第六章 11

 それから暫くの間、ここ最近の曇り空が嘘のように晴れ渡り、埼玉県北部の空には太陽が顔を見せる。氷のような青い空と、肌を突き刺す冷たい空気。寒いはずなのに暖かくて気持ちよくて、それらの気候が僕のことを苛立たせ、腹立たせた。

 いつも通り、六時半丁度に時計の音でベッドの上から抜け出して、冷たい床に足の裏を這わす。まだまだ重い瞼を擦り、僕はひんやりとするカーテンを開ける。いい天気だ。ふぁ、と小さくあくびをして縮んだ背中をグンと伸ばす。僕の吐息は白い煙となって宙に消えた。

 温度の低い台所。色のないテーブル。とんとんとんと包丁を動かす母の背に「おはよう」とひとこと呟いて、僕は冬の気温くらいに冷たくなった食パンをトースターの中に突っ込んだ。それから珍しく普段つけないテレビをつけて、今日の天気を確認する。

 今日の夕方ごろから急に温度が下がり始め、明日の朝は雪が降る。降雪量によっては積もるだろう――ホワイトクリスマス。去年は確か積もらなかった。一昨年の冬も降っていない。ひどかったのはその前だ。僕の小学生最後の年。学校の正門前には、一年生の作った大量の雪だるまが並べられていた。

 僕は椅子の上に雑然と置かれた新聞紙を手にとって、今日のニュースを一通り読み飛ばす。

「お兄ちゃん」

「なに」

「今日もお母さん遅いから。戸じまりよろしくね」

「そう」

 そこでパンを入れたトースターがチン! という甲高い機械音を立てて僕を呼んだ。少し焦げたトーストにバターを塗り伸ばしながら、僕は心の中でこう呟く。

 俺も今日は帰らないんだよと。



 寒い体育館で校長先生の長い話を聞き流す。教室に戻り通知表をもらい、成績が上がった下がったと騒ぎ続けるクラスメイトを横目で眺め、中身も見ずに鞄の中に突っ込んだ。

 担任の無駄話を聞いて、様々なプリントやら宿題やらを突っ込んで、終了のチャイムとほぼ同時に教室を出る。狭い廊下では、浮かれた同級生がこの冬休みにはどうするこうするという楽しげな声を上げている。僕は寒い廊下を蹴り上げながらスマホを取り出して、今の時刻を確認する。十一時。十四時発の、伊勢崎線には絶対乗ろうと思っていた。この時間なら一度家に帰り、荷物も置いて着替えてからでも充分間に合うことができる。

 同級生たちの間を潜り抜け、靴を脱ぎ、スポーツシューズに履き替えて下駄箱を出る。寒いくせにやたらと晴れた空の下では、ウィンドブレーカーを着た生徒たちが風の子よろしく元気に走り回っていた。それらの光景を横目で見ながら僕は、正門の前に佇む一人の少女の姿を見る。

「和泉さん」

 僕は、赤いマフラーに顔半分を埋め込んだ和泉紗枝の名前を呼んだ。和泉は僕の姿を見つけると、ぱっ、と瞳を輝かせてぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。

 どうしたの、と僕は言う。

「セイジを待ってたんだよ」

 彼女は言った。



 和泉と並んで田圃の畦道を歩いて行く。

 相変わらず和泉の歩くスピードは遅く、歩幅もせまく、僕は彼女の歩くペースに合わせて冬の埼玉の下を歩く。

「決めたんだね」

 僕は何も言わない。首も振らないし言葉も出さない。彼女は僕の顔色をちらりと見ると、「大丈夫だよ」と呟いた。

「セイジならできるよ」

 僕は目の動きだけで彼女の言葉に答える。彼女は上目使いに僕を見ると足を止め、ぱんぱんに膨らんだ鞄を開けてごぞごぞと何かを取り出した。細長い、スポーツタオルに巻かれた何か。

「これ、貸してあげる」

 僕は彼女からそれを受け取りそのタオルを確認する。何の変哲もない、普通のタオル。そこに巻かれた尋常ではない何か。

「お父さんを刺した包丁だよ」

 実際それは包丁であり、凶器だった。実際僕は同じようなものを使ったことがあるし、うちの家にも置いてある。料理包丁。殺人に使ったとか思えないほど綺麗で、輝いていて、それでいてよく研がれていた。何だって切れそうだ。野菜だって、肉だって、人だって。

 僕は周りに誰もいないことを確認し、タオルを取って裸の状態の包丁を持ち、空に翳す。冷たく光る太陽が包丁の先を照らし、神々しいほどの光を作り出した。

「ずっと、持ってたんだ」

「大丈夫だよ。料理とかには使ってないから」

 なんて彼女は笑って言う。僕は天に翳した包丁を下ろし、また白いタオルを巻きつける。和泉は開けっ放しの鞄を閉めて、ずれたマフラーの先を直した。

「ねぇ、セイジ」

「なに?」

「前に、前にね。わたしに言ったこと、覚えてる?」

 彼女の言葉の意味が分からず、僕は無言のまま首を傾ける。

「『誰にでもできるんだって』」


――誰にでも、できるんだよな。


 包丁を持つことも。足を踏み外すことでさえ、彼女でなくとも誰でなくても。特別、殺傷用のナイフや銃がなくっても。例えばそれが、入れ墨の入ったやくざや極端に危険な薬物を吸い込んだ中毒者でなくとも。そこら辺にいる中学生や、高校生や、ごく普通に生活をしている誰にでも。

「誰にでもできるんだよ――こんなこと。全然、特別なことじゃないの。だから、だからね。セイジにもできるんだよ」

 僕はあまりにも整いすぎた彼女の笑顔をじっと見て、それから手の中にあるタオルに視線を移す。彼女はその、出来すぎた人形のような笑顔のままくるりと回りスカートの裾を翻した。

「これね」

 彼女の言葉を合図にして、僕はまた彼女の元に視線を向ける。

「もしセイジが使ったら、セイジにあげる。もし使わなかったら私に返してね」

 僕は彼女の不可思議な言動に眉間に皺を寄せ、その真意を考える。すると彼女は「そんなに難しいことじゃないよ」と顔の前で両手を振った。

「使ったら使ったでいいんだよ。でもね。もし――もし、セイジが使わないでここに持って帰ってきたら、そのときは私に返してね」

 僕は複雑なことをいう彼女のことをじっと見て、それから手元に視線を移し、「わかった」と言ってそのタオルを鞄の中にしまい込んだ。

 和泉紗枝はそんな僕の行動に満足をしたのか、にこっと見惚れるような綺麗な笑顔を浮かべた。

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