第59話


 夢を見た。



 白い壁、白いベッド。身体を起こした俺は窓の外を眺めている。


「ねえ、考える気あるの?」


 突如、横から声がした。

 見ると、俺のベッドの上で雑誌を広げた少女が、拗ねた表情で俺を覗き込んでいた。


 漆黒の瞳が黒曜石のように美しかった。肩より長い髪に、大人びた綺麗な顔立ち。ドキドキするようなふっくらとした唇。


「あるよ」

 何の話をしているのかもわからず俺はそう返していた。あのときと同じ返答。

 あのとき。――そう、これは記憶の断片だ。


 途端に少女は形のよい眉を寄せ、雑誌を俺へ突きつける。


「じゃあ、教えて。どこに行きたい?」


 言われて俺は雑誌に目を落とす。見開きで載っている水族館の写真が目についた。マリンブルーの水槽が綺麗だと思う。だが、それをわざわざ見に行きたいとは思わなかった。


「任せるよ。きっと俺はどこに行っても楽しいし」

「――それじゃ、ダメなの」


 少女は頬を膨らませて俺を睨んだ。投げやりな俺の胸中を見透かしているみたいだった。


「わたしもいろいろ考えて折り込みつけてみたんだけど」


 言いながら少女は俺の横へ座り、もたれてきた。


「やっぱりわたしが決めたらダメだと思うの。入院して初めての外出許可なんでしょ。行きたいところがあるはずよ」


 少女は雑誌を捲り始める。俺としては雑誌よりも密着している身体の方が気がかりだった。彼女の体温がじんわりと温かく、心地よい。ずっとこうしていられたらいいのにな、と漠然と思った。


 ふと気付くと、少女の手は止まっていた。


 どうしたんだろうと思って視線を落とすと、文字が目に入った。『大人の階段登る贅沢ラブホ』。



「っ!」


 身じろぎした俺の太腿に彼女の手が触れた。


「……………………わたし、××がいいなら……」

「ここはダメだろ!」


 俺は勢いよく雑誌を閉じた。

 心臓を落ち着けるため窓へ目を遣る。春一番が吹いているのか、蕾ばかりの桜の枝はしきりに揺れていた。


「……××はデートが未練になる程、単純じゃない、か」


 低く呟く少女。平常心を取り戻すのに忙しい俺は、それを聞き流した。


「……なんでだよ。もう別れようって言ったじゃないか。教えたろ。俺の余命は……」

「そんな理由で別れるなんて許さないって、わたしも言ったじゃない」


 幾度となく繰り返したやり取りに、ため息が洩れた。


「お願いだから真面目に考えて。何かやりたいことはないの? 元気になって退院したらしてみたいこと」

「だから、そんなこと考えるだけ無駄なんだよ」

「いいえ、無駄じゃない」


 少女は俺をじっと見つめていた。異様な光を放つ漆黒の双眸が俺を捉える。俺は彼女の瞳に映る自分を見たくなくて目を逸らした。



「わたしが無駄にさせない。絶対に諦めたらダメなの。希望を捨てたら本当に終わっちゃう。何でもいいから考えて。未練になりそうなことを。なんとしても未練を残さないと――」

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