第六章 15

 忙しい東京の光も消え始め、ひとつふたつと夜の静けさがやってきていた。南端区の北寄りにある、金融会社も午後二十一時で仕事を終え、そのビルの電気を消すこととなる。

『三橋金融株式会社』――

 午後二十時半過ぎ。スーツにコートとマフラーを羽織った藤崎俊樹ふじさきとしきは、仲のよい同僚数人と共に会社の裏口から外に出た。

「いやー、今日も疲れましたねー」

「そうですねぇ、この不況ですし……どうですか、このあと。景気づけに一杯」

「いいですねぇ!」

「すいません、俺はちょっと」

「ああ、そうですねぇ。藤崎さんは、お子さん待ってますもんねぇ」

「今、五歳でしたっけ? 可愛い盛りですもんねぇー」

 そのまま会社から数メートル歩いたところで、三橋金融の中年社員数人は明かりの消えた古本屋の軒下に佇む人影を見つける。その人物は、寒さで真っ赤になった頬をマフラーで隠し、グレイのスマートフォンを眺めていた。

 その、スマートフォンに向けられていた視線が社員達の声で反応し、彼らの方へ向けられる。見たこともない人物だ、というのが八割の人間が思ったことだ。だがしかし、藤崎俊樹だけは別だった。

 その人物は藤崎俊樹の顔を見ると、口元だけをほんのりとあげ――それでも、目元の冷静さだけは消して崩さずに――「どうも」と一言呟いた。

「知り合いかい?」

 社員の一人が、隣でやたら驚いた表情を作る同僚に問いかける。彼本人が答える前に、目の前に佇む少年が口を開く。

「帰り、遅かったんだね」

 待ってたんだよ、と彼は言った。





*****





 雲が流れて月を隠す。光が途切れて地上に大きく影を作る。

 冷たい風が頬を撫で、僕の前髪をひらりと揺らした。

 明るくて眩しくて賑やかしい東京の街も、少し外れて隅に入れば、光の入りにくい静かな場所はたくさんあった。

 薄暗い広場の、細長いひょろりとした木々が規則的に並ぶ、小奇麗な場所。

 しょうがないことだったんだよ、と父は言った。

 父とまともに会話をするのは本当に久しぶりだ。何年振りか何か月振りか――もしかして、初めてのことかもしれない。

 父は黒いコートの背を向けて、ポケットの間から煙草とライターを取り出して火を付けて、ハ―、と白い煙を吐いた。それから、ぼんやりと天を見上げて「ごめんな」と小さく呟いた。

 僕は父の言葉を耳に入れ、東京の寒さを全身で感じる。僕の知っている父は、煙草など吸わない人だった。

「お前、気が付いてるんだろ?」

 なにを気が付いているというんだ、ということにはあえて触れない。僕は何も言わず、反応もせずにただただ、父の黒いコートの後姿をじっと見つめる。

 父は僕の返答を待つかの様に煙草の煙を吐き出して、それからゆっくりと肩を落とす。

「やっぱりな」

 父の言葉に、僕は眉を寄せて左右の奥歯を噛みしめる。僕は感情的になることを必死で抑え、喉の奥から吐き出すようにしてこう言った。

「さっき」

「あ?」

「父さんの、【家族】にあった」

 父は予想外な僕の言葉にひどく驚き目を点にして、それから「そうか」と呟いた。もう一度ふー、と息を吐き、半分ほどに消えた煙草を落として踏んだ。

「母さんと、千尋は?」

「千尋は家にいる。母さんは、仕事、だと思う」

『だと思う』――僕の言葉に父は、ふっと鼻で笑った。それからもう一本煙草を取り出し火をつける。

「お前、学校は? ちゃんと行ってるのか?」

 行ってるよ、と僕は言った。父は又、「そうか」と短く答えると、後ろを向いたまま煙草の煙を吸い込んた。

「なぁ青児」

 なんだ、というようにして、僕は地面に這わせていた視線を上げる。

「ごめんな」

 僕は心の奥で舌打ちをする。

「もう少し、ちゃんとしてやれたらよかったんだけどな。学校のこととか、家のこととか、本当に、悪いと思ってるよ」

 父はそう言って口の端を歪め、自嘲し、冷たいコンクリートの上に視線を這わした。

 僕は父さんの後ろ姿を眺めたまま、鞄の上からその中にある凶器を撫でる。

 和泉紗枝はこの料理包丁を使い、実の父親を刺し殺して、その死体を公園の公衆トイレの裏に埋めた――

 実際それは、とても単純で、単調で、簡単な作業だ。今この瞬間この時に、目の前にある黒いコートの真ん中に、彼女に借りた包丁を突き刺せばいいだけのことだ。

 実の父親を殺す際、和泉紗枝は一度ではなく何度も何度も突き刺して、全身を血まみれにして実行した。僕の場合も例外ではない――ひどく抵抗されるだろうし、おそらく一度では済まないであろう。

 僕には恐らく、彼女のような冷酷さと機敏さで実行することは無理だ。しかし僕は、本当に彼女のすぐ隣、すぐ近くのところまで行くことが可能だ。

 僕は鞄を握る掌に力を込める。その包丁の重さと、形を確認する。

 誰にでもできるのだ。こういうことは。特別なことではないのだから。

 父はぼんやりと空を見上げ、それから肩越しに僕の方へ視線を向けるとこういった。

「なぁ、青児」

 僕は眉を寄せたまま顔を上げ、父の後姿を見る。

「ごめんな」

 もう、一体これで何度目だろうと思う。僕は鞄ごとタオルに巻かれた包丁を握り、今にも爆発しそうな苛立ちを押さえ下唇をぎゅ、と噛む。

「そのうち母さんともちゃんと話して、話会うつもりだから」

「……そう」

「ああ」

 父の吐き出した煙は、暗い空へと流れて消えた。星のない、月と黒だけの空には雲が流れ、地上に暗い影を落とす。冷たい風が葉と葉を揺らし、さわりと頬を撫でつけた。

 僕の前に闇よりも濃い影の落ちたその瞬間、僕は握った掌に力を込める。


――チャンスだ。

 

 父は今後ろを向いて、実の息子と会話をし、安物の煙草をふかしている。警戒心のかけらもない。チャンスは一度で一瞬だ。今この瞬間を逃したら、こんな機会二度とない。

 僕が包丁を引き抜く瞬間、父は又、もう何本目になるのだろうという煙草に火を付けて「でもな、青児」と僕の名を呼んだ。そこで一気にやってしまえばいいものを――僕は、僕の名を呼ぶ父の声に反応し、立ち止まり、握った刃を放してしまう。

 僕は肩を強張らせ、後ろ姿の父親に「なに?」と問いかける。

 父は、トントンと煙草の灰を落としてから、またそれを口に含み煙を吐いて、僕の顔色を伺うようにしてこちらを向いた。

「俺はな――お前が生まれたときは、本当に嬉しかったんだ」

 冷たい風がざわりと吹いて、僕は拳を握りしめる。

「今はもう、こんなことになっちゃったけど。でも、でもな」


――本当に嬉しかったんだよ。


 冷たい風が地表を揺らし、雲が流れる。丸い月が顔を出し、影で隠れた地上を照らす。その陰に隠れた僕は瞬間的に、あの夜和泉に殺された彼女の父親の壮絶な顔を思い出す。

 それだけではない。彼女に首を絞められて泡を吹き、白眼を向いて倒れこんだ河内麻利。 スポーツバックに押し込められた、奇妙な形に変形を遂げた森江宏樹。

 それらのことが僕の脳内にフラッシュバックして、目の前にいる人物と重なり、ある種幻覚のようなものを起こす。背中から大量の出血を施して、体に無数の傷をつけ、白眼をむき、壮絶な表情で倒れこむ実の父親。

 僕は握った拳の力を抜いて、冷たい地面をじっと見る。いくつもの影と光が交差して、僕らの間の時間を埋めた。

 何度目かの雲が流れ、光が途切れ、現れて、長い長い沈黙の後、僕は父の名を呼んだ。

「父さん」

 煙草の煙を吐いていた父は、ぼんやりとした瞳のまま肩越しに首を回転させ、俯いたままの僕の顔を見る。

「俺は多分、父さんのことは嫌いだった」

 汚くて、気持悪くて、消えればいいと思ってた。死ねばいいって思ってた。

(でも俺は)

「でも、俺は多分、父さんのことは、好きだったんだと思う」


――俺は、あんたのことは殺したくない。


 僕はそこで顔をあげて、月に照らされる父の顔を正面からちゃんと見る。 僕の記憶の中よりも、いくらか老けて優しくなった父親は少しだけ目元を落とし、「ありがとな」と呟いた。

 父さんと会うのは、もうこれで最後かもしれない。またいつかどこかで会うこともあるかもしれないし、もう本当に、二度と会うことはないかもしれない。もし会うことがあったとしても、その時はもう、本当の意味での“他人”になっているのかもしれない。

 だから僕は言う。息子として、父親にいう、最後の言葉だ。

「“さよなら”」

 僕の言葉は、雲と一緒に流れて消えた。

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