第五章 4

 そのわずか一週間後。彼女は本当にうちに来ることになる。

 その日の授業を終了させた僕は、玄関辺りで和泉紗枝に捕まった。

「今日は図書室行かないの?」

「行かないよ」

「なんで」

「妹が熱出して寝てるから」

「じゃあ私も一緒に行く」

 なんでそこでそうなるんだという話なのだが。どうしてこの子はこう強引なのだろう。

 学校帰りにスーパーによって、風邪をひいたときはネギがいい豆腐がいいとうんちくを言いながら僕が抱えた買い物籠に色々なものを放り込んでいく。レジに向かう途中ふと気がついて「そう言えば和泉さんて料理できるの?」と僕が聞くと、例の天才少女は

「料理くらいできるよ! 私を誰だと思ってるの」

 と、腰に手を当てて胸を張った。



 ただいまーといって鍵を開けると、パジャマ姿の千尋が兎のぬいぐるみを抱えてとたとたと走ってきた。

「おかえりなさいー」

 小さな額に冷えピタを貼り付けた千尋は、待ちくたびれたとばかりに僕のズボンに抱きついて病人らしい真っ赤な顔でへへへと笑った。それから僕の後ろに佇む見たころもない女の子の姿に気がついて、きょろりと首を動かした。僕の足もとに隠れるようにして視線だけで「誰?」と聞いてくる。

 僕が答えるよりも先に、腰を屈めた和泉が小さな千尋に目線を合わせ、アルカイックスマイルを浮かべた。

「こんにちは千尋ちゃん」

 にこり、と思わず花でも飛び散るかのようなその笑顔。妹はぱちぱちと睫毛を瞬かせ、声には出さず「お兄ちゃんのお友達?」と聞いてきた。僕が肯定する前に、またしても和泉が「そうだよ」と答えてきた。妹は僕の足もとにひっついたまま僕と和泉の顔を交互に見る。それからほうっ、と首を傾けてからなにか感心をしたように

「おにいちゃんのおともだち、おひめさまみたいだねー」

 と言った。

 妹のその言葉に、兄である僕はひどく間抜けな顔を作りそれから和泉の顔を見て、「お姫様だって」と言ってやる。

「どうする? 王冠でもかぶる? おもちゃだけど。探せば多分、見つかるよ」

 なんて言うと和泉紗枝は、「かぶんないよー」という困ったような恥ずかしそうに両手を振った。



 和泉紗枝は本当に何でもできる人間なのだということを身にしみて感じる。

 ネギとか卵だとか体に良さそうなものを真っ赤な顔の千尋に食べさせて、それから枕元でお姫様と王子様のお話を読んでやり、すっかり千尋に懐かれた彼女が二階にある妹の部屋から降りて来たのは二十時を過ぎてからだ。

 大して面白くもないテレビをつけながら社会のノートを開いていた僕は、「千尋ちゃん寝たよ」という彼女の声でペンの先から視線を上げる。階段から降りてきた和泉がセーラー服の上にエプロンをつけて、目の前に立っていた。

 僕は一度和泉の顔を見て、それからまた手元に視線を戻して彼女の言葉を繰り返す。

「千尋、寝たんだ」

「うん」

 和泉は腰の後ろに手を回し、エプロンの紐をするすると解いた。それから首の後ろの紐を髪の毛をくぐらせるようにして取り、僕の隣にちょこんと座った。

「熱、大分下がってたよ。寝る前に一度測ったら三十七度ちょっとだった」

 彼女は正座をした膝の上に水色の母のエプロンを乗せて、丁寧に畳んでいる。僕はノートに最後の一文を書いてシャッ――とそこに赤ペンでラインを引いた。

「セイジのお母さんは? 仕事?」

 僕はマーカーの蓋を閉めてそれをノートの横に置き、その隣にあったシャーペンを手に取る。

「うん。母さん、高校の教師してるから。色々忙しいっぽい。昼間は近くに住んでるばあちゃんが来てくれてた」

 きちんと畳んだエプロンを隣に置いて、和泉はテーブルの上に頬杖をついた。

「お母さん、帰ってくるの遅いの?」

「うん。今日もまた、十時くらいになるんじゃないかな」

「そっか。大変なんだね」

「そうだね」

 それから少しだけ空白の時間が僕らの間を通りすぎ、テレビの中から聞こえてくる誰かの甲高い笑い声が部屋の中に響き渡る。ふいに和泉が座布団の上に放置してあるリモコンを手にとって、ブチンという音を立ててそれを切る。

「セージってさ」

「うん」

「結構面倒見いいんだね」

 その言葉により僕は久しぶりに顔を上げて、真っ正面から彼女の顔をじっと見る。

「そう?」

「そうだよ」

 組んだ手と手の上に顎を乗せた状態で、和泉は顔を傾けた。

「学校だとさ。あんな、周りのことはどうでもいいような顔してるけど。家の中じゃぁいい≪お兄ちゃん≫なんだね」

 和泉の言ったその言葉に、僕は思わずむず痒くなって体を捩る。

「俺、そんなこと言われたの初めてなんだけど」

「そうなの?」

「そうだよ」

 僕はシャーペンをペンケースの中に押し込めて、腕を肩の上にあげて体を伸ばした。

 和泉は少し手を伸ばし茶葉の入った急須を手に取り、ポットの頭を押して湯を注ぐ。熱い蒸気が宙に舞い、ごぼごぼごぼ……と飛沫を立てた。

「わかんないんだね、きっと。そういうのって。当たり前になりすぎてね」

 僕は彼女の顔を見る。和泉は急須を持ち上げてふたを閉じ、輪を描くようにして動かした。

「本当はさ、当たり前じゃないんだよね、こういうのって。熱出したとき誰かが一緒にいてくれたり誰かがご飯を作ってくれたり。他の人はさ。それが当たり前みたいになってるけど。そんなのみんなが当たり前なだけで、ホントは全然当たり前じゃないんだよね」

 和泉は呟くようにそう言うと、一度急須の蓋を開けて中の色を確認し、二つの湯呑に注ぎ入れた。それからふぅ、とため息のような微笑を浮かべた。

「千尋ちゃんは、幸せだよね。こんな風に、心配してくれる人がいてさ」

 そう一言呟いて、ほかほかと湯気の湧き出るお茶を手に取り、熱を冷ますようにしてふぅふぅと息を吹きかけた。

 僕はその瞬間に間違いなく陰りを見せた彼女の顔を見逃さず、少しだけ伏せられて影を作る長い睫毛をじっとみて、それから彼女と同じように、ほかほかと湯気の出る湯呑を手に取った。丸い縁の中では、緑の水が円を描くようにたぷたぷと揺れていた。

 僕は、意味もなく何重にも重ねられた水の輪の数を数えてから、湯呑のふちに口をつけた。テレビの上に置かれた時計が、ちくたくちくたくと音を立てる。その、時計のちくたくちくたくという音が僕らの無言の時を刻み、短い針が何週目かへ行ったとき、湯呑の中身を半分ほど飲みほした彼女がぼんやりと言葉を発する。

「ねぇセイジ」

 彼女の感情の読み取れないその言葉に、声には出さずに視線だけで返事を返す――「なに?」というようにして、底の見えない水晶玉のような彼女の瞳をじっと見る。その、夜の闇のような色をした目の奥に、ぼんやりとした淡い光と僕の姿を映し出した。

 彼女は一瞬俯いて、それからテーブルの上で固く両手を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。

「わたしね――」

 ジリリリリ――

 彼女の言葉を遮るようにして、廊下の隅に置いてある電話がけたたましい音を立てた。滅多に鳴らないその音に、僕は瞬間的に肩を震わせて――それから感情の読めない表情を作る和泉に視線を合わせる。和泉は少しだけ何かを考えるようにして僕を見て、それからふいっと何事もなかったかのようにして目を逸らした。

「セイジ」

「うん」

「電話。鳴ってるよ」

「そうだね」

 廊下の奥では、早く来いとばかりに電話が音を立てている。僕は緩慢な動作で立ち上がると、珍しく鳴った固定電話の受話器を手に取る。

「もしもし?」

『もしもし?お兄ちゃん?』

 母さんだ。

「うん。なに?」

『お母さん、今仕事終わったの。これから帰るから。ちぃちゃんの具合はどう?』

「さっき寝た。だいぶ熱は下がってるから。大丈夫だと思う」

『そう。お兄ちゃん、お兄ちゃんのスマホに三回も電話かけたのに何で出てくれないの』

 スマホ? 僕はぺたぺたとズボンを探り、ポケットの中がペタンコなことを確認する。

「ごめん。部屋に置いてきちゃったかも」

『ちゃんといつも持ってなさい。あ、もう電車来るから。切るわね』

 ぷっ――ツー、ツー、ツー……

 一方的に切られたその受話器を置いて、僕は居間に戻る。立ちあがった和泉が部屋の隅に置いてあったコートを着込み、帰り仕度を始めていた。

「帰るの?」

 僕の言葉に和泉紗枝は、『普通の女の子』の表情を作り「うん」と短く頷いた。

「もう九時になっちゃうし。お母さん、帰ってくるんでしょ」

 そう言いながら赤いマフラーを細い首に巻きつける。僕は、その長い毛糸がぐるぐると巻かれていくその様子を眺めながら、先ほどの続きを考える。

『わたしは――』

 あの時和泉は、一体何を言おうとしたのだろうか。黒い瞳のその奥に、あの日の闇と月を湛えたその色で。

 僕は玄関先で、今まさに帰ろうとしている和泉紗枝にそれを問う。

「和泉――」

 白いスニーカーに足を突っ込んだ和泉紗枝は、何だとばかりの表情でこちらを見て、首を傾げた。そこには先ほど間違いなく見えたはずの暗い影だとか、あの日の丸い月の色だとかそういったものは一切見ることができなくて。

『普通の女の子』であるはずの和泉紗枝に対し、僕はそれ以上踏み込むことを躊躇する。何事だというような表情をした和泉紗枝が首を傾げ、黒々とした髪をさらりと揺らす。

 僕は言いたいことをすべて飲み込んで、それからふっと肩の力を抜いてこう言った。

「帰り道。気を付けてね」

 危ないからね、と僕が言うと、普通の女の子の仮面をかぶった和泉紗枝は、わかってる、大丈夫だよーといい、歯を見せた。

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