第五章 11
河内麻利の失踪は暫くの間、僕らの周囲を騒がせた。
和泉紗枝は駅前で捜索願のチラシを配っていたし、河内麻利の両親はテレビの中で娘の生存と情報を訴えていた。
僕はリビングで食パンが焼けることを待ちながら、それらの情報を一通り把握する。スーツ姿の母親が僕の背後に立った瞬間、僕はリモコンの一番上のボタンを押して賑やかしいテレビの画面をブツッと消した。「お兄ちゃん、早く帰ってきてね」
うん、と適当に頷いてから僕は、トースターの中で少しだけ焦げた食パンを取り出してバターを塗りつける。そんなことしなくても大丈夫だよ、と心の中で呟いて。
あと数日で十二月に突入する。僕は白い息を吐きながら冬の空気を感じ取る。ポケットに手を突っこんだままコンクリートの地面を蹴り上げて、例の公園の前で足を止め、足を一歩踏み出した。
学校の周りの田んぼでは相変わらずジャージ姿の桑原亮二が後輩のケツを叩きながら声を張り上げ走っていて、下駄箱の辺りでは軽い表情の石井健太に声をかけられる。「おはよー」「おはよ」「チョー寒くね?おれ、凍えて死にそうなんだけど」「もう十二月に入るしな。今日の体育、外でマラソンじゃなかったっけ?」「うわっ、まじで? おれ、そんなの堪えられないんだけど」
僕は非日常を抱えたまま、すぐ隣にある日常生活に舞い戻る。和泉の父親と、河内麻利の死体と、和泉紗枝の秘密を胸の奥に隠したまま。
靴を脱いで上履きに履き替えたところで僕は、例の天才少女に声をかけられる。
「おはよう」
和泉紗枝はそれこそまるで西洋の人形のような整いすぎた笑顔を僕に向けた。僕はとんとんとんと上履きの先を打ちつけて、「おはよう」といつものように返事を返す。
和泉は最近、学校内でも僕に対してこういう風に話しかけるようになってきた。
僕らの噂もだんだん下火になってきて(これはただ単に他のもっと重要な事件が起こってしまったということもあるが)緩やかに穏やかに過ごせるようになっていた。
冷たい廊下の温度を肌で感じ、目の前にある日常を送りながら、おそらく僕はもう、完全な『日常生活』には戻れないであろうということを確信していた。
僕は教室に入り鞄を下ろし、時間割の横に掛けられているカレンダーに目を向ける。
今年はもう、あと一か月しか残されていない。
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