第六章
第六章 1
トゥルルル…… トゥルルル……
「……もしもし、俺だ。どうやら、年末年始もそっちに戻れそうになさそうだ。……そうだ、なかなか仕事が片付かなくてな……なに?……大丈夫だろう……ああ、次は、いつ帰れるかわからない……ああ、そうだ……じゃあな、切るぞ」
ブッ――
ツ――ツ――ツ――
賞味期限の切れかけたパンをトースターの中に突っ込んで牛乳をカップに突っ込んで三分間過ぎるのを待つ。その間、乱雑に置かれたチラシの中から今日の日付の新聞を探し、一通りばーっと読み飛ばす。目の前ではエプロンを着た母が妹のお弁当箱にタコの形をしたウインナーやら卵焼きやらを詰めていた。その作業が終わり小さな弁当箱の蓋を閉めピンク色の花柄のバンドをそれに巻きつけながら、母は言った。
「今年のクリスマスもお正月も、お父さん、忙しくて帰ってこれないみたいなの。お母さんも忙しくて、暫く時間取れないと思うから……なるべく家にいられるように頑張るけど、でも、やっぱりお兄ちゃんには出来るだけ家にいてほしいの。勉強とか色々あると思うけど、お母さんのためだと思って頑張ってね」
チン、とトースターが軽い音を立てる。僕はそれを取り出して、マーガリンの蓋を取り四方八方に塗り広げながら「わかった」と答えた。
時間割の隣に張られたカレンダーが、十二の数字を指している。最後の一枚を残し、今年もあと三十日を切ってしまった。期末を終えた僕達は、あと一ヶ月後ほどで受験に向けて動き出す。早いところではすでに願書提出の準備が進められていた。
その中の、一番早いのが都内の私立を受けるという桑原亮二。一月頭の試験に向けて、最終確認とも言えるような追い込みが行われているようだ。
「方丈記の作者は誰でしょう」
「紫式部ー」
「えー、光源氏じゃねぇの?」
違う。そんなことばかりしていて、本当に大丈夫なのか。僕がちらりと目を向けたことに気がついたらしい桑原亮二は、ぱっと顔を輝かせて僕の前に走ってきた。
「藤崎」
参考書から目を逸らし何だとばかりに顔を上げると、正面では薄汚れてよれよれになった教科書を持った桑原亮二がいつものようになんに悩みもなさそうな表情で僕のことを見下ろしていた。
「なに?」
「なぁなぁ藤崎、『ホウジョウキ』書いた人って誰だっけ?」
鴨長明だろと僕が言うと、桑原亮二は、「そうだっけ?」というようにして首を傾げた。そして、さも当たり前のようにして「光源氏じゃなかったっけ?」と呟く。僕はうんざりする。光源氏は実在の人物ではないし、それの作者は紫式部でキーワードは源氏物語だ。
僕がそう言うと桑原亮二は「おー、流石藤崎ー」と言ってぱちぱちぱちと拍手をした。
僕は額を押さえて頭を振り、それから口笛を吹く桑原亮二に声をかける。
「お前、そんなんで大丈夫なわけ? お前の試験、一月の初めごろじゃなかったっけ?」
桑原はひどくあっけらかんとした口調で「うん、そうだよー」とからからと笑った。
桑原亮二にとどまらず、僕もそろそろ大事な時期だ。一月の終りに願書提出があり、二月の頭に面接と適性検査が二日連続で行われる。私立一本で決める桑原亮二と違い僕の場合、滑り止め兼実力試しに県内の私立を併願する。これは一月の始め。そろそろあまり、悠長なことは言ってられない。僕だって普通の中学生だ。大丈夫だと周囲から言われている二流高校に落ちたくないし、高校浪人だってしたくない。
だがしかし、天才少女和泉紗枝はやはり僕とは頭の作りというか精神構造の作りすらも違うようだ。
「セイジはクリスマスってどうするの?」
白いセーターと茶色のロングスカートで身を包んだ和泉紗枝は、小さな手の平で白いカップを包みこみ、上品に持ち上げてその淵に口をつけた。
『ラ・ブール』は休日の昼過ぎだというのに、僕と和泉だけが対して広くもない店の一角を陣取って、のんべんだらりと暖かい飲み物に舌鼓を打っていた。
愛想のない初老のマスターが誰が使っているのかわからない白い皿を拭きながら、天井近くに置かれた小さなテレビを眺めている。この前まで巨大な体を揺らす相撲取りが激しい争いを繰り広げていたのだが、今はラグビーボールを持った筋肉隆々の男たちがボール争いに躍起になっている。最初は野球でその次は確かサッカーだったな、と思いだす。この仏頂面のマスターはスポーツがよほど好きなのか、それともただ単に見ることができればアニメでもなんでもいいのだろうかと考えるが、永遠に答えに行きつくことがなさそうなのでそれはそこで考えることをやめる。
僕は半分ほどに減ったコーヒーを意味もなくかき混ぜて、それからそれに口をつける。
「何の話?」
「だからクリスマス。なんか予定でも入ってるのかなぁって思って」
「クリスマス?」
クリスマス。そう言えば、そんな行事もあった。最近、色々と忙しすぎて忘れてたけど。僕は少しだけ考えてこう答える。
「なにもしないと思う。妹とケーキくらいは食べるかもしれないけど。特に予定はないよ」
そこまで言って、目の前で頬杖をつく和泉紗枝に「なんで?」と問いかける。和泉は「ううん」と言って首を傾けて、それから「エミちゃんがね」と切り出した。
「今年のクリスマス、高校生の彼氏と過ごすんだって」
「『えみちゃん』?」
「うちのクラスの子。高田恵美ちゃん」
新しいオトモダチか。僕は腕を組み、柔らかいソファ―に腰を沈めた。
「それで?」
「ううん。それだけ?」
「そう」
そこで一旦会話をやめて、僕は三十分遅れた時計の音を聞きながら冷めたコーヒーを手に取り喉の奥に一気に流し込む。コーヒーの苦みが舌先に広がった。和泉は和泉で、くるくると描かれるカップの中の白い渦を見つめていた。
十二月も始めとなると、活気のない商店街もちらほらと赤と緑の決まったカラーで彩られていて、普段人参やらゴボウやら色気のないもので飾られた店頭にもサンタの人形が置かれていた。眩しい飾りの施されたお菓子売り場の、一番目立つその場所に、この時期にしか見られない長靴下の形をしたお菓子の詰め合わせが置かれていて、その大中小の一番小さいものを手にとってしげしげとそれを眺めてみる。その小さな長靴下の隣にはトナカイの顔をした布製の包みが並べてある。興味をそそられてそのトナカイを取ろうとするが、幼稚園くらいの子供を連れた親子連れが買い物カーを押しながら僕の隣にやってきた。
「おかーさん、これ買ってこれー」
白いほわほわの帽子と空色のマフラーをぐるぐる巻いたその男の子は、ねーねーと母親の黒いコートの端を引っ張りながら僕の前に割り込んだ。白い帽子に追いやられた僕は、何気ない様子で長靴下を元の場所に戻してからくるりと踵を反転させた。
十二月に入り気温も急に低くなって、晴れているはずの空だって何時もうっすら陰りを帯びるように灰色に染まっていた。マフラーの中に顔の半分を埋めて呼吸をすると、吐きだされた酸素は白い塵となり飛び出て消えた。空中に浮かんだたくさんの冷たい針が制服の袖の間から飛び込んで、僕の肌を突き刺した。
去年のクリスマスはどうだったのだろうと思いだす。去年も確か今年とあまり変わらなかったような気がする。去年の千尋はまだ四歳で、今よりまだまだ赤ちゃんのような感じだった。さて、去年は一体何をあげたのだろう? 父さんは帰ってきただろうか? 母さんは何をしていたか? よく覚えていない。去年と、一昨年と、その前と記憶がごちゃごちゃになっている。
今年も父さんは、出張先から帰ってこない。夏休みも、春休みでさえも一週間も滞在しなかった。仕事が忙しい。なかなか時間がうまく取れない。本当か? いくら忙しいといったって、本当にこれほどまでに自宅に帰ることのできないものなのか?
僕は交差点の前で立ち止まり、ちかちかと揺れる信号を確認して時速何十キロで走るトラックを眺める。冷たい空気を切り裂いて、排気ガスをまき散らすそれらを観察しながら僕は思う。
東京へ出張。ある意味それは本当でありまた一種の嘘でもある。
僕は知っている。僕の父は家庭の外で、僕の母以外の誰かともう一つの家庭を持っている。
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