第五章 9

 天才少女和泉紗枝の動きは、僕が思ったよりもずっと早く突発的だった。

 その、ほとんど無計画とも言えるような計画は、僕は河内麻利と河川敷で話をした三日後に遂行される。



 その夜、僕の返事を待ちきることのできなかった河内麻利は、和泉紗枝を父親を殺したあの公園に呼び出した。時間でいえば二十二時。まだ、この街も眠りきっていないようなそんな時間。親友だと思っていた河内麻利に呼び出され、脅しを受けた和泉紗枝は持っていた縄跳びの縄で河内麻利の首を絞めて殺害を施した。

 その時、僕は初めて和泉紗枝が殺人を起こす所を目撃する。

 僕はその時の様子を説明しなければいけない。



 明かりの消えかけた夜の街を駆ける。

 夜の音と、匂いと、空気を肌で感じ、吸いこみながら。あと数日もすればもう十二月だ。十二月? どおりで空気が冷たいはずだ。一か月前には感じられなかったような冷気がはぁはぁと呼吸を繰り返す僕の体へ染み込んでいく。懐中電灯さえも持たずに夜の街を行く僕の足元を、雲と雲の間から恥ずかしそうに顔を出すお月さまがぼんやりと照らしてくれていた。

 一定のリズムで手足を動かす。僕のパーカーに取り付けられたフードが跳ねて、ウィンドブレーカーがシャカシャカと鳴った。僕の心臓と体に流れる血液がどくどくという音を立てて揺れた。心臓と同じリズムで吐き出される僕の酸素が白くなり、暗闇にまぎれ、空気の中に散っていった。暗闇の中で立ち止まり、全身に流れる命の音を体で感じ、口で、肩で、全身で呼吸を繰り返す。しっとりとした冬の空気を骨の髄まで取り入れて、黄色い月の浮かび上がる天上を見上げる。

 あの日と同じまぁるい月が、雲の間に隠れて消えた。雲が遮ったその場所が、僕の頭上で影となる。僕は光を見るために目を凝らす。隠れてしまったその光は、いつまでたっても出てこない。月が再び顔を出すことを待ちくたびれてしまった僕は、その姿を追い求めるかのようにしてもう一度地面を蹴り上げる。

 走って走って走り続けて、僕はまた、あの公園の前までやってくる。木々の生い茂るあの公園。天使の羽根の生えた銅像のある、飛沫を上げる噴水の前。呼吸を上げた僕がおびき寄せられるようにその場所にやってきたその瞬間に、僕は又、ある光景を目に入れる。

 月の陰った夜の下、表情のわからない人間が二人――シルエットから見ておそらく女の子――が、向かい合って立っている。何かを話しているらしいが、内容はよくわからない。左側の女の子がさっと背を向けた瞬間に、右側にいた女の子が何かをさっと取り出して、振り翳した。その瞬間、それまで薄暗い雲の後ろに隠れていたはずのまん丸いお月さまが顔を出し、噴水の前に佇む二人の姿を映し出す。長い髪の女の子と、ショートボブの女の子。和泉紗枝と河内麻利。

 彼女の動きは素早かった。河内麻利が背中を向けたその瞬間に、どこに隠し持っていたのか細長いロープ状の何かを取り出して、河内麻利の細い首に巻きつけた。そのまま自分の方に引き寄せるように力を込め、腕と腕を交差させ、手首を返し、河内の首を締めあげた。ひっ――という潰れたような悲鳴が聞こえ、河内麻利の腕が痙攣するようにしてびくびくと震えた。河内麻利の黒い眼が白目を向いて、泡を吹き、痙攣し、人形のようにがくんと落ちた。和泉紗枝は最後のもう一度、仕上げとばかりにロープを握る手に力を込めて、それからその手をぱらりと緩める。魂の抜けた河内の体が、糸の切れた操り人形のようにして崩れ落ちた。和泉の表情は分からない。僕は彼女の顔を伺うように、木々の間から抜け出すようにして一歩踏み出した。

 がさり、と木の葉の割れる音により、彼女の顔が向けられる。

「セイジ」

 あの夜と同じ。和泉紗枝が、いくらかぼんやりとしたような口調で僕の名前を呼んだ。冷たい月が彼女を照らす。暗闇をそのまま取り込んでしまったかのような、真っ黒で、真っ暗な冷たい瞳。和泉紗枝。

 僕は彼女の感情の全く読み取れないような表情と、首にロープを巻きつけられたまま空き缶のように転がっている同級生の体を交互に見つめて、和泉紗枝に問いかける。

「殺しちゃったの?」

 僕の言葉に和泉紗枝は、言葉少なにただ一言、顎先だけで「うん」と頷いた。

 僕は木々の間からもう一歩踏み出して、二人の少女と距離を縮める。

「どうしたの?」

 あの日と同じ問いかけを、僕はもう一度繰り返す。彼女は何も答えない。ただただ、足元に人形のように転がった同級生を見下ろして、眺めていた。

 僕は、本物の闇のように全く感情の読み取れない彼女の横顔をじっと見て、冷たいはずの地面に横たわる同級生の体を見下ろして、またもう一度、和泉の横顔に視線を向けた。

 和泉紗枝は瞬きの一つもせず、呼吸の一つも一切しないで、ただぼんやりというように、台本に書かれたセリフを読むかの様にしてこういった。

「……殺しちゃった」

「……うん」

「私の、大事な友達だったのに」

「……そっか」



 河内の体は軽かった。彼女自体が小柄だったというのもあるのだろう。数か月前、二人がかりで運び上げた和泉紗枝の父親よりも、ずっとずっと軽くて運びやすかった。

 河内麻利の死体を背中にしょって、和泉紗枝の父親の眠るあの場所を訪れて、まだ生ぬるく体温の残る河内の体をゆっくりと地面に下ろす。「スコップはあるのか」と僕は聞く。あるよ、と彼女は言った。

「まりっぺがね」

「うん」

「見てたんだって」

「そうなんだ」

「だから、殺したの」

「そう」

 和泉の父親の眠る地面のすぐ横に、新しい穴をざくざくと掘り起こしながら僕は、和泉紗枝と言葉の少ない会話を探す。和泉は河内を殺した核心には触れてこない。でも僕は、和泉が河内を殺してしまったその理由をわかっている。だから僕は、彼女の根底にあるのであろうその部分には触れていかない。彼女の呟きのような言葉の一つ一つを拾い上げて、頷いて行く。

「ねぇ、セイジ」

「なに?」

「まりっぺに、なにか聞いた?」

 僕は、地面を掘る手を休めない。ざくざくと冷たい地面を掘り起こし、棺桶上の穴を作る。「なにも知らないよ」と僕は言う。和泉紗枝は「そう」と一言微笑した。

 以前、父親の体を埋めた時は適当に、寝かしつけるようにして穴に入れ、土をかけた。河内麻利の体は、開いて白目をむいたままの瞼を閉じて、まだほんのりと温かみのある腕を胸の上に乗せ、ゆっくりと掌で土をかけ、埋葬した。和泉は、河内の顔の部分に土をかけることを最後の最後まで拒んでいたようだった。

「後悔してる?」

「……してないよ」

 それから、土に埋められた河内の遺体に手を合わせ、立ち上がって、膝を抱えてうずくまる和泉が立ち上がることをじっと待つ。あまりにも動かないから、もしかして泣いているのだろうかと訝しる。彼女には分からないように、こっそりと彼女の表情を覗き見る。僕には、じっと地面を見つめる和泉の心は解らなかった。

「ねぇ、セイジ」

「うん」

「セイジはなにしてたの?」

「走ってた」

「走ってた?」

「そう」

「そっか」

「うん」

「二回目だね」

「そうだね」

「ケイベツ、してる?」

 してないよ、と僕は言う。和泉紗枝は、よかった、と呟いて少しだけ笑った。

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