第六章 16
南端駅二十二時四十八分発の下りの電車に乗り、勅使河原駅に着いたのは午前零時十五分。この時間帯ともなれば、普段賑わっているはずの駅だってやけに露出度の高い服を着た赤い服の女だとか、くたれたスーツのサラリーマンだとか、頭にネクタイを巻いた赤ら顔のおじさんだとかそういう人達ばかりになる。
伊勢崎線下りの最終電車から降りて、東京都内の気温とは違う突き刺すような鋭い寒さを肌に感じ、僕はぞわりと身を強張らせる。
狭い構内。ごみの詰まったダストボックス。階段の脇に座り込む酔っ払い。灰色の階段。泥だらけの自動販売機。見慣れたものだ。眠そうな駅員のいる改札を出て、階段を降り、その向こう側にあるバス停前。ベンチの上。見たことのある誰がが、両膝を揃えちょこんと上品に座っていた。僕はぱちぱちと瞬きをしてその人物の名前を呼んだ。
「和泉さん」
茶色いコートと白いマフラー、それと同じく白い帽子を被った和泉紗枝は、僕の姿を確認するとぱっと瞳を輝かせ、「セイジ」と僕の名前を呼んだ。和泉はベンチから立ち上がり、にこりと顔を綻ばせた。
僕は、帰りの時間も何も知らせていないはずの和泉紗枝がここにいることに驚いて、「ずっと待ってたの」とそれを問う。和泉紗枝は可愛らしい白い帽子を深くかぶり「そうだよ」と頷いた。
「そろそろね、帰ってくるんじゃないかと思って」
寒さで真っ赤になった頬を火照らせて、にっこりという笑顔を浮かべた。大したものだ。
僕は鞄の中に手を突っ込んで、「これ」といって差し出す。白いタオルでぐるぐる巻きにされた、細長いもの。料理包丁。和泉紗枝がその手で実の父親を刺し殺した、本物の凶器。
和泉は僕が差し出したそのタオルと僕の表情を交互に見て、それからゆっくりとした動作でそれを受け取った。
彼女はふっ、と目を細め、ぼんやりとした口調でこう言った。
「使わなかったんだね」
「……うん」
「そっか。でも、セイジはそれでいいよ。わたし、セイジには使ってほしくないもの」
僕は思わず苦笑する。自分が使えといったくせに。
和泉は持っていたらしい可愛らしい鞄の中に、不釣り合いな無骨いタオルを押し込んだ。
「セイジ」
「なに?」
「会えた?」
「……うん」
「そっか。よかったね」
そうだね、と僕は言った。
和泉紗枝と並んで夜の街を歩いて行く。
ひどく寒い。一歩間違えれば凍えて死ぬのではないかというくらい、寒い。
和泉は手袋をした両手をごしごしと擦り合わせ、「わー、さむーい」と言いながら細い肩を縮こませた。
「今日はね、この冬一番の寒さなんだって。雪が降るかも、って天気予報でいってたよ」
そういえば、と僕は思い出す。今朝の天気予報。厚化粧を施したキャスターが、そのようなことを言っていた。乾いた地面に視線を落とし、考え込むようにして口元を押さえ意味もなく天を見ると、まるでタイミングを見計らったようにしてちらほらと白い粉が舞っていることに気がついて唖然とする。寒いはずだ。
和泉紗枝はその水晶玉のような瞳の奥にきらきらとした光を移すと「わー」という喜びの声をあげて飛ぶように一歩踏み出した。
「すごーい、すごーい。セイジ見て見てー。雪だよー。雪降ってきたよー。すごいね、ホワイトクリスマスだー」
「知ってるよ」
どうして女の子はこういうものが好きなのだろう。僕は、踊るように飛び跳ねている和泉に対してため息をついて、それから雪が舞い落ちる空を見上げ、ふとあることに気がついた。
「ホワイトクリスマス?」
「そう、クリスマス。私、ホワイトクリスマスって初めてなんだー」
僕は数メートル前で軽やかにステップを踏む彼女のことを眺めつつ、そうか、いつの間にかそういう日になっていたのかということに気がついた。僕は充電の切れかけたスマホを取り出して、今現在の時間を確認する。零時五十四分。十二月二十四日。
僕はそのディスプレイを閉じて、僕の名を呼ぶ和泉の方へ向き直る。「ねぇ、セイジ」
「これからどうするの?」
「どうする?」
どうするって、一体何をどうするのか。
僕の問いかけに和泉紗枝は、なぜか不機嫌そうに眉を寄せ、口の先を尖らせた。
「決まってるじゃない。千尋ちゃんのプレゼント。どうせまだ、用意してないんでしょ?」
彼女の言葉に、ああ、なるほど。そういうことかと僕は思う。さて、どうしようか。僕は口元に手を当ててほんの少し考える。考えて考えて、それからこういう答えを出す。
「眠い」
「眠いの?」
「そう、眠い」
だから、少し寝たい。という僕の答えに和泉紗枝は、「なにそれー」と言ってけたけたという笑い声を立てた。それから「よし、わかった」と言って両手を握り、
「じゃあね。これから少し寝て、それから『ラ・ブール』でお茶飲んで、映画見よ」
千尋のプレゼントはどうしたのか、と思うのだが、まぁいいやとかいい僕は笑った。
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