第五章 5
僕は考える。
あの日あの時、和泉紗枝は一体僕に何を言おうとしたのだろうか。
『わたしね――』
あの瞬間僕を映した黒い眼には、あの月の夜と同じような輝きがきらきらと飛び散っていた。今現在僕の目の前で走り回っている学年一位の優等生は、どこにでもいるような普通の顔で、普通の女の子であり、父親を殺した殺人犯の陰などどこをどう探しても見当たらなかった。
彼女は一体、その言葉の後に一体何を続けようとしたのだろうか。
僕の目の前でボールが跳ねて、不規則的に髪の毛が揺れる。バスケットボールが上下して、項の後ろで一つに束ねられた黒い髪が上下に跳ねた。ジャージの袖口から見える華奢な手首と、その延長線上にある細い指先が丸いボールの曲線を撫でる。同じ色のジャージを羽織ったその中を風のように走りぬけ、屈み、ばねのように跳ねあがる。
――がこん。
ピーッ、という笛の音と共に、丸いボールがネットの中を潜り抜け、重力によって落下して着地し、ダムダムという音を立てた。その瞬間、彼女を囲んでいた周囲の人間がワーッという声をあげて彼女のことを取り囲む。普通だ。普通すぎる、平和すぎる光景だ。
束ねられた髪の毛の先をぼんやりと眺めていた僕は、「チーム交代ー」という教師の声と「藤崎―早くー」と僕を呼ぶ桑原の声で我に返る。別の世界へ飛んでいたはずの光景が、再び僕の前に舞い戻る。しっとりとした髪の先から目を逸らし、体育館の舞台から飛び降りてコートの中央へ足を運んだ。
「おい藤崎」
日本全国全ての地域が気温の低いその日の午後、紺色のマフラーを首に纏い薄暗い廊下をひたひたと歩いていた僕は、下駄箱付近で腕を組み仁王立ちをしていた石井健太に声をかけられる。
石井健太は、冗談のような顔に冗談なくらいに真剣な表情を浮かべ、僕を睨んでいた。僕は、古びた木製の下駄箱に寄り掛かる石井と、その石井が発する険悪なオーラを気にしないように気がつかないように同級の間を潜り抜け、自分の靴の前まで移動する。僕の動きを、石井の太い眉毛とでっかい目が追ってくる。気持ち悪いなこいつ。
石井はもう一度「おい、藤崎」と僕の名前を呼んだ。
僕は心の中で小さく息をつき、それから靴を放り投げて「なんだよ」と言う。
「なんか用かよ」
「ああ、すげー大事な用だ」
僕の問い掛けに一拍もおかずに答える石井。僕らのやりとりを、クラスの一人が眺めながら通り過ぎていく。
僕は上履きを脱いで埃臭い下駄箱に押し込める。
「で、なに?」
僕の言葉に、石井はなぜか注意深く辺りを見回した。それにつられて、僕も目線だけで周囲の様子を見渡してみる。
午後の四時半。授業が終ったこの時間、学校唯一の昇降口は騒がしい学生服であふれ返っている。学生服だけではない。ジャージや、ウィンドブレーカーや、寒くはないのか体操服の生徒まで。隅のほうでは、制服の下にジャージを着込んだ受験生が学年主任に注意を受けている。
石井はずいっと息の音が聞こえるほど近くによると「移動しよう」と呟いた。
「ここじゃ話せない。もっと人気のないところへ行こう」
僕の耳元でそう言うと、石井健太は黒ずんだスニーカーに足を突っ込んでずかずかと大股開きで歩き出した。
「で、だ」
そのまま、先を行く石井に連れられやってきたところ。体育倉庫の裏の裏。どうしてみんなこんな湿りきった場所が好きなのだろうと思いつつ、険しい顔で僕と見詰める石井健太と向き直る。
酷く寒い。バリウムのように濃い煙色の雲が天を覆っているからか、ただ単に気温が低いだけなのか。まだこんな時間だと言うのに、僕のいる地表は今にも月が出そうなくらいに陰っている。咽喉の奥が息苦しい。空気が乾燥しているからだろう――その割に、この体育倉庫の裏側は、いつキノコが生えても可笑しくないほど湿っていた。
「お前、和泉さんと付き合ってんの?」
乾いた大木をバックに腕組みをし、これでもかと言うくらいに眉を寄せた石井が発したその言葉に、思わず僕は口を歪め顔を顰めた。
付き合う? そう、付き合う。誰と誰が。俺とお前が? ちげーよ。お前と和泉さんが。俺と和泉さんが?
そういったすっとんきょんなやり取りを繰り返し、僕は思い切り首を傾けた。
「なんで」
「なんでじゃねえよ!」
石井は感情的に吐き出すようにそう言うと、「何人かさ」と少しだけ声のトーンを落とした。
「見た奴がいるんだよ。お前と、和泉さんが、その……デートしてんのを見たって言う奴がさぁ」
はぁ?
石井の口から発せられた思いもよらないような言葉に、僕は思い切り眉を顰めて首を傾けた。
「でーと? って、だれと、だれが」
「お前と和泉さんに決まってるじゃねえか!」
さも、当たり前と言うようにして叫ぶ石井。おいおい石井、冗談は顔だけにしてくれよなどと思いつつ、目の前で腕を組み僕を問い詰める石井の表情が余りに真剣そうだったので、僕は少しだけ真剣に考える。腕を組み、右手の指を顎に下まで持ってきて。視線を伏せて乾いた地面の割れ目を見る。さて、デート。
僕はほんの数秒ぐるぐると考えて、ぽんと両手を叩いて顔を挙げ、今だに眉を寄せている石井健太に向き直る。
「してないよ」
「嘘付け!」
鼻と鼻がくっ付きそうなくらい近くまで顔を寄せる石井に両手で壁を作り、顔を逸らす。
嘘じゃないよ。
「一緒に出かけたり映画みたりしてるだけ」
「デートじゃねえか!」
石井はまたひとつ雄叫びとも言える奇声を発し、だらだらと力をなくしてそのまま地面に座り込んだ。デート。デートね。まぁ、そういう言い方もあるっちゃある。ないっちゃないけど。
石井は両膝を乾いた地面に押し付けてまるで世界の終わりのような表情で呟いた。
「うわー、まじかよ……なんでお前と、和泉さんが……この学校のアイドルが……」
学園のアイドル? ああそうか、そういえばこいつは、和泉紗枝のことを神かなにかと勘違いをしている崇拝者の代表だった。馬鹿だな。アイドルとかいって、そんな完璧な人間この世にいるはずもないのに。
僕はまるで天に答えを問い掛けるかのような態勢を作る石井に些かげんなりとして顔を歪め、ふうと溜息をついて問い掛ける。
「で、それがなに?」
「どっちがさ。どっちが先に誘ったんだよ」
僕の問いかけを思い切り無視して、顔を覆った指の隙間から覗きこむようにしてそう言った。僕は一言言いたいのをぐっと我慢してこう答える。
「和泉さん」
僕のその一言に、石井健太はこれでもかというくらいに表情を失くした。信じられないと言うようにして口を開け目を見開いてうるうると目を潤ませると「まじかよー……」と、今にも鳴きそうな、消え入りそうな声で頭を抱えた。
「なんで、和泉さんはこんな……中途半端に影の薄い、対して面白みもないような奴と……」
石井のあまりの言い分に、思わず僕は腕を組んで口を歪ませる。酷い言われようだな。反論できないけど。
隙間風の入り込むマフラーを直し、僕は言う。
「それはこっちが聞きたいよ」
「あー、もー、くそー! なんか変だなーとは思ってたけど! 藤崎だけは絶対ないって思ってたのに!」
何を根拠にそんなことを思っていたのか。僕はげんなりと肩を落とす。この、騒がしいクラスメイトは一体何所まで人の話を聞かないのか。
石井健太は八つ当たりをするようにして、乾いた地面にダン! と両手の拳を打ちつけて(それから少し痛がって)なぜか縋るような目で僕を見上げた。
「……どこまで」
「は?」
「どこまで、行ってんだよ」
どこまで? 僕は石井の言葉の意味を少しだけ考えて、こう答える。
「近場では近所の喫茶店だとか。休みの日に遠出する時は小宮市だとか」
「お前らのデートコースはどうでもいいんだよ!」
なぜか涙目で叫ぶ石井。そうじゃないって、じゃあなにが聞きたいのか。
石井は何故か気まずそうにして僕からひょいと視線を逸らし、泥や砂のこびりついた体育倉庫の壁を見た。それから、「だから」と何故か声のトーンを低くして、口を濁す。
「その……キ…」
「き?」
「キス、とかって……したのかなって……」
体育倉庫の壁を見ながら顔を赤らめる石井の顔は大層不気味で気持ち悪かったが、それはまぁどうでもいい。
ああ、そういうことねと納得し、僕は首を左右に振る。
「してないよ」
「て、手ぇ繋いだりとか……」
「繋いだことは、ない」
俺が勝手に触ったことは何度かあるけど、と石井に聞こえないようにして胸中でこっそりと付け加える。僕の言葉に、石井健太はほっとしたように胸を撫で下ろしたように見えた。それから石井は、それまでずっと地面に引っ付けていた腰を上げ、両膝についた砂利と砂をパンパンと叩き落とした。
「にしても、ほんとにわかんねー。どうして『あの』和泉さんが、お前なんかと」
一体何がきっかけなんだよ。と、先ほどよりも幾分落ち着いたような声色でいう、石井。石井は、信じられない現実を幾分受け入れてきているようで(その前に僕らは付き合っていないのだが)だいぶ冷静な瞳で僕の事を見れるようにはなってきている。
返答できないその声に、僕は「わからない」と一言返す。分かるけど。分かるんだけどでも僕には、彼女のそんな胸中などわからない。
「なんでだろうな。不思議だよな」
僕の言葉に、石井はまた「はぁー」という盛大な溜息をつき、がくんと言う音を立てて肩を落とした。
「うわぁー、ないわぁ。まじないわぁ……」
またしても石井の理解できない言動に、僕は首を傾げて眉を寄せた。今日の石井は全くもって分からない。いつもだけど。
「なにが」
「和泉さん、こんな透明人間みたいな奴の一体何所を好きになったんだろう」
好き?
「それは……和泉さんに直接聞いてみればいいんじゃないの?」
僕の明快な返答に、石井は真っ赤な顔で「聞けねぇよ!」と一言叫んだ。
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