第五章 10
彼女と共に夜の街を歩くのは、もうこれで三回目だ。彼女の父親を埋めた時と、森江宏樹の事件の時。そして今回、河内麻利の埋葬を行った時。
先ほどまでは隠れていたはずのお月さまが群青色の空の昇り、眠りこけた静かな町を明るく照らす。誰もいない。車も自転車も通らないし、猫も犬もみんながみんな眠っている。時々、思い出したようにして冷たい風が僕らの頬を撫であげて、さらさらと木の葉を揺らした。
「ちょーさむーい!」
つい先ほどまでまるで人形のような感情のない表情を浮かべていたはずの和泉紗枝は、大声でそう言って自分の肩を抱きしめた。はぁー、と掌を温めるようにして息を吐き、僕の前を歩いて行く。彼女の黒い髪と黒いコートが夜の色と一体化して、溶け込んでいて、今にも空に飛び立ちそうだ。これはあの日、森江宏樹の夜の日にも感じたことだ。『夜の住人』――彼女は本当に、そのような表現がよく似合う。
和泉紗枝は縦横無尽に走り回り、歩き回った。夜の街と眠った時を。自転車は勿論、車の一台も走っていないわけだから、昼間、排気ガスのまき散らされているような道路の真ん中を跳ねるようにして歩き続けた。その足取りがあまりに軽やかで、緩やかで、おまけに月光によってあまりにも鮮やかに照らされているものだから、踊っているかのようにも見えた。
僕は天然のスポットライトに照らされて踊り続ける彼女のことを後ろから眺めて、見物していた。夜色のストレートヘアーが月の光に照らされて輪を作る。それがあまりに幻想的で、非現実すぎて、彼女の薄いリアリティを更に薄く見せていた。
その、跳ねる髪の毛の先を眺めながら、僕は色々なことを思い出す。地面の固さ。スコップの重さ。死体の体温。河内の言葉。和泉の事情。
ふとした瞬間に数メートル先で踊っていたはずの和泉紗枝が振り向いて、にこりという笑顔を見せた。
「セージ」
その、出来すぎた人形みたいな綺麗な顔に僕は一瞬躊躇して、阿保みたいな表情を彼女に返す。自分でも驚くくらいにぼんやりとした目で彼女を見つめ、瞬きをして、「なに?」と返答する。そんな僕の様子に気がついたのかついてないのか、和泉紗枝はぱたぱたと跳ねるようにして僕の近くへやってきた。
「すごいねー。ちょー、広いよー」
「まぁ、夜だし。車とか全然走ってないし」
「これだけ広ければ、道路の真ん中で寝転がってもへーきかなあ」
「……はぁ?」
意外すぎる彼女の提案に、僕は思わず顰めっ面で返答する。和泉はそんな僕の反応を見てくすくすと笑い、「いいじゃない」と歯を見せた。
「だってさー。こーんなに広いんだよー? 一回くらいはやっとかなくちゃ損だよー」
学校一の優等生はそのようなよく意味のわからないことを言いながら両手を広げ、言うが早いか、冷たいコンクリートのど真ん中にゴロンという音を立てて寝転がった。彼女の黒い髪の毛が、扇子のようにばらばらと広がる。馬鹿みたいだ。拍子抜けしたというかなんというか、呆れたを通り過ぎてなんだか呆気にとられてしまい、ただ僕は、地べたに寝転がる和泉のことをぼんやりと見つめていた。それから、「セイジも座んなよ」という和泉紗枝に腕を引っ張られ、僕も冷たい地面の上に腰を据えることになる。
冬の冷気を吸い込んだコンクリートは予想以上に冷たくて、固くて、どうしようもなく寝心地の悪いものだったのだが、それでもなぜか居心地は悪いわけではなくて、妙な安心感と開放感に溢れていた。どこまでも続くようなだだっ広い道路に手足を伸ばし脱力し、ぐったりと肩の力を抜いて天を仰ぐ。変な感じだ。空が近くなったような気さえする。手を伸ばせばすぐにでも星に手が届きそうなのに、決して届かないそんな距離。
背中に感じるコンクリートの固さだとかひんやりとした温度は本物であり、僕は隣で目をつぶり穏やかな表情を作る和泉紗枝に声をかける。
「和泉さん」
「なにー?」
「寒くない?」
僕の問いに和泉紗枝は、さも当たり前のようにして「寒いよー」といってけたけたと笑った。僕はあまりにも軽い反応を示す彼女に少し呆れ、それと同時に感心する。そうか、これが天才なのかと。
和泉はひとしきり笑い声をあげてからまた目を瞑り、それから僕の名前を呼んだ。
「ねぇ、セイジ」
「うん」
「セイジはさ。まりっぺに一体、どこまで聞いた? 本当は全部、聞いたんじゃないの?」
何気ない口調で聞いてくる、彼女。僕は答えない。和泉はうっすらと目元で笑うと、「やっぱりねー」と白い息を吐いた。それから、何かを待つようにして天を眺め、瞼を閉じてこういった。
「幻滅、した?」
してないよ、と僕は言う。和泉は嬉しそうに、それでも少しだけ寂しそうに瞼を閉じた。
「わたしねー。まりっぺのこと、好きだったんだ。こっちに転校してきて、一番最初に仲良くなったのがまりっぺだったの。いつも一緒だったの。一番頼れるのがまりっぺだったの」
和泉は思い出を辿るかのようにそう言って、それから「でもね」と言葉を続けた。
「駄目だった――駄目だったね」
ふっ、と鼻先だけで笑い飛ばすようにそう言って、コートの裾で顔を覆った。泣いているわけではないだろう。だからと言って、笑っているわけでもないだろうが。
慰めてほしいのかな。でも僕は何も言わない。何を言ったらいいのかもよくわからないし、特に言葉も思いつかない。だから僕は何も言わない。ただ単に頷いて「そう」と一言相槌を打つ。
すると和泉は、腕と腕の間から歯を見せて、少しだけ困ったようにこう言った。
「セイジって本当にそればっかりだね。『うん』とか『そう』とか、それしか言わないね」
何か言ってほしいのか、と僕は言う。すると和泉は
「ううん、違うよ。セイジは、今のまんまでいいんだよ」
そう言ってほんのりと笑った。僕は寂しげに揺れる彼女の横顔を眺めてから、それから群青の空に視線を戻す。黒い雲が天を流れ、黄色い月をかき消した。
「ねぇ、セイジ」
「うん」
「もし、もしね。もしわたしがまりっぺのこと殺さなかったら。セイジはどうしてた?」
僕は、雲の影を帯びた彼女の頬をちらりとみて、さぁどうだろうと考える。
実際それはよくわからない。僕はそれに対して明確な答えを出していなかったし、別の選択をした場合の可能性も考えてはいなかった。
よくわからない、と僕は答える。
「でも多分、和泉さんのことは裏切らなかったと思うよ」
そう言うと和泉紗枝は、どうしてだというような瞳をこちらに向けた。
「共犯者だから」
僕の言葉に和泉紗枝は、陰った頬にほんのりと月の光を差し込んでうっすらと微笑した。
「ありがとう」
「……そりゃあどうも」
「誉めてるんだよ。もっと嬉しそうな顔しなよ」
「……あざーっす」
僕が答えた適当な言葉に腹が立ったのかなんなのか、和泉が僕の腹の上に圧し掛かってきた。なにそれー、とか言いながら僕の体をばしばし叩く。それがなかなか力が強くおまけに勢いもあるものだから、あばらが脱臼することを恐れた僕はごろごろと転がり彼女の手から逃げ回る。ちょ、痛っ、やめてよとか言いながら。脇腹辺りを狙っていたはずの手のひらがだんだん上にあがってきて、肩を叩き、頭の上に降ってくる。僕は反射的にその手を取って、「もー、やめろよ」と引き寄せる。顔と顔がぐっと近くなりそこで留め、掴んだその手をパッと放した。近い。しゃべれば息がかかるような、そんな距離。雲が流れて月が消える。そのままの状態でほんの数秒、空白の時を過ごし――沈黙を破ったのは和泉紗枝だった。「セイジはさ」
「運命って信じてる?」
運命?
僕は、阿保みたいに彼女の言葉を繰り返す。
「なんで」
「なんでも」
彼女との間合いを取った僕は寝転んだまま時間を稼ぎ、「よくわからない」と曖昧な返答をする。僕は今まで生きてた十何年という中ではまだ、「運命」を感じさせるような出会いやら経験やらをしたことがない。これからまた何十年と生きていけばその中で一度や二度運命的な出会いや経験をするのかもしれないが、今の僕では残念ながらその意味を理解することはできない。
和泉紗枝は僕の返答に瞬きだけで反応し、それから星の輝く天上に目を向けた。
「私はね。あったらいいなって思ってる。運命だとか赤い糸だとか。そういうのって、あったらいいな、って、思う」
彼女の言葉の語尾の方が、段々と遅く小さくなっていく。僕は顔を起こして彼女の顔を見る。少し恥ずかしそうだ。案外、ロマンチストなんだね、というと和泉は「当たり前でしょ」と口を尖らせた。
僕は彼女の言葉にまた適当に頷いて、目を閉じる。コンクリートの温度と冷ややかな風を肌で感じながら、夜の街にある奇妙な解放感に身を任せる。夜の街というのは、どうしてこうも落ち着けるんだろう。僕の瞼もだんだんと重みを帯びてきて、あ、寝そうと思った僕の鼓膜を、和泉の一言が刺激する。
「セージ」
「なに?」
「キスしてもいい?」
「いいよ」
また僕は適当に答えた。トロンと蕩けた僕の脳では、彼女の問いかけの本当の意味をキチンと理解することができなかったのだ。あれ、と思った瞬間に、何かふわりとした柔らかいものが触れて人の体温を残してすぐに消えた。
僕はぼんやりとする目を開いて、それから自分自身に起こったことを確認し、ごしごしと口元を擦る。それから、超至近距離で無表情にも近い表情を作る彼女の顔をじっと見る。
「……和泉さん、リップクリームちゃんとしてる? 唇、がっさがさなんだけど」 すると和泉は、えっ、という驚きの声をあげて、さっと顔を引き攣らせた。
「うそー、ちゃんと毎日塗ってるのにー」
と、コートのポケットからリップクリームを取り出して、僕に背を向けた状態で唇にそれを塗り始めた。なにやってんだか、と僕は呆れ半分でそれを眺める。それから「よし!」となぜか意気込んで前を向いた彼女はぐっと両手を握り、こういった。
「もう一回」
和泉紗枝は上半身だけ起き上がらせた状態の僕の肩に手を置いて、覆いかぶさるような体勢を取る。顔と顔の距離が少しずつ狭くなり、なくなって、熱い吐息が肌にかかる。ファーストキスはレモン味だとかいうけれど、僕と和泉の初キスはそんな酸っぱい味がするわけもなく、だからと言ってマシュマロのようなとろけるような柔らかさがあるわけでもなくて、それでもしっかりとした人間の柔らかさと、生き物の暖かさを唇の先で感じ取り、それらの感覚は優しく触れて溶けて消えた。
また再び僕と和泉が距離を取ったその時に、和泉紗枝は黒い瞳のその奥に僕の顔を映したままこう言った。
「セイジってさ、本当に表情変わらないよね」
「……そうかな」
彼女は僕の隣に座り込み、「そうだよ」と肯定した。僕は、先ほどまで和泉の触れていた口元に手を当てて少しばかり考える。そんなこと、今まで考えたこともなかったけど。そうなのだろうか。
それでも和泉は、「まぁいいや」といって脱力し、もう一度道路の真ん中に寝転んだ。長い髪の毛がばさりと広がる。それから長い睫毛を瞬かせて、右手のひらを空にかざした。
「赤い糸、繋がってたらいいのにね」
僕は僕で彼女の隣に寝転んで、かざした掌を閉じたり開いたりするさまを眺めながら「どうかな」と一言呟いてみる。僕の言葉をどう受け取ったのか、和泉は口元をやんわりと緩めて「繋がってるよ」と笑って言った。
僕はなぜが嬉しそうにそう言う和泉の横顔をちらりと見て、それからすぐに瞼を下ろす。
赤い糸。
僕と和泉を繋ぐもの。それが果してよくいう『運命の赤い糸』なのかどうか。それは僕にはよくわからない。
でももし、もし僕と和泉の指先に、僕らを繋ぐ赤い糸が存在してるとそうしたら。
それは決してテレビドラマで唱えられるようなロマンティックなものではなくて、幸せな未来を感じさせるような甘い甘いものでもなくて。
それはきっと、色んな罪と後悔の色で彩られた、血の色にも似た緋色の糸だ。
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