2

 これで、終わり。

 シャープペンシルをテーブルに置いた。

 思っていたよりも、大分早く課題が終わった。

 時計を、チラッと見た。お昼まで結構時間がある。

 ダイニングテーブルに頬杖をついた。

 リビングに二人がいる内に、それとなく、二人を見ておこう。

 お父さんは、昨日のゲームか。

 テレビを見ると、草原のようなところを走っているようだった。

 お母さんは、読書。昨日の夜に読んでいたものと装丁が同じに見えるから、ここ最近、毎日読んでいる本かな? 

 やっぱり、あまり変わってないんじゃないかと思えてきた。

 もしかして、夢だったんだろうか?

 少し、整理しよう。


 昨日は、何かが変わった日だったんだと思う。そんなこと、昨日はまったく思わなかったけど、さっき起きた時、それに気づいた。

 昨日の出来事で、目に見えて何かが変わったわけじゃない。でも、たしかに何かが変わった気がした。そういう感覚があった。

 それがなんなのかまったくわからないから、それとなく思い当たる場所を確認したけど、思った以上の変化がない。

 変わったことに気づかないまま、取り返しがつかなくなるのは、もう嫌だ。

 なのに、変わっているところを探せば探すほど、ほとんど変わっていないようにしか、思えなくなってきた。

 自分の部屋の雰囲気も、空も、太陽も、雲も、ほんの少しの変化しかなかった。

 今日のお父さんとお母さんを少し見ていたけど、いつも通り。昨日の、珍しく饒舌だったお父さんも、楽しそうに動植物園の話をして何度も誘ってくれたお母さんも、思い違いだったのではないかと感じてしまう。

 昨日の出来事は、すべて、夢だったという可能性は?

 夢ではないと思う。夢は忘れるものだけど、昨日のことは記憶に残っている。

 忘れない夢も時々あるから、例外はあるのだろうけど、目が覚めたら夢なのかどうかはわかる。

 本当は誰かに聞けば良いんだろうけど、答えを聞くのが怖い。

 とりあえず、できる限り鮮明に、瞬間のあらゆる感覚まで思い出すことを目指して、昨日のことを思い出してみよう。


 最悪な寝起きの中でのストレッチもどきは楽しかったけど、落ち着いたら、変なことを考え始めてしまって憂鬱になった。

 お父さん達と話した後、お母さんと話している途中で、突然気持ち悪くなった。

 部屋に戻って、色々考えていたら、寝てしまっていて、気づいたらお昼だった。

 お昼ご飯を食べた後、昔を思い出して外に飛び出した。新しい発見と出会いがあった。

 お父さんとお母さんと定食屋さんに行ったら、お父さんが上機嫌で驚いた。聞いたのは、こっちだけど、ゲームのアイディアの話をされてもわからない。


 言葉にして思い出せるのは、今のところ、ここまでが限界。

 言葉を使わないで、イメージだけで思い出そうとすれば、その時の雰囲気や瞬間的な画像の大枠まで思い出せるかもしれない。

 でも、細かいところまで思い出そうとすると、イメージの輪郭がぼやけてきて、どこまでが実際にあった出来事なのかが曖昧になってくる。

 どこまでが事実で、どこまでが想像か、区別ができなくなってくる。

 結局、昨日感じた、朝や昼に感じた白色の痛み、葉桜と日光によって形作られた緑色の輝き、落ち始めた日の光に照らされた赤色の道、定食屋さんを出た時に見た黒色の空は、完璧には戻ってこない。

 記憶は、映像や画像のようにはいかない。いつまでも保存することができない。曖昧ではあるけれど、たしかに経験したという実感だけしか残らない。

 とりあえず、この実感を信じるしかないのかもしれない。


 でももし、感覚を疑ったら、どうなるんだろう?


 言い様のない気持ちが沸き起こった。あえて言葉にするなら、怪物。得体のしれない恐怖。

 ストップ。なんとなく、これ以上、このことを考えないほうが良い気がする。

 詰まるところ、自分一人が変わったように感じたところで、大きな変化が起きているわけではないということなんだろう。

 ちょっと考えれば当然のことだった。変に浮かれていたのかもしれない。

 落ち着いたし、なんか飲もう。コーラ! コーラ!

 席を立って、キッチンに行き、冷蔵庫からコーラを取り出して、グラスに注ぎ、コーラを元あった場所に戻して、冷蔵庫を閉め、グラスを持って、ダイニングに入って、元の席に座り直し、コーラを飲む。

 行動を逐一、言語化して行動してみたけど、なんというかロボットか機械になったみたいだ。

 ああ、駄目だ。さっき考えていたことから振り切れてない。何か別のこと考えないと。

 周りをグルグルと見回した。

 これといったものが思いつかない。どうでも良い時は変なことが気になってくるのに、こういう時に限って、何も浮かんでこない。

 変な波みたいなものがあるのか?


 仕方なく、目についたお父さんを眺めた。

 お父さんはいつ見ても、無表情で、ボーッとしているとしているように見える。何も考えてなさそうというか、いつも肩の力が抜けてそう。

 思いもよらないことを言うことが多いけど、意外に的を射ていることがあって、見た目に反して、頭の回転は速いのかもしれない。

 マイペースに見えるけど、緊張することはあるんだろうか?

 後、馴れ合いをあまり好まない人だと思う。言いたいことは、はっきりと言う人という印象。最初は協調性のないわがままな人だと思っていたけど、よく観察すると、協力が必要な時は助け合っているので、協調性のないわがままな人とは、少しばかり違うのかもしれない。

 回りくどい言い回しをしたり、説明の一部を省略したりすることがあるけど、素でやっているのか、わざとやっているのかは気になるところ。


 次にお母さんを見つめる。

 お母さんは、大体いつもにこにこしていて、割と喜怒哀楽が顔に出やすい人だと思う。しっかりしているように見えて抜けていることも多い人で、詰めが甘かったりするのは、猪突猛進なところが原因なのかもしれない。

 気がつくと、ちゃっかりと誘導してくれていることもあるので、何も考えていないように見えて、いろいろと考えていると思われる人。

 相談に乗ってくれた場合は、模範的な解答が多いものの、それとなくお母さん自身の意見も言ってくれるので、杓子定規なだけではない人だとは思う。

 表面的には、空気を乱すことをしない無害な人。

 だけど、裏で糸を引いているという印象が少しあって、怒らせると物理的にも心理的にも怖い人。本気で怒らせたら、家から追い出されそう。

 最近、妙に家族での行動を提案してくるのは、どんな意図があるんだろう? 気にかけてくれるのは嬉しい半面、昨日のように何度も言われるとしつこく感じてしまう。

 しつこいと感じることもあるけど、いつも気にかけてくれて、手を差し伸べてくれる人。苦手な人はいるんだろうか?


 昨日のお姉さんのことを思い浮かべた。

 昨日ちょっと話しただけの人だから、情報が極端に少ない。情報が不足している段階での推理は、憶測を生むから考察するべきじゃないみたいなことをシャーロック・ホームズか誰かが言っていた気がするけど、そこまで気にすることでもないだろう。

 あの人は、なんていうか、独特な人だった。うまくカテゴライズができないタイプの人だった。

 うーん、全然まとまらない。ここで打ち切りだろうか?

 もし、今日も隠れ桜に現れるのなら会ってみたい。こういう、身体全体と心がゾクゾクくるような高揚感は、好奇心からだろうか?

 グラスに入ったコーラの残りを、一気に飲んだ。


 それにしても、なんで、他人に目を向けるようになったんだろう? 

 他人を知ろうとするんだろう?

 気づいたら、分析するようになっていた。

 なんでこんなことを続けているんだろう?

 たぶん、最初は、どうすればクラスの人気者になれるのかとか、どうすれば怒られなくなるかとか、小さな、子供の考えそうな理由だったんだと思う。

 他人を深く知ろうとすればするほど、誰からも認められる人気者も、誰からも貶められない人もいないのではないかと悩むことに、おそらく当時は気づいていなかった。

 だから躊躇なく、人を見れたのだろう。

 あれはたしか、中学生の時だった。忘れ物を取りに行った時。

 教室に近づくにつれて、大きな声で話している声が聞こえてきた。

『成績良いみたいだけど、勉強ばっかり頑張って、何が楽しいんだろうね?』

『この間、皮肉言っただったんだけど、スルーされて返された。何、スルーしてんだよって思ったよ』

『あれってさ、もしかして天然?』

『そうなんじゃない? ああいうの、楽そうで良いよね?』

 こんな感じの会話だったはず。何人かのクラスメイト達の話の種にされていて、凍りついたまま、動けなかった。

 廊下にかかっていた赤みがかった夕陽が、いろんな意味で印象的だった。

 その時は結局、教室に入らないまま、家に帰る選択肢を選んだ。

 しばらくの間、言われてどう返せば良かったのかと悩んだ。皮肉で言われているのはわかっていたけど、はっきりと言えば、それはそれで怒るのだろうし、どう接すれば良かったんだろう? 

 今でもわからない。


 あの先生は、どうだったんだろう? 同じように悩んでいたんだろうか?

 名前はなんだったかな? 白髪まじりで頭頂部が禿げていていて、変わった先生だった。たしか、物理の先生だった。あだ名は湯川先生。

 説教臭くて、いろんな生徒にちょっかいをかけては煙たがられているのを、何度か見たことがあった。

『もう少し、気楽になったほうが良い』だったかな? そんなことを面と向かって言われたこともあった。

 勉強も良いけど、いろんなものに挑戦して、今を楽しんで、これだけは誰にも譲れないと思えるものを手に入れなさいと、常々言っている人だった。

 そう言いながら、定期テストで担当科目の点数があまりにも悪い生徒には特別補習を行っていて、その頃のクラスメイトの半数が、この特別補習の常連だった。

 補習対象者以外の人でも自由参加可能だったから、ちょっとした興味もあって、何度か参加したことがあった。授業で使っている問題集の指定問題を解いた後、先生に見せてOKが出れば、補習終了というシンプルなものだった。

 最初こそ、真面目に通う生徒もいたようだけど、頻繁に先生がいなくなる上に、自習開始時だけしか出欠席を取らない、問題の出来にかかわらず、一週間もすれば、特別補習自体が終了。

 特に何もしなくても終わることが判明してからは、真面目にやる生徒は皆無だった。

 部活のあると思われるクラスメイトは、出席確認の間だけ出て、すぐにいなくなっていくのを見かけたことがあったし、律儀に残っている生徒も、先生のいる間は黙々と問題を解いているふりをして、いなくなると、見張り役のいない自習時間のような騒がしい状態になっていた。

『点数悪いから言えた義理はないけど、なんの意味があるんだろう?』と笑いながら、話してくれたことを覚えている。

 普段から自分で勉強していたから本格的にお世話になることはなかったけど、

『わからないところがあれば、わかるようになるまで付き合ってくれる先生だけど、説明がものすごくわかりづらくて、わからないからと質問を繰り返すと、前回の説明の倍の時間をかけて説明されるから、質問したこっちが根負けしてしまう。だから、質問せずに問題集の答えを見たほうが早い』と生徒から言われてしまう先生だった。

 生徒からは禿頭だから湯川先生とあだ名で呼ばれ、他の先生からは苦笑いされていたあの先生は、他人からの評価をどう思っていたんだろう?


『相手の立場に立って考えなさい』とクラスメイトに叱っていた別の科目の先生がいた。

 その先生が、他の先生と禿頭の先生のことで不満を言い合って盛り上がっているのを見てしまった時、少なからず失望した。汚れていると思った。

 本人のいないところで不満を言うことが、『相手の立場に立って考えた』結果なのか。

 その時に、大人になるとはこういうことなのかと思った。

 先生という人間は、他人を教え導くようなことを言って、満足感に浸りたいだけなのではないか?

 人に何かを相談した時の最初の反応は、ほとんどの場合、最初は親切の情だと思う。相談を進めていくうちに、何パターンかに分かれてくる。

 望んだ方向に話が進んでいるうちは、にこにこしているのに、そこから逸れると、何でそんなことを言うんだと怒り出す人。

 話を変えたり、論点をずらそうとする人。

 君にはわからないだろうけど、というような言葉で説明を放棄して、勝手に話を終わったものとしようとする人。

 あなたのためと言いながら、自分の都合の良い方向に持っていこうとするばかり。

 たしか、数学の先生で、『質問がないけど、本当にわかっているのか?』とクラスの生徒全員に向かって言っていた先生がいた。

 質問をしても、『最後にはそういうものだから覚えなさい』という解答を何度も繰り返したために、聞いても仕方ないと生徒に陰口を言われていたことに、気づいていたんだろうか?


 身体がつらくなって、顔を隠せる姿勢になって机にうつぶせになった。

 相手の望んでいると思われる振る舞いをしたら、良い人で、問題を起こさない人。

 しかし、曖昧な返事を返していたら、八方美人で信用できない、一貫性がないと、比較的仲の良かった同級生から言われたことがある。

 曖昧な返事をただ返すだけでは、齟齬が生じたりして、話を聞いていないと思われてしまうこともある。

 それに気づいてからは、普通に話す以上に、発言と発言者に注目するようになった。

 二人で話すならまだしも、三人以上になると、自分の能力では、話しながら周囲の細かいところまで観察するのは限界があった。

 その頃から、ぼろがでないように自然と発言を控えるようになっていった。そのおかげか、話の流れがよくわかるようになる。


 人と人との会話は、シーソーゲームのようだ。

 シーソーの低い立場という主導権を奪い合う。持ち上げられた側は、下にいるほうの許可がなければ、落ちる以外に終わらせる方法がない。一度主導権を握られたら、犠牲を承知で変化を起こすか、外からの変化がない限り、状況は変わらない。

 話の主導権を握っていると思って、少し気を抜いたら、主導権が相手に移っている。

 相手の機嫌を損ねないように注意しながら、話の区切り点を探して、挿し入れる。話を終わらせながら、それとなく自分の話に誘導していく。

 まるで、ドッジボールだと思った。勝ち負けを争っているようだ。


 二人で話している時の自分はどうなんだろうと、他人と話している時のことを振り返ってみたことがあったけど、最初の親切心はどこへやら。

 思うような方向に行かないと、少しずつ苛立ってくる。苛立ってくると、自然と語気が強まっていたり、投げやりになっている。親切心が、自己満足に変わっていってしまっていることがわかる。

 自分だけ突然、異世界からこの世界に来たわけじゃない。

 他のみんなと同じように学校に行って、同じように勉強しているのだから、同じようになるのは、ある意味当たり前なのかもしれない。

 朱に交われば赤くなる。孤立しないように交わっていけば、個は失われていく。


 このまま、ただ馴れ合っているだけでは、駄目だと思ったこともあったけれど、はっきりと言ったら、なんでそんなことを言うのかと食ってかかられたことがあった。

 冷たい、おかしいと言われたりしたこともあった。

 結局、人は、自分が一番かわいい。

 自分の見たいものだけを見ていたいだけなのかもしれない。

 会話って、なんのためにしているんだろう?

 人と話すとき、相手の望んでいると思われるように振る舞うか、正直に振る舞おうか、板挟みになる。

 鏡のように振る舞えば、嘘をついていることになるのではないかという罪悪感。

 正直に言えば、相手を傷つけているのではないかという不安感。

 どっちの選択をしても、結局、痛みを味わうことになる。

『相手の立場に立って考えなさい』

 成長すればするほど、それを実践している人より、していない人のほうが、幸せに暮らしているように思えてならない。

 他人と一緒にいるのは、疲れる。

 でも、一人でいると、ふいに真っ白になって、落ちていきそうになる。

 人といるのが煩わしくなったり、寂しいと思ったりと、はっきりしない。

 昔は、お母さんやお父さんにみたいに、ある程度見知った仲だったら、楽しく話せていたのに。

 それも段々、辛くなってきた。

 他人を知ろうとしなければ、今みたいに苦しむこともなかった。知ってしまったものは戻せない。いっそのこと、他人を見ることをやめて、一人の世界に閉じこもっていれば楽になれそうなのに。

 そうなってしまえば良いと思った時に限って、誰かの優しさを垣間見てしまう。

 人は汚いものと割り切ることもできず、しかし、殻に閉じこもることもできない。かといって、信じきることもできない。

 気づいたら、こんなことを何年も続けている。答えが出ないまま、人を信じ抜きたいという甘さと、本気で死のうとまでにはならない程度の痛さを、適度に感じながら、日々を生きている。

 いつかはどこかに落ち着くんだろうか?


 顔を上げると、けっこう時間が経っていた。

 少し早いけど、隠れ桜に行こう。

 あまり、今の顔をお母さん達に見られたくない。きっと、変な顔をしている。

「お母さん、そろそろ行こうと思うんだけど」

 顔を見られないように、俯きながら言った。

「もう出かけるんですか?」

 お母さんが、こっちを向いた。

「うん、ちょっと早いけど」

 盗み見るようにお母さんの動きを見る。

「キッチンに、おにぎりの入った袋と水筒を置いておきました。海苔はおにぎりと一緒に袋に入れてありますよ」

 こういう時、お母さんの陽だまりのような振る舞いに助けられる。今だけは、頑張りたい。

「ありがとう。そういえば、おにぎりの中は何が入ってるの?」

「内緒です。食べてからのお楽しみ、ということで」

「えー」

「嫌いなものは入れてないはずですから、大丈夫ですよ」

「まあ、いいか。行ってきます」

「いってらっしゃい」言いながら、お母さんがこっちに軽く手を振っているのを尻目に、キッチンに向かった。

 おにぎり一式を受け取ると、階段に向かう。

 途中で、本を読んでいるお母さんを横目に見た。

 いつもと変わらない。

 そのことが、今だけはありがたい。

 階段を上がって部屋に戻った。ペンケースと課題を机に置くと、いつも使っているリュックサックにおにぎりの入った袋と水筒を入れる。

 部屋を出ると、玄関まで急ぎ足で歩いていく。

 靴を履いて、ドアを開けた。

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