第五章 3
ある日の日曜日。僕は和泉紗枝の家を訪れる。
理由は簡単だ。前々から欲しいと思っていたあるアーティストのアルバムを、彼女が持っているといったからだ。
目の前でミルクティーを抱える彼女に、僕は言った。
「そんなのいいよ。明日学校に持ってきてくれればいいから」
気を使ったはずの僕の言葉に和泉紗枝は、
「いいよ別に。だってセイジ、どうせ暇でしょ? うち、来なよ」
と言って、長い髪の毛をさらりと揺らした。
彼女の家は、『ラ・ブール』から更に二十分ほど歩いたところにあった。
例の森江宏樹の遺体の見つかったアパートの前を通り抜け、西野コンクリート工場の脇を歩き、線路の下を通り抜けた。静かなところだった。田圃ばかりではないけれど、どんよりと流れる用水路の周りを家々が囲んでいた。それがあまりにも静かすぎて、まるで風景画のようであった。
その、壮大な風景画の端の方に、和泉紗枝の家は描かれていた。
「ここだよ」
灰色のコートに赤いマフラーをぐるぐると巻いた彼女は、数歩後を行く僕の方を振り返り、目の前にあるものを指した。一階建てで横に広い、茶色い屋根の家。その家の造りを上から下までじっくり眺め、僕はあることに気がついて彼女にそれを質問する。
「和泉さん」
「んー? なにー?」
慣れた様子で敷地内に踏み込んで、玄関先で家の鍵を取り出す和泉に僕は言う。
「これ……『梅宮』って、なに?」
和泉は僕の方へは目もくれず、がちゃがちゃという金属の音を立てると独り言のようにして「開いた」と呟いた。それから施錠の開いた家の扉に手をかけて、黒い瞳をこちらに向けた。
「うん、梅宮。うち、梅宮だから」
さも当然にようにそう言って、誰もいないであろうその家に「ただいまー」と言って入って行った。
「これこれ。このCD」
そう言って和泉が差し出してくれたのは、銀色ですべすべとした傷も汚れもないような新品のCDアルバム。
僕はテーブルの上に置かれたそれを手にとって、彼女に言う。
「え、これ新品じゃないの?」
「そうだよ」
「借りていいの?」
「いいよ別に」
部屋の真ん中には夢の国のネズミのマークの入った小さな丸テーブルが置かれていて、僕はそこに座るように促される。なんだかむず痒くなって身を捩ると、「緊張してるのか」と笑われた。
お茶を入れてくる、と言って自分の部屋を出て行った彼女の背中を見送って、僕はその部屋を観察する。
彼女の家は綺麗だった。女の子の部屋なんて入る機会なんてないし、実際入るもの小学校以来だったりもするのだが、それを踏まえた上で和泉の部屋はよく整っていた。
僕の部屋よりも少しだけ広いその部屋の窓にはピンクと白の水玉模様のカーテンが掛けられていて、花柄の毛布の置かれたベッドの上には先ほど和泉が置いた学生鞄が沈んでいた。茶色い学習机の上には色んな教科書やら本やらと共に青くて透明度のある花瓶が置かれていて、名前の知らない白い花が活けられていた。
クッキーと紅茶を挟み、和泉紗枝と向かい合う。
「なんか以外だよね。セイジって、こういうの聞くの?」
「聞くよ。なにそれ、俺が音楽聞いちゃ悪いの?」
「悪くはないよ。ただ、意外だってこと」
どうでもいいような会話を交わし、僕は彼女に問いてみる。
「あのさ」
「なに?」
「あれ、表札。『梅宮』って、なに?」
紅茶のカップを両手で包み、彼女はこてんと首を傾げた。それから「ああ」というようにしてぱちぱちと瞬きで返答する。
「梅宮。うち、梅宮だから」
先ほどと同じ答え。僕はクッキーをかみ砕きながら、それを問う。
「なんで」
彼女は目の前に置かれていたチョコレートを一つとり、そのビニールのパッケージを剥きながら言った。
「梅宮っていうのはおばさんの苗字。ここ、お母さんの妹の家なの。『和泉』は父方の苗字」
その言葉の意味がいまいち理解できず、クッキーを含んだまま眉を寄せる。
「意味が、よく、わからない」
彼女はもぐもぐとチョコレートを咀嚼して、ぱちぱちと瞬きをした。
「お父さん『いた』でしょ?」
「うん」
僕は、今頃土の中で植物の栄養と化している和泉紗枝の父親のことを思い出す。
「つい最近まで私、『お父さん』と一緒に暮らしてたんだけど。『いなくなっちゃった』から。だから今、おばさんの家にお世話になってるの」
「……ああ」
「おばさんも結婚してるんだけど。でも、子供がいなくてね。女の子が欲しかったんだって。だから結構、よくしてもらえてるんだ」
「そうなんだ」
「うん」
なんでもないような表情でそう言って、彼女はまた、目の前にあるハート形のクッキーに手を伸ばし、さらっと話題を変える。
「そういえばさ。セイジって妹いるんだよね」
彼女の声に目をあげて、僕は首を上下に振った。
「あー……うん」
「幼稚園だっけ。いいね。可愛いね」
彼女はにこりという笑顔を浮かべ、まっすぐに僕を見た。
「ねぇ、今度セイジの家に行かせてよ。わたし、その子に会いたいな」
「えぇ……」
僕が思わず顔を引くと、彼女は「何その顔ー」と言って苦笑いを浮かべた。
「いいじゃん別に。お菓子いっぱい持ってくからね」
彼女は言った。
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