3

 隠れ桜が見渡せるところまで来て、一度立ち止まった。

 綺麗な新緑に染まった桜の下には、誰もいない。シートも引かれていない。

 約束したわけでもないし、こうなるのは当然か。

 正直、がっかりした。がっかりした自分にちょっと驚いた。あの人に興味を持っているのは自覚していたけれど、会えなくてがっかりするほどとは思わなかった。

 一人でここにいても、意味がない。帰ろうかな?

 でも、せっかくここまで来たのだから、ここでご飯を食べていかないと損な気もする。

 桜の木の下まで、歩いた。


 シートなんて持ってきてないから、地べたに座ることになるけど仕方ないか。

 木の幹を背もたれ代わりにして地べたに座った。

 背負っていたリュックを開けて、お母さんに作ってもらったおにぎりの入った袋と、海苔の入っているプラスチック容器を取り出した。

 おにぎり入りの袋と海苔入り容器を地面に置くと、リュックからお茶の入った水筒を取り出して、水筒についているコップにお茶を入れると、一口飲んだ。

 お茶が喉を通って、身体の中に染み渡った。

 お茶の入ったコップを慎重に地面に置くと、容器の蓋を開けて、長方形に切り分けられた海苔をすぐに取り出せるようにしておく。

 袋から、おにぎりを取り出した。おにぎりは四つ。

 おにぎりを包んでいるラップを半分程度外して左手に持った後、海苔を右手に取って、おにぎりに巻いた。

「いただきます」おにぎりを両手に持って、軽くお辞儀をする。

 おにぎりを大きく一口食べる。おにぎりを見ると、赤色の食べ物が埋まっていた。お米の甘みと一緒に、酸っぱさが口の中に広がっているように思われた。

「梅か」たしかに嫌いじゃないけど、梅の酸っぱさは少し苦手。結構高い梅干しや梅のふりかけ、梅味のポテトチップスは好き。ふりかけやポテトチップスの梅味なら大丈夫なのは、なんでだろう?

 なんやかんや言って、ここに一人でいるのは初めてなのかもしれない。いつも誰かと一緒に来ていたし、昨日は、あのお姉さんがいた。

 なんだか、寂しい。

 見上げると、枝が風に揺れている。この桜も一人。おそらく、近くに仲間はいない。

 桜の幹に触れる。

 思った以上にゴツゴツしている。手のひらに違和感がある。

「こんなところに一人でいて、寂しくない?」

 穏やかな情感と一抹の寂しさのような気持ちが身体の中を駆け抜けた、ような気がした。

 慌てて手を離すと、感覚は引いていった。

 熱を出した時みたいにふわふわしている。手のひらの表面が、ピリピリとしていて、変な感じだ。

 あのまま触り続けていたら、どうなっていたんだろう?

 胸に手を当てると、どくどくといつもよりも脈打っている。

 怖いけど、それもおもしろいかもしれない。

 よし、もう一度。

 桜の幹に再度、触れた。

 あれ? 何も起こらない。

 何度触れても、変わらない。

 なんだったんだろう?

 梅おにぎりの残りを口に押し入れてよく噛んだ後、コップのお茶を飲み干して、地面に置いた。

 お茶が効いたのかもしれない。ふわふわした感じが抜けてきて、すっきりと鮮明になってきた気がする。

 さっきまで何をしてたんだろう?

 なんであんなにペタペタ触っていたんだろう?

 なんであんな風になったんだろう?

 恥ずかしい。

 気のせいで片付けるには、若干腑に落ちないところがたくさんあるけど、再現できない以上、仕方ない。


 二個目のおにぎりに手を付けた。海苔を巻いて一口食べる。

 おにぎりを見ると、茶色のころころしたものが出ていた。

 肉そぼろかな。冷蔵庫に入っていた気がする。そぼろってお弁当に入っていると彩り豊かで綺麗だと思うけど、黄・茶・緑の三色ばかり見る。なんでなんだろう? 

 赤はないんだろうか?

 牛丼に乗っている鮮やかな赤色の紅しょうがを連想した。あれの存在は、牛丼の見た目にも、味にも、良いアクセントになっていて、あるとないとでは三倍くらい違うと思うんだけど。

 コップにお茶を入れて、飲んだ。

 静かだ。車の音や人の声がないから、風の音がよく聞こえる。別の世界に来たみたいで、お日様の暖かい光も相まって、心地の良い空間ができあがっていた。

 やっぱり、シートを持ってくるべきだったか。あれば、寝転がれたのに。

 地べたに寝転がろうかな?

 土色の地面を見つめる。いろんな大きさの粒が、風に吹かれて転がっていく。大きなもの、小さいもの。ところどころ、小さな草も生えている。

 なんて、名前なんだろう?

 今、どこにいるんだろう?

 全身が汚れそうだからやめよう。

 これだと、一人ピクニックだ。


 さて、三個目はなんだろう。

 おにぎり袋から、おにぎりを取り出すと、ラップを解いて海苔を貼り付ける。

 ふと、香りで中身を当てられないかと思いついて、試しにおにぎりに鼻を近づけると、お米の香りがした。

 やっぱり、判別は難しいか。

 おにぎりを食べる。中身を見た。

 テカテカと光っている茶色い棒状のものが入っていた。

 ん、これ、ウィンナーか。

 肉肉しい味が、口の中に広がった?

 ウィンナー入りおにぎりを食べるのは初めてかもしれない。

 そのまま食べ進める。

 ウィンナーは赤色と茶色と白色を見たことがあるけど、なんで色が違うんだろう?

 ウィンナーおにぎりを食べ終えたあたりで、おにぎりを食べる手が止まった。

 片手でお腹を軽くさすった。

 四つは多かったかな? 歩くから、もっとお腹空くと思っていたのに。

 風が頬を撫でたかもしれない。

 あの青い空みたいに、裏表なく笑えたらどんなに良いだろう?

 眼前に広がる青空の景色に、手のひらを重ねた。どれだけ伸ばしても届かない。

 方法がわからない。

 どうすれば、そこに行けるんだろう?

 どんどん寂しくなってきた。

 なんでここにいようと思ったんだっけ?

 一人でいたくない。

 もう少し休憩したら、帰ろう。

 他人とずれを感じて、わかった。

 本当に一人になって、初めてわかった。静けさに少しずつ蝕まれていくようで、耐えられない。

 腕を膝を抱え込んで、顔を埋めた。

 こうやってうずくまって、外を見ないでいれば、嫌なものを見ないでいられる。

 その代わり、何もない、騙し騙しの自分を見つめないといけなくなる。

 いなくなりたいのに、いっぽ、ふみだせない。

 どうすれば良いのかわからない。誰にも頼れない。


「あれー、昨日の?」

 顔を上げると、誰かがこっちに向かってきていた。

 トランクを片手に持って、走ってきていた。

「すごい偶然。こんにちは」

 あっけらかんとした調子で挨拶された。

 胸のあたりの奥底から何かが湧き上がってきて、目に熱いものが溜まっていくのがわかる。

 こんなタイミングで会うなんて。

 ぐっと、胸のあたりに力を入れる。

「こんにちは、偶然ですね」できる限りの笑顔を絞り出す。

「何か、あった?」お姉さんの声のトーンが少し低くなった。

 落ち着いて。

「いえ、なんにもないですよ?」

 今度は自然に返せたはず。

「そう。今日はなんでここにいるの?」

「一人ピクニックです」自分で言って、すごく滑稽だと思った。

「へえ」お姉さんの声色が底抜けに明るいものに変わった。

「一人でこの場所と桜を占拠かー。なんて贅沢」

 おどけたような振る舞い。

「私もご一緒してよろしいですか、ご主人様?」

 気を使ってくれているのがわかる。

「あっ、はい。一人で退屈してたところです」

「もしかして、シート忘れたの?」

「あはは、実は持ってくるの忘れちゃって」

 お姉さんのおどけた感じの振る舞いを真似してみたけど、こんな感じだろうか?

「よし、お姉さんが出してしんぜよう」

「ははー、ありがたき幸せ」

 ちょっとぎこちなかったかな?

「ちょっと待ってて」

 お姉さんがトランクからシートを出すと、蛇腹折りになっていたシートが広がっていく。

「ごめん、もう片方、持ってもらっても良い?」

「あ、はい」

 しまった。ボーッとしてた。

 急いで、シートの片方を持って、一緒に桜の木の下にシートを敷いた。その後、お姉さんがシートの上に座布団を敷いてくれた。

「お好きな席をどうぞ」

「ありがとうございます」

 桜の幹に背を向けるようにして座布団に座った。

 言われるまで手伝わなかったことは、そんなに気にしていないみたいだ。

 お姉さんは、お互いが向かい合う形になる位置に座った。

「ありがとう。ああいうの、私の周りだとスルーされちゃうから」

 声に元気がないように感じた。

「えっ、そうなんですか!?」

 ああ言う場面は手伝うのが当たり前じゃないの?

「うん、みんなに無視される」

 どんどん声に元気がなくなっていってるし、無理に微笑んでいるように見えた。

 無視されるのは、はっきり嫌いと言われるよりつらい。言ってくれれば直せるかもしれないのに、無視されたら、何がいけなかったのかもわからない。

「そういうの、つらいですよね」

 気楽な人に見えていたけれど、意外と苦労しているのかもしれない。

「友達に同じようなことをされたこと、あります」

 口をついて出ていた。

「あー、あなたも?」

 心から同情してくれているような声で返されて、自分の中でお姉さんとの距離が少し縮んだように思う。少し、親近感を持った。

「はい、何がいけなかったのか……」

 中学生の頃、仲の良いと思っていた友達が、突然、無視するようになった。

「おもしろくないと思うのは勝手だけど、無視することないよね」

「そうなんです。どこが駄目なのかはっきりと言ってくれれば、まだ改善できるかもしれないのに」

 何度かさりげなく聞いても、『別に』、としか答えてくれない友達。

「そうそう。私も、教えてって真正面からしつこく聞いたんだけど、結局、なんかおもしろくないの一点張りで押し通されちゃった」

 お姉さんはあっさりした口調で言っていた。

「自分から問い詰めたんですか!?」

 そんなこと、周りの人間関係まで壊れるんじゃないかって考えたら、できなかった。それに、下手に刺激したら報復されるんじゃないかと思ったら、何も言えなかった。

「うん? まあ、私、人間関係はできるだけグレーでいたくないから」

「でも、人間関係が壊れるかもしれないって、怖くはならなかったんですか?」

「うーん、怖くなる時はあるけど、お互いのためにならないまま続けるよりは良いかなって」

 飾り気の感じない、自然で落ち着いた話し方に、惹きつけられていく。

「腹の探り合いなんて疲れるだけ。やってるうちに、相手のことを本気で嫌いになっていく自分がいるのに気づいてからは、はっきり言おうって、心がけるようになった」

「強いんですね……」

 同じ状況になっても真似できない。そこまでの勇気が持てない。

「全然。気を使うのは大事だけど、本当に仲良くいたいと思った人とは、ちゃんと本音を言い合える関係のほうが良いなって思ってるだけ」

 面と向かって、自分の意思をちゃんと伝えられるのは、それだけですごいと思う。

「いえ、やっぱりすごいです」

「そう? よくわからないけど、ありがとう」

 子供みたいに喜んでいる。本当に不思議な人だ。

「実際のところ、ああいう、コントみたいなノリって古いのかな? アルバイトの子もスルーするし。もしかして、最近の若い子はあまりやらない?」

 コント? あ、もしかして、何か、間違えた?

「ふふっ」思わず笑いだしていた。

「あっ、笑った」お姉さんも笑っていた。「でも、そんなにおかしいこと聞いたかな?」

「あ、違うんです、すみません」

「気にしないで、大丈夫」

 笑いながら、無理してないよという感じのジェスチャーをしていた。

「そうじゃなくて、勘違いしてました」

 ほんの少しの間があった。

「どういうこと?」お姉さんは、首を傾げていた。

 たしかに、そんな顔になるよね。

「まず、確認なんですけど、さっきの話は、コントをやってもみんな乗ってくれないという話で合ってますか?」

「うん。そうだけど、それ以外にある?」

 あー、やっぱり。

「自分で言うのも恥ずかしいんですけど、てっきり、シートを敷く時に誰も手伝ってくれないという話なのかと」

「え? あ! あー、そういうこと!」

 お姉さんの声と表情が目まぐるしい勢いで変わっていった。

「わかりました?」

「うん、わかった。それで、勘違い、なわけね。変なことになったね」

「本当、おかしいですね」

 こんなことがいきなり起こったら、誰だって笑いそう。

「良かった、笑ってくれた」

 え?

「昨日初めてあった時も、さっきも、つらそうだったから」

 ついさっきまで、大笑いしてたのに、今は、もの静かな優しい人のように見える。

 いきなり雰囲気が変わるから、どういう風に会話が進んでいくか、予想ができない。

「笑ってました?」

「うん、大笑い」

 たしかに胸が少しスッキリしてる。これじゃあ、お姉さんのことは言えないか。

「はしたないですね。もう大人なのに」

「そう? 無理することないと思うよ? それに、大人ではないでしょう? 私より若いし」

 うーん、自立できていないのは事実。

「たしかに大人とはいえないですけど」

 そりゃあ、一人で自活できてそうなお姉さんと比べたら親に頼ってばかりだし、大人とは言えないかもしれない。

 お母さん、お父さん、ありがとうございます。

 あっ。そういえば、名前。

「名前、なんて言うんですか?」

 昨日は聞きそびれた。

「名前? 名前かー」

 そんな、あからさまに困ったようになられるとは、思わなかった。

「ヨシノサクラ」

「えっと、なんて書くんですか?」

「ん? 大吉のきちでヨシ、のーは、うーん、及ぶの真ん中がない形の漢字でノ、サクラはそこにある木と同じ。難しくないほうの桜」

 うーん? 及ぶの真ん中がない形の漢字って何?

「すみません、ノが、よくわからないです」

「うんん、気にしないで。こういうの慣れてるから」

 言い慣れている感じがあったから、しょっちゅう聞かれているのかもしれない。

「そういえば、ご飯食べました?」

「うん。食べてきた。だけど、ここまで歩いたらお腹空いた」

「そうなんですか? よかったら、おにぎり食べますか?」

「えっ、あるの? 食べる」

 こう大げさに嬉しそうに反応されると、こっちも浮き浮きしてくる。

「はい。お茶ありますから、良かったらどうぞ」

「ありがとう、ちょっと待って。カップを出すから」

 お姉さんが取り出したティーカップに、お茶を注いであげた。

「紅茶のカップにお茶を入れるなんて新鮮」

 最後のおにぎりに海苔を巻いて、「おにぎり、どうぞ」手渡した。

「いただきます」お姉さんは、おにぎりとティーカップを持ったまま手と手を合わせた後、一口食べた。

 こちらからは、おにぎりの中身が見えない。

「中身、何が入ってました?」

「中身?」

 お姉さんが、おにぎりをこっちに向けてくれた。

 あれ、何も入ってない。入れ忘れ?、はないか。

「塩味ですか?」

「正解。自分で作ったの?」

 そう言ったお姉さんは心なしか、優しげに見えた。

「あ、違います。お母さんに作ってもらいました」

「お母さんが? へー、良いお母さんじゃない」

「はい、優しいお母さんです」

「なら、いただくべきじゃなかったかも」

「なんでですか?」

「これ、あなたのためだけのために作られたものだと思う」お姉さんは、おにぎりの残った分を見ていた。

「食べかけだけど、良かったら食べる?」

 流石に食べかけをもらうのは、ちょっと。

「大丈夫です。さっき三個も食べたので」

「そう? じゃあ残りもいただいて良いの?」

「どうぞ。それが最後の一個なので」

「ありがとう」

 もう一度食べ始めたお姉さんは、遠慮がちにおにぎりを食べているように見えた。

「ごちそうさまでした」

 お姉さんはカップを持ちながら、器用に手を合わせていた。

「さっき、つらそうに見えました?」

「会った時のこと? うん、首を吊ろうかやめようかって悩んでいる人みたいだった」

 仕草からは、ふざけているのか真剣なのか、いまいちわからない。

「それ、本当に見たことあるんですか?」

「見たことあるよ。テレビでだけど」

 この言い方、絶対ふざけている。

 さっきはちょっと親近感が湧いた気がしたけど、それは間違いだったかもしれない。

「それは冗談だけど、なんかすごく無理してるなって感じたのは本当」

 図星を指された。そんなにわかりやすいだろうか?

「昨日はどんより曇り空で、さっきはザーザー降りの雨空みたいな雰囲気だったから余計に気になった」

 よくわからないたとえ。

「はあ、気にかけてくれて、ありがとうございます」

「そんなことでお礼を言われても困るかな。私には、まだ曇り空のように見えるし」

 お姉さんの視線が痛い。

「はー、まあ、いいか。私が過度に干渉するのも間違ってるし」

 ため息までつかれるとは思わなかった。

「なんで、そんなにこだわるんですか?」

「あなたが、困っているように見えるから。困っている人を助けたい。それ以上に理由がいる?」

 照れているのが丸わかりだから、そんな風に言われても、かっこよくない。

「……かっこいいこと、言いますね……」

「コケそうになった時に手を差し出してくれて、嬉しかった。その時にあなたが気に入った。気に入った人が困ってそうなら、できる限り助けになりたい。これ以上はないからね」

 照れているのが丸わかりなので、大きい声で言われても、怖くない。

 また、心の奥底から、悲しいような嬉しいような気持ちが湧き上がってくるし、目にあたたかいものも溜まってきた。

 ああ、もう、恥ずかしい。

 あんな言い方反則だと思う。

「じゃあ、相談に乗ってもらっても良いですか?」

「うん!」

 すごく元気に返事するところが、やっぱり子供っぽい。

「でも、その前に、お茶を飲んで一服しましょう。落ち着いたほうが良いし。紅茶? コーヒー?」

「あ、大丈夫です。そんなに喉乾いてないので」

「そう? 一杯飲んだほうが落ち着けるよ?」

「うーん、そうですか? じゃあ、紅茶でお願いします」

 紅茶を飲む流れになってしまった。そんなに飲みたいわけじゃないんだけど。

 ティーセットも用意してくれてるし、いまさら断れないな。

「紅茶をどうぞ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、いただきます」

 あれ、けっこう。

「おいしい」

「うん、スーパーで売ってるのも悪くない」

「これ、スーパーのなんですか?」

「スーパーで売ってたティーバッグで淹れた紅茶。安かったんだけど、意外と悪くないと思わない?」

 へー。昔は苦いだけだと思ってたけど、これはこれで。

「良い香りでおいしいです。これ、なんていう紅茶なんですか?」

「アールグレイ」

「あ、名前は聞いたことあります」

「やっぱり? たぶん一番有名なフレーバーティーだから、どこかで飲んでるかもね」

 フレーバーティー?

「安いのでもけっこうおいしいんですね」

「うん、値段だけではわからないから。ちょっと香りが大味すぎるかなって思うけど」

 なんだか、通っぽい。

「そうなんですか?」

「私はそう思っただけ。こういうのは好みだから」

 ふーん、「そういうものですか」

「そういうものだと思う」

 今みたいな、紅茶を飲んだ後の憂いのあるような表情だけを見ると、かっこいい大人なんだけどな。

 会話が止まった。

「落ち着いた?」

「あ、はい。でも、相談する雰囲気じゃないですね」

 なんか気が抜けた。

「昨日みたいに世間話をする感じで」

 そういう風に言われると、逆に緊張してしまう。


「えっと、ヨシノさんは、未来について悩んだこと、ありますか?」

「未来? 未来か。いつだって、悩み続けてるよ。明日は何が起こるだろう、とか」

 悩んでいる割に、心底楽しそう。

「なんか楽しそうですね?」

「そう? なら、毎日が幸せなのかもね?」

「話を戻しても良いですか? 今後の長い人生という意味での未来です」

「へー、若いのに、もうそんなこと考えてるの? 真面目」

「はあ。そうですか?」

 ちゃんと、聞いてもらえている気がしない。

「私、若い頃は突っ走ってたからなー。そんなにガチガチだと疲れない?」

「はあ」

「若いんだから、いろんなことに挑戦すれば良いと思うんだけど」

「はい…、そうですね」

 結局、こういう展開か。

 なんだか、口に入れた紅茶が苦い。

「あっ、じゃあ、ありがとうございました」

 お姉さんに、穴があくのではないかと見つめられた後、ため息をつかれた。

 真面目そうな顔で見つめられると怖いし、お姉さんにため息をつかれても困る。

 正直、こっちがため息をつきたい。

「ごめん、ちょっと確認した」

「なにをですか?」

「答えがほしい人と、慰めてほしい人がいるから、その確認」

「対応を変えるためですか?」

「そう。人によって、最適な方法は違うと思うから。怒ってもらっても良いよ。こういうの、良いことではないとは思ってるから」

「いえ、そんな…」

 それくらいで怒る気にはならない。

「では、改めて相談に乗らせてもらって良い?」

「はい、お願いします」

「その前に紅茶を一杯。アールグレイは落ち着く作用があるから、ちゃんとしたお話をする時に良いよ。何かをする前に落ち着くことをするのは、おすすめ」

 たしかに、この香りを嗅いでいるだけで、落ち着く気がする。飲むと、身体に温かさが染み渡るようで、もっと落ち着く。

「さて、本題に戻りましょう。未来だったよね?」

 緊張してきた。

「はい」

「社会人になってから数年経った後だったかな。未来ってなんだろうと思ったことはあるよ」

「その頃は、何をしていたんですか?」

「その頃の私は、社会人生活に慣れを感じ始めていて、後輩を持つ先輩正社員として、とにかくお金を稼ぐために働いてた」

 快活そうだから、キャリアウーマンとしてバリバリ働いているところがなんとなくだけど想像できた。

「ちゃんと就職できるなんてすごいですね」

「考えて走ってたら、すごかったんだけどね。考えるということをほとんどしなかったから、できただけ。今思うとゾッとする」

 その幽霊がするようなポーズは、わざわざポーズを取るほどゾッとしているという意味?

「そうですか? 止まっているよりましだと思いますけど」

「もしかして、止まっちゃった?」

 軽い調子で言われたからか、言われた瞬間はそんなに響かなかった。でも、時間が立つにつれて効いてきている。

「たぶん、そうなんだと思います。自分がわからないってこと、ありますか?」

「自分はなんでこんなことやってるんだろうと思うことは、ある」

「怖くないですか?」

「それって、自分が何をしたいのかわからない、という状況が怖くないかってこと?」

「はい、そうだと思います」

 何をしたいどころか、自分というものが、よくわからない。

「怖い。でも、楽しい」

「どっちなんですか?」

「どっちも」

「それって、両立するんですか?」

「自分の心がよくわからないのは怖いけど、なんでこう思ってるんだろうって探っていくのは楽しい」

 それの何が楽しいのか、よくわからない。

「ポジティブなんですね」

「そうかな?」

「はい。どうやってもネガティブに考えてしまうので、言っていることが理解できないです」

「ネガティブ思考かどうかは関係ないと思うけど。わからないものはわからない。最初は、なんだってそうじゃない? 知らないということを認めること。まずはそこから。とりあえずは、それだけじゃない?」

「うちのお父さんと同じようなこと言いますね」

「そうなんだ」

「今、喫茶店で働いているのは、夢ですか?」

 しばしの沈黙。

 考え込んでる? 聞くべきじゃなかったかな?

「うーん、そうと言えばそう。違うと言えば違う。しいて言えば、楽しいから」

 どっちなんだろう? はぐらかされているように思う。

「自分の人生、これで良かったのかなって思ったことはありますか?」

 また、沈黙。

「あるにはある」

「今、幸せですか?」

「さあ、どうなんだろう? たぶん幸せ」

「自分の人生、これで良かったのかなって、何年か前から思うんです。他人と競争するのって、好きですか?」

「競争自体は嫌いじゃないよ。行き過ぎて、潰し合いみたいになっちゃうのは好きじゃないけど」

「競争、嫌いなんです。昔は、他人より優れているように感じられて、自信に繋がるから好きでしたけど」

 自分が好きなことで、目一杯遊ぶのは良い。そこに何かが、賭けられているのが嫌だ。

「なんで?」

「負けたほうが、何かを失うのが嫌なんです。自分が失うのはまだ良いんですけど。他人を傷つけていたり、邪魔してしまっているんじゃないかって」

「他人を傷つけている、か」

 優劣がついて、それが、後々まで影響するかもしれないのは嫌だ。競争は、後腐れなくありたい。

「高校生の頃の話なんですけど、進路の選択に迷ったんです。両親も先生も、したいことをすると良いって言ってくれたですけど、自分のやりたいことがわかりませんでした。だから、進路も明確に決まらなくて、先生に勧められて、行ける可能性のあるところをピックアップしてもらいました」

「すごく良い先生だね」

 頷いた。いろいろと嫌なことも言われたけど、ぎりぎりまで相談に乗ってくれて、資料も探してくれた。そう考えたら、良い先生だったのかもしれない。

「先生にピックアップしてもらったものの中に、仲の良い友達が絶対に行きたいと言って、猛勉強している大学も入っていました。

 一緒に行けたら楽しいかもしれないという、軽い気持ちでそこを志望しました。友達には、内緒にしました」

 今考えると、明確な理由があって頑張っている姿が眩しすぎて、後ろめたかったのかもしれない。

「入試の結果は、友達だけ落ちるという、考えうる限りでは最悪の結果でした。しかも運悪く、友達に合格したことがバレてしまって…」

 自分の不手際とはいえ、この時ばかりは運命の悪戯だと思った。

「友達は、我がことのように喜んでくれました。今さら、軽い気持ちで受けたからとも言えなくて、そこに通ってます」

「友達はその後、どうしたの?」

「一年浪人して入ってきました」

「へー、じゃあ、よかったじゃない」

「はい。すごく頑張っています。それだけに、温度差を感じてしまうんです」

「温度差?」

「ふと…、思うんです。もし、友達と同じ大学を受験しなかったら、どうなっていたんだろうって」

 自分が受けなければ、今と少しだけ変わって、浪人することなく、一年間をもっと有意義なことに使えたんじゃないだろうか?

 少なくとも、惰性で単位を取っているような無駄な人間よりも、もっと意味のあることに。

「うーん、そういう話ではないのはわかってはいるけど、言わせてもらって良い?」

「どうぞ」

「あなた一人が受けなかったからといって、大きく変わるものでもないと思わない? なんであれ、合格したのは、あなたの実力でしょう?」

「はい。死にものぐるいで勉強しました。だから、そこで事切れたんだと思います」

 たぶん、受験するところが決まった時点で、糸は切れていた。

 後は、ガラガラと崩れ落ちながら、受験勉強を頑張って、大学に入ってすぐに、止まった。

「好きこそものの上手なれと言いませんか?

 友達は好きなことには、ものすごい集中力と飲み込みの良さがあって、努力を怠らない。好きなことについて、本当に楽しそうに話してくれます」

 こっちがついていけない勢いで話してきて、辟易することもある。

「それとは対照的に、なにもおもしろいと感じない自分がいる。大学生活も、ただのルーチンワークになってしまっている。いかに楽をして単位を取ろうかと考えてしまう」

 でも、それだけ語れるものがあるということが、本当に羨ましい。

 意味のあることのために、お金と時間を使って大学に行っているのだと言うことが、よくわかる。

「両親には、大学に通いたい本当の理由は、とてもじゃないけど言えなくて、学びたいことがあるとごまかして、大学に行きました。

 友達にも両親にも、本当のことは言えてないです」

 言えないまま、ここまできた。

「それで聞きたいんですけど、就職活動は、大変でしたか?」

「大変だった。特に面接が」

「少しずつ就職活動の時期が近づいてきて、今度はどうしようかと悩んでいるんです。

 また、友達の時のように、本当にそこに入りたい人を蹴落としてしまうんじゃないかと」

 今度は入試のように、来年受ければ良いという話ではないと思う。

「うーん、でも、面接官の人も一筋縄ではいかないと思うよ」

「本当にそう思ってます?」

 沈黙が続く。風が隙間を抜けていく。

 紅茶を一杯、口に含む。

 お姉さんは、この長い沈黙の後になんて答えるだろう?

「ごめん、嘘ついた。たかだか数時間程度で人間をはかれるとは、私には思えない」

「人を見るのは、そんなに簡単なことじゃないと思うんです。もし、本当に短時間で人を見抜ける人がいるのなら、その人は面接官をしていないと思います」

 気持ちという目に見えないものよりも目の前にあるものを重視する。合理的だと思う。

 テストだけじゃ思いは伝わらないし、思いだけで結果が伴うほど甘くない。でも、思いの強さが揺るぎない道を作るんだと思う。

 本当にそれが好きな人は、どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、諦めることなく、進み続けられるのだと思う。答えにたどり着いてしまうのだと思う。

 それは、中途半端な気持ちではできないことだと思う。

「騙した者勝ちみたいなことを言っている声も聞こえるんですけど、そんな風に割り切れないんです。昔ならできたかもしれませんけど」

 騙し続けるのは、つらい。

「誰だって、口先だけの人より、本当にそこで仕事をしたい人に来てもらったほうが良いと思うんです。もしも自分が面接官なら、滑り止めみたいな感覚で受けられるのは、あまり良い気分ではないです」

 勝手な言い分だとは思う。

『社会は、みんなで繋いだ大きな丸い輪なんだよ』

 きっと、夢から出られないままなんだろう。

「誰のためにもならない嘘はつきたくない。でも、正社員として就職しないと、生きていけない。

 どっちを選んでも、明るい未来が見えない。大げさに考えすぎだとは、自分でもわかってるんです」

 わかっているけど、どちらかに決められない。

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