮った。

「ちょっと待ってください。アイトラスが臨時ダイヤを作っています」

「何?」

 画面に表示されたダイヤグラムを見て、総括指令長は目を丸くした。

「まさか……」

 そのダイヤグラムに引かれた線は一本だけだった。

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