第60話
「……んを残さないと」
「え?」
目蓋を開けると、俺の真向いに座った姫条がこっちを見ていた。柳眉がくい、と持ち上がる。
「寝言? 昼寝している自縛霊を見たのは初めてよ」
俺は頬を押し付けていた机から顔を離した。頭の中が朦朧としている。夢を見ていたのは覚えているが、内容は定かではない。綺麗な女の子と話していた気がする。
机を見つめ、無様に涎は垂らさなかったようだな、と茫漠と思ったが、涎の出る身体じゃないことに気付いた。
「……いつから俺、寝てた?」
「知らないわ。私はつい数分前に鍵の開いてた理科準備室に入ってきたばかりよ」
「そうか」
俺は頭を軽く振り、改めて数分前に来たという姫条を見る。彼女の前には紅茶の入ったカップが置かれていた。中身は半分くらい飲まれていて、残りも湯気が立っている気配はない。
「他人の寝顔って面白いわね。見てて飽きないわ」
俺の視線と思考を読んで弁明するかのように姫条は言った。それから、おもむろに自分のカバンからメモ帳を取り出す。
「調べたわ、あなたのこと。名前は若宮悠斗(わかみやゆうと)、享年十六歳。生きていれば、今高二。死因は余命宣告による精神的苦痛からの入水自殺」
「嘘だ」
姫条がびくりとして口を噤んだ。
「……自殺じゃない。俺は自殺なんかしない。俺が毎晩十二時に戻るのは校庭の倉庫なんだ。川で死んだんじゃない……!」
「これは警察が下した判断で、世間ではそう思われてるってだけの話よ。事実と異なることがあってもおかしくないわ」
宥めるように言われて俺は沈黙した。
「あなたの病気、国内でも珍しい難病だったみたいね。発作がいつ起こるかわからないから、高校通学は断念せざるを得なかったらしいわ。あなたは何度も学校へ行きたいと周囲へ零してたみたいだけど。入院生活はきっと退屈だったんでしょうね。死んだ日は初めて外出が許された日だったそうよ。実家の場所は……」
そこで区切り、姫条はメモ帳を閉じた。
「知りたいときに教えるわ。今、住所言われても覚えられないでしょ。行きたいときは言って。付き添ってあげることはできるわ」
数日前、病院で思いがけず自分について知ってしまったことを思い出した。
あの場に姫条がいてくれてよかったと思う。でなかったら、最後まで聞くことはできなかっただろう。
「……ありがとな。そのときは頼む」
途端に姫条はわずかに頬を紅潮させる。
「わ、私はそれが任務だから、別にお礼を言われるようなことじゃ……」
感謝されることに慣れていないのか、しどろもどろになる姫条に俺は小さく笑う。
「そんなことより、あなたの未練よ。身元がわかったのは大きな進歩だけど、未練を思い出せなければ意味がないんだからね」
怒ったように言って姫条は冷めた紅茶を口に運ぶ。その袖から黒いミサンガが覗いた。
「なあ、俺の未練が叶わなくてもおまえは俺を封印することができるんだろ?」
苦いものでも飲み込んだみたいに姫条の眉が寄った。
「それはできるけど……」
「なら、安心だな。いざとなれば、俺が誰かに憑く前におまえが何とかしてくれるってことだろ」
「バカなこと言わないで」
睨まれた。姫条の怜悧な瞳が俺を射る。
「絶対に諦めないわ。私はあなたを成仏させるためにやっているの。封印されたら増幅器を壊さない限り魂は解放されないのよ。それは永久的に生まれ変われないと言っているようなものなの。私はそんなこと、あなたにしたくない」
右手首を握り締める姫条に俺は手を伸ばした。透けて重なる手に姫条が驚いたように身体を震わせる。
「夢の中でも誰かにそんなこと言われた気がする」
「え?」
「諦めたらダメだって。希望を捨てたら、終わっちゃうって」
視線が交錯した。生者と死者。本来なら交じり合わないはずの視線が絡み、
理科準備室のドアが勢いよく開かれた。
「先輩! 今日からわたし、部活復帰しま……」
陽來の盛大な声は尻すぼみに消えた。
慌てて手を引っ込めて陽來を凝視する俺。気まずい表情で俯く姫条。
理科準備室に漂うすさまじく微妙な空気に、陽來の満面の笑みは次第に凍りついていき、
「…………せん。お、おおお邪魔しましたー!」
スパン、とドアが閉まる。
「へ? あ、え、ちょ、陽來!?」
思わず立ち上がった俺は、呆れ顔の姫条と沈黙するドアを数回見比べ、
「追わないと勘違いされたままよ」
その一言で俺は駆け出した。
陽來の名を叫んでその背を追う。たぶん、これが俺が過ごしたかった高校生活なのだろうという気がした。
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