2章 果ての桜

1

 目が開いた。

 カーテン越しに光が入ってきているおかげで、部屋の中のものがよく見える。

 もう、朝か。


 いつもの調子で、枕元にある時計を手に取るのに成功すると、時間を確認した。

 昨日と同じくらいの時間だった。昨日と違って、頭がすっきりとしている。

 昨夜は、足がだるくて重かったけど、今日は身体が軽い。後、心も軽い。疲れが残ってないというのは、こんな感じなんだろうか?

 筋肉痛もない。歳を取ると二、三日後にやってくると聞いたことがあるけど、大丈夫かな?


「とりあえず起きよう」

 ベッドから出ると、窓まで行ってカーテンを緩やかに開けた。

 身体が柔らかな日光に包まれた後、窓越しに空を確認する。

 水色がかった空を背景に、白く輝く太陽と、ゆっくりと揺蕩っているように見える雲が見えた。

 昨日と、あまり変わらない気がする。何かが変わったような気がするんだけど、わからない。

 窓についているロックを下向きに倒して、窓を横に動かしていく。風が入ってくる。

 うーん、冬ほどじゃないけど、冷える。昨日は、暖かかったのに。

 桜が散って少し経ったことで、夏が近づいてきたように思っていたけれど、今年はまだまだ遠そうだ。

「今日も晴れ…」

 あの人、なんていうか、怪しくて言っていることがのらりくらりとしていて、ホラ吹きみたいだったけど、ふざけているようには見えなかった。

 話していて嫌な感じがしなかったから、悪い人ではないと信じたい。

 今日も隠れ桜に行けば、会えるんだろうか?

 動かした窓を元に戻していく。風は少しずつ収まっていき、最後には止まった。

 金具も元の位置に戻すと、はまったことを目で確認した。

 とりあえず、朝ご飯を食べてから考えよう。

 ドアまで歩いていくと、ドアノブを動かして、後ろに引いていく。開いた隙間を通って、部屋を出た。

 ドアが閉まったのを見た後、階段の段差を、一段一段確認しながら下りていき、ダイニングに入っていった。


 お父さんがトーストを口にしながらテレビのほうを見ていた。

「おはよう」お父さんに挨拶した。

「おはよう」

 見た感じ、昨日と変わったところがない。

 とりあえず、何か飲もう。喉、乾いた。

 キッチンに入ると、お母さんがフライパンを持っていた。

「おはよう」

「おはようございます。今から、目玉焼きトーストを作りますけど、食べますか?」

「あ、うん、ありがとう。食べる」

「わかりました。少し待っていてくださいね」

 野菜ジュースのパックを冷蔵庫から取り出して、コップに注いだ後、パックを元あったところに戻して冷蔵庫を閉めた。

 とりあえず、ダイニングに戻ろう。ジュースの入ったコップを持った。

 戻る時に、ジュー、という油が弾ける音が聞こえてきて、一瞬、ブルッとした。熱した油の音は、炭酸ジュースのシュワシュワした音と同じように好きな音だけど、皮膚に飛ぶと本当に痛い。

 あれがなければ、もう少し油を使う料理に挑戦する気になるんだけど。


 ダイニングテーブルのいつもの席に座る。

 テレビ画面では、男女が会話をしているところが映っていた。

「なんのドラマ?」

「先月からやっている割と好きな作品のドラマ版。録画した今週の分を見てる」

「珍しい。テレビを見るなんて」

「そうだね。ドラマ化しないと思ってた作品だから、ちょっと気になってね」

「おもしろいの?」

「まぁまぁ、かな。いろいろとカットされてしまっているから、初見の人は意味がわからないんじゃないかな? BGMだけは、原作の雰囲気によく合っていると思う」

「ふーん、けっこう散々な評価だね」

 そんなにわからないのかな?

 ドラマの内容に注目する。

『博士、なぜ人は生きているんでしょう?』

『綺麗に死にたいからではないですか?』

『死にたい、なんですか?』

『ええ。望まれて生まれてくるものはあっても、望んで生まれてくるものはありませんから』

『そうでしょうか? 赤ちゃんなんかは、母親のお腹を蹴るようですが…』

『最初は、自分自身を定義するために、反応を求めているのでしょうね』

『自分自身を定義、ですか?』

『心は、対象からの反応と定義をまとめた集積物。周りの反応を介して事象を知る。それを繰り返して、自己を作り上げていく』

『つまり、経験によって、人は作られるとおっしゃりたいのですか?』

「目玉焼きできましたよー」お母さんの声が聞こえてきた。

「はーい」

 席を立ってキッチンに行くと、目玉焼きトーストが乗せられたお皿が置いてあった。

「好きなものをかけてくださいね」

 お母さんは、自分用の目玉焼きを焼き始めているようだった。

「うん、ありがとう」

 塩か、しょうゆか。塩で良いか。

 目玉焼きに軽く塩をかけると、さっき座っていた席に持っていった。

「いただきます」トーストを食べながら、周りをざっと見た。いつもと変わったところはない。

 もう一度、テレビに流れているドラマを眺めた。

『人間は、自分が存在する理由を探し続けている。そうしないと、自分が自分であることを保てないのでしょう』

『それがどうして、死にたいになるのですか?』

『他人を介してしか、自分を知るすべを持っていないからではないですか?』

『すみません、意味がわかりません』

『疲れていくのでしょう。どれだけ続けても、誰もが認める正解にたどり着けない。だからせめて死の間際に、良い生き方だったと自己肯定できるように生きていくようになる』

『上手く言えませんがおかしいと思います。なんというか、悲しすぎます』

『あなたにはおかしい。私にはおかしくない。認識とはそのくらい些細なことなのでしょう』

『やはり、理解できません』

『おかしいと思う感情を大切にしてください。その気持ちを持続させ、試行錯誤を繰り返すことで、ブレイクスルーが起こせるかもしれない』

『最後に聞かせてください』

『何をですか?』

『博士もそうだというのですか?』

『私は、すべてを知りたい。それだけです』

 エンディングが始まって、スタッフロールが流れ始めながら、男女が別々の道を進んでいくシーンが流れていく。

 知らないバンドの曲がバックで流れている。

「お父さん、このドラマ、何が言いたいの?」

「詳しくは原作で。貸そうか?」

「ありがとう。とりあえず、今は良い」

「そう? わかった」

 今は、本を読みたい気分じゃない。


「ごちそうさまでした」

 さて、何をしようかな?

 お母さんが、さっき作っていたトーストを持って、テーブルにやってきた。

 お母さんに気づかれないように、お母さんの食べる姿を盗み見る。特に変わったところはない。

 まあ、いいか。残ってた課題を終わらせよう。

 その前に、お皿洗わないと。

 イスから立ち上がって、食器と一緒にキッチンに行く。お皿を洗って食器乾燥機に置いた後、自分の部屋に課題を取りに行くために、ダイニングを抜けていった。階段を上ろうとしたところで、後ろから声をかけられた。

「今日は、お昼ご飯どうしますか? 夕方に買い物に行く以外に出かける予定はないので、一緒に作りましょうか?」

「んー、どうしようかな?」

 もしかしたら、隠れ桜に現れるだろうか?

「お昼から出かけたいんだけど、おにぎり作ってもらっても良い?」

「おにぎりですか? わかりました。海苔はどうしますか?」

「食べる直前に巻きたいから、分けておいてもらっても良い?」

「はーい。出かけるんですか?」

「うん…」

 ちょっと、ホッとしたような悲しいような、なんとも言えない気持ちになった。

「何時頃に帰ってくるとかは、ありますか?」

「夜までには帰ってくると思う」

「わかりました」

 お母さんとの話が終わったことを感じた後、階段を上がっていく。

 とりあえず、お昼からの予定は決まった。午前中の内に課題を終わらせますか。

 階段を上りきって、部屋の前に立つと、ドアレバーを下に傾けて押した。

 開いたドアの隙間から部屋全体を見回すと、部屋の中は相変わらずで、床には小さな陽だまりができていた。

 ドアをさらに開けて、部屋の中に入っていく。

 机にある課題とペンケースを抱えると、窓に向かっていって、窓越しに空を見た。

 さっきと変わらず、青い空が広がっている。太陽をじっと見た。案の定、明るすぎて目がくらんだ。

 雲は、亀が歩くよりも遅いのでないかと思えるほど遅くなっていた。心なしか、昨日よりも遅い。

 こっちも、目に見えるほどの変化はない。

「はぁ」ため息をつく。課題をするために、リビングに向かった。

 あっ、先に歯を磨かないと。

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